第17話 奇跡と呼ばれて
メルが粥を食べた、という話は、昼前には村じゅうに広まっていた。
それだけなら、よくある回復の話だ。でも——治癒師が来ていない、という事実が、話を変えた。
「ガルドのとこの末娘が、ハンナの薬だけで熱が引いたらしい」
「ハンナさんの薬って、どんな薬だ?」
「聞いたら、遠くの知恵者に教えてもらったとかなんとか」
「遠くの知恵者? そんな人が村に来たのか?」
「来てないらしい。どうやって教わったんだ?」
井戸端で、広場の隅で、村人たちが声を潜めて話している。僕は市場の端っこを歩きながら、その声の断片を拾っていた。
知らないふりをして、でも聞いていた。
◇
「ノア!」
背後から、声がかかった。
振り返ると——ダグだった。
昨日と別人みたいに顔色が戻っている。目の下の隈も、まだ消えていないが、青ざめた昨日の顔よりずっとましだった。
「……メルの様子は」
「今朝から、粥を食えてる。熱も、もうほとんどない」
「そうか。よかった」
「ああ」
ダグが、少し間を置いた。
腕を組んで、足元を見て、それからまた僕を見た。こういう顔をするダグを、初めて見た気がした。何かを言いたいのに、言葉の出口が見つからない顔だ。
「ノア」
「うん」
「お前が——」
また止まる。
「……あの薬。お前が持ってきたんだろ」
「ハンナばあちゃんの薬だ」
「でも、お前が——何かしたんだろ」
否定しなかった。肯定もしなかった。
ダグが、唇をかんだ。
「昨日、邪魔するなって言った。……すまなかった」
予想していなかった言葉だった。
ダグが謝る。それだけで、朝から起きたことの全部が、少しだけ色を変えた気がした。
「怖かったんだろ」
「……うるさい」
「わかってる」
「わかってんなよ」
ダグは顔をそらして、小さく言った。
「お前、すげえな」
「……」
「薬草のこと、ずっとそんなに知ってたのかよ」
「母さんとハンナばあちゃんに教えてもらった」
「そういうの——俺、知らなかった」
ダグが、また足元を見た。
謝り慣れていない人間の、不器用な沈黙だった。
「メルが元気になったら、また来い。あいつ、お前に礼を言いたがってた」
「五歳が、礼を?」
「薬、甘かったって。それだけ言いたいらしい」
思わず、笑いそうになった。こらえて、でも、口の端が動いてしまった。
「わかった。また来る」
ダグが頷いて、踵を返した。背中が、少し、丸かった。
◇
「よかったですねえ」
楓太が、モニターの前でしみじみと言った。
「ダグさん、謝ったんだ」
「ソラの記録では、そう聞こえました」
「あの感じ、わかります。謝り慣れてない人が初めて謝るやつ。見てるこっちも、なんか、じーんとしますよね」
「楓太さん、似たような経験が?」
「俺のことはいいです」
美緒は、モニターを見ながら静かに息を吐いた。
メルの熱が引いたこと。ダグがノアに向き合ったこと。どちらも、昨日の夜には確信がなかったことだ。
「工藤さん、柳瀬先生に報告しないといけないですね」
「もうした」
「え、もうですか」
「朝一番に。回復した、ありがとう、と。それだけだ」
「……なんか、工藤さんらしくないほど早いですね」
「うるさい」
工藤が、端末に向かったまま言った。
その横顔が、いつもと同じ無愛想な顔なのに——どこか、やわらかかった。
◇
昼過ぎ、ハンナばあちゃんが帰ってきた。
ダグの家に朝から付き添っていたらしく、疲れた顔をしていたが、目が穏やかだった。
「メルちゃん、ちゃんと笑ってたよ」
「そうか」
「ガルドさんが、頭を下げてくれた。エーラさんも」
「ばあちゃんへの礼だろ」
「ノアへの礼も、だよ」
僕は黙った。
ばあちゃんが、湯呑みを持ちながら続けた。
「村の人たちが、いろいろ言い始めてる。治癒師もいないのに、なぜ熱が引いたかって」
「……うん」
「どう答えるかは、ノアに任せるよ。私の薬として届けたのは本当のことだから、ハンナの薬で治った、それだけでいい。でも——」
ばあちゃんが、こちらを見た。
「長くは保たないと思う。遠くの知恵者とは何者か、薬はどこで手に入れたか——誰かが、必ず聞いてくる」
「村長が、か」
「そうなる前に、ノアが自分で考えておかないとね」
◇
「ノア、今日の村の様子はどうですか」
夕方、枠の前に座ると、ミオが早々に聞いた。
「騒がしい。メルのことが広まって、みんなが不思議がってる」
「治癒師なしで回復した、ということが?」
「うん。ハンナばあちゃんの薬、って伝わってるけど——どこで手に入れた薬か、誰も知らないから」
ミオが、少し眉を寄せた。
「村長は、何か言ってきた?」
