第16話 夜明けまで
夜の森は、静かだった。
虫の声がして、木の葉が風に揺れて、遠くで梟が鳴いた。それだけで、他には何もない。
僕は境の樹の根元に背をもたれて、箱を膝の上に置いていた。
村には戻れなかった。
戻って、寝台に横になっても、眠れる気がしなかった。メルの浅い呼吸が、耳から離れない。暗い部屋の隅で見た、小さな体が。スプーンを口に当てたばあちゃんの、静かな手が。
「ソラ」
「います」
すぐに、答えが返ってきた。
「眠れないの?」
「うん」
「そうですね」
ソラは、余計なことを言わなかった。ただ、いる、と伝えてくれた。それが、今は一番ありがたかった。
「メルの様子は」
「先ほど薬を飲んでしばらくは変化がありませんでしたね」
「変化がない、ということは」
「悪化していない、ということです。薬が効き始めるまで、もう少し時間がかかります」
「どのくらい?」
「明日の朝から昼にかけて——変化が出てくる可能性があります」
「……そっか」
木の根が、背中に当たっている。冷たい。でも、立ち上がる気になれなかった。
「ソラは、眠らないの?」
「私は眠りません。ずっとここにいます」
「そう」
「ノアが話したいなら、聞きます。話したくなければ、ただここにいます」
僕は、空を見上げた。
木々の隙間から、星が見えた。あちらの世界と違う並び方をしている星。名前も知らない、見たことのない星座。
「ソラ」
「はい」
「母さんのこと、話してもいい?」
「もちろんです」
母さんが倒れたのは、僕が十歳の秋だった。
最初は、ただの風邪だと思っていた。熱が出て、少し寝ていれば治ると言っていた。でも、三日経っても熱は下がらなかった。腹を壊して、水も飲めなくなって——治癒魔法をかけてもらったけど、効かなかった。
「強い魔法の使い手じゃないと、難しいかもしれない」
村の治癒師が言った。
「街から呼ぶ? でも時間がかかる」
ばあちゃんが街へ使いを出した。でも——間に合わなかった。
母さんは、それから五日で逝った。
「あのとき——何もできなかった」
「ノアは十歳でした」
「十歳でも、何かできることがあったはずだ。もっと早く水を沸かしていれば。もっとよく症状を見ていれば。今なら——」
「今のノアが知っていることを、あのときのノアは知らなかった」
ソラが、静かに言った。
「知らなかったことは、罪じゃない」
「でも——」
「ノア。あなたは十歳で、お母さんを亡くして、それでも森に通い続けた。なぜですか」
僕は、少し考えた。
「母さんが教えてくれたことを、忘れたくなかったから」
「他には?」
「……森にいると、母さんが近くにいる気がしたから」
「それだけですか」
木の葉が、風に揺れた。
「もし——誰かが同じように倒れたとき、今度は何かできるかもしれないと思ったから」
ソラは、少しの間、黙っていた。
「それが、答えだと思います」
「答え?」
「ノアが知識を手放さなかった理由。魔法が使えなくても、出来損ないと言われても、それでも森に通い続けた理由」
「……」
「誰かを、守りたかったから」
木の根の感触が、少し、やわらかくなった気がした。
寒くなってきた。夜の森は、よく冷える。でも——立ち上がる気には、まだなれなかった。
「ソラ」
「はい」
「僕は——本当に、出来損ないなのかな」
風が止んだ。
木々が、しんと静まった。
「違います」
ソラが、はっきりと言った。
「ノアは、出来損ないではありません」
「魔法が使えないのに?」
「魔法が使えないことと、出来損ないであることは——別のことです」
「村では、同じことだ」
「村では、そうかもしれない。でも——私が見てきたノアは、違います」
ソラの声は、いつもと同じ、穏やかな声だった。でも——どこか、いつもより、真剣な響きがあった。
「コラルの腹下しを直感したのは、ノアです。上流の倒木に気づいたのも、ノアです。メルの呼吸数を数え続けたのも、ノアです。今夜、ここに残って眠れないでいるのも——ノアです」
「それは——」
「魔法じゃない力で、できることです。ノアだから、できたことです」