「まだ。でも、ばあちゃんが——長くは保たないと思う、と言ってた」
枠の向こうで、クドウが何かを叩く音がした。フウタが地図のようなものを広げてミオと話し合っている。
「ノア」
ミオが、静かに言った。
「一つ、聞いていいですか」
「うん」
「村長に、話すとしたら——箱のことを、どこまで話せると思う?」
「……わからない。村長が、どういう人かによる」
「どういう人?」
「現実的な人だ。霊だとか精霊だとかを信じない。でも——嘘も嫌いだ。おかしいと思ったことは、必ず調べる」
「それは——」
「怖い人じゃない。ただ、隠し通せる相手でもない」
ミオが、しばらく黙った。
「正直に話すことも、ひとつの選択だと思う」
「箱のことを?」
「うん。全部じゃなくていい。でも——ミオたちのことを、信頼できる人に知っておいてもらう。それは、ノアを守ることにもなるかもしれない」
「守る?」
「今はノアが一人で秘密を抱えてる。でも、信頼できる大人が知っていれば——ノアが何かに巻き込まれたとき、助けてくれる人が増える」
僕は、それをしばらく考えた。
ハンナばあちゃんが知ってくれた。ティナが一緒にいてくれた。だから、今日まで来られた。
「……もう少し、考える」
「うん。急がなくていい」
「でも——村長に呼ばれたら、考えてる時間はないかもしれない」
「そうしたら——そのとき、話して。私たちも一緒にいる」
枠の向こうで、フウタが顔を上げた。クドウも、こちらを見た。
みんな、聞いていた。
◇
「向こうの事情が、動き始めましたね」
楓太が言った。
「治癒師なしでの回復は、あの世界では確かに異常だ。誰かが不思議に思うのは当然だ」
工藤が腕を組んだ。
「村長が動いたとき、どこまで説明するか——それはノアが決めることだ。私たちが決めることじゃない」
「でも、一緒に考えることはできる」
美緒が言った。
「そう。それが、今私たちにできることだ」
ソラが、静かに言った。
「村長がどういう人かを、ノアはよく知っています。現実的で、嘘を嫌う。その人が信頼に値するかどうかも、ノアが一番わかっている」
「信頼できる人間かどうか、画面越しでも確かめられますよね」
楓太が言った。
「ティナさんのときみたいに」
工藤が、静かに頷いた。
「あのとき五秒で笑い返してきた子だ。村長が、どんな顔をするか——見てみたいと思うのは、私だけじゃないだろう」
美緒は、思わず笑った。
こういうことを、工藤が言うとは思っていなかった。
◇
夜になって、村長の使いが来た。
「村長が、明日の朝、話を聞きたいと言っている」
ガルドさんだった。
疲れた顔の中に、少し、申し訳なさそうな色があった。
「メルのことで、いろいろと騒ぎになってしまった。村長は、何があったかを知りたがっている。お前を責めたいわけじゃない。ただ——」
「わかった」
「……いいのか」
「行く。明日の朝、行く」
ガルドさんが、また頭を下げた。ダグによく似た、不器用な頭の下げ方だった。
夜、箱を取り出してソラに話しかけた。
「明日、村長のところへ行く」
「わかりました。ノア、怖いですか」
「少し。でも——ばあちゃんが話を聞いてくれたとき、あんなに怖くなかった」
「それは、話す前から結果が見えていたからじゃないですか。ハンナさんなら大丈夫だって」
「村長は、わからない」
「そうですね。だから怖い」
「うん」
「でも——ノアは、話すことを選んだ」
「選んだかどうかは、まだわからない。でも——逃げるより、話した方がいい気がしてる」
「どうしてですか」
「逃げても、追いかけてくるから。いつかは話さないといけない。なら——早い方がいい」
「それが、ノアなんですね」
「どういう意味?」
「怖くても、逃げない。箱に触れた最初の日から、ずっとそうです」
風が、木々を揺らした。
境の樹の葉が、さわさわと音を立てた。
「ソラ、明日——そばにいてくれるか?」
「います。ずっと」
「ありがとう」
「おやすみなさい、ノア。明日、一緒に行きましょう」
箱を洞にしまって、僕は空を見上げた。
星が出ている。あちらの世界とは違う、知らない並び方の星が。
でも——見上げているのは、向こうも同じかもしれない。違う空でも、同じ夜に。
奇跡、と村の人たちは言い始めている。
でも、奇跡じゃない。ミオたちの知識と、ばあちゃんの手と、ティナの火と、走り続けた僕の足が、重なってできたことだ。
それを、明日——村長に、どう伝えるか。
全部は話せないかもしれない。でも——話せることを、ちゃんと話す。
それだけのことが、今は少しも怖くなかった。