僕は、何も言えなかった。
「出来損ないという言葉は、誰かが誰かを傷つけるために作った言葉です。その言葉に、ノアの価値は、一つも入っていない」
夜の森が、静かに広がっていた。
「……ソラは、どうしてそんなにはっきり言えるの」
「私は、最初からノアを見ています。箱が現れた最初の日から。逃げなかったノアを、見ています」
「怖かったから、逃げられなかっただけだ」
「怖くても、逃げなかった。それが、ノアです」
東の空が、少しずつ白み始めていた。
夜が終わる。
僕は膝の上の箱を見た。冷たい、黒い表面。あの日、初めて触れたとき、心臓が速く打っていた。怖かった。声の意味が全くわからなくて、枠の中に知らない人たちがいて——それでも、逃げなかった。
あのとき逃げていたら、今日はなかった。
ばあちゃんが枠の中のミオたちを見て「いい人たちだね」と言う今日も。薬がメルの口に届いた今日も。
「ソラ」
「はい」
「ありがとう。今夜、一緒にいてくれて」
「どういたしまして」
「眠れないのに、付き合わせた」
「眠りませんから、問題ありません。それに——」
ソラが、少し間を置いた。
「私も、話せてよかったです」
空が、橙色になり始めた。
鳥が、一羽、木の上で鳴いた。
そのとき、村の方角から、声が聞こえた。
走る音がした。誰かが、息を切らして走ってくる音。
草をかき分けて、倒木を飛び越えて——
「ノア!」
ダグだった。
顔が、赤かった。目が、血走っていた。昨日の、青ざめた顔とは違う。これは——
「熱が!」
ダグが、膝に手をついて、息を整えながら叫んだ。
「熱が——引いたんだ! メルの熱が!!」
◇
「ソラ!」
美緒が、モニターから身を乗り出した。
「確認できますか」
「はい。ノアのカメラ越しに確認——ダグさんの表情から、メルさんの状態に変化があったと推測されます」
「ノアの顔を見ればわかる」
工藤が、静かに言った。
モニターの中で、ノアが立ち上がった。
箱を抱えたまま、ダグの顔を見ていた。
ダグが——泣いていた。声を上げて泣くのではなく、ただ涙が流れていた。泣いていることに、気づいていないような顔で。
ノアの表情が、ゆっくりと、ほぐれていった。
「よかった」
楓太が、震える声で言った。
美緒は、何も言えなかった。
目の奥が、熱くなった。こらえようとしたけれど、うまくいかなかった。
「泣かないでくださいよ、美緒さん」
「泣いてない」
「泣いてますよ」
「うるさい」
工藤が、端末に向かったまま、小さく息を吐いた。
その横顔が——いつもより、ずっとやわらかかった。
◇
ダグが泣いているのを、見たことがなかった。
いつも声が大きくて、威勢がよくて、誰かを笑い飛ばしていた。それがダグで、それ以外のダグを、僕は知らなかった。
「本当に——引いたのか?」
「引いた。さっき、ハンナさんが額を触って、笑ったんだ。引いてるって。メルが——目を開けて、水を飲んだ」
「そうか」
「ノア」
ダグが、顔を上げた。
目が赤い。唇が、少し震えている。
「お前が——」
言いかけて、止まった。
続きを言えないのか、言わないのか、わからなかった。
「いい」
僕が言った。
「言わなくていい」
「でも——」
「メルが元気になればいい。それだけだ」
ダグは、また少し黙った。
それから——不器用に、小さく頷いた。
朝の光が、森に差し込んでいた。
夜が終わった。
ソラと話しながら越えた夜が。眠れないまま、ずっと耳を澄ませていた夜が。
「ノア」
箱の中から、ミオの声がした。
朝の、少し眠そうな声だった。
「おはよう、ノア。聞こえてた」
「……うん」
「よかったね」
「うん」
それだけだった。
それだけで——十分だった。
木々の梢の向こうに、橙色の空が広がっていた。
新しい朝が、来ていた。
さて、ここまで読んでくださってありがとうございます。
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ノアたちの旅は、まだ続きます。次の話では、村がまた少し、動き始めます。
次話も、一緒に歩いてもらえたら嬉しいです。




