第15話 出来損ないの薬
翌朝、ハンナばあちゃんは一番早く起きていた。
僕が台所に下りると、すでに薬草の小袋をいくつか布に包んでいた。手際がいい。関節が痛むはずなのに、指が淀みなく動いている。
「準備、してたの?」
「もちろん。今日、行くんだろ」
「うん。でもその前に——箱を、見てほしい」
「ああ、そうだったね」
ばあちゃんは包みを脇に置いて、僕を見た。
「行こうか、森に」
境の樹の根元に着いたとき、朝の光がちょうど木々の間から差し込んでいた。
僕は洞から箱を取り出して、ばあちゃんの前に置いた。
ばあちゃんが、しゃがんで、じっと見た。
触れていい? と目で聞くから、うなずいた。
ばあちゃんの指先が、黒い表面をそっと撫でた。
「冷たいね」
「うん」
「金属じゃない。石でもない。なんだろう」
「わからない。向こうの世界の素材らしい」
ばあちゃんは、もう少し眺めてから、立ち上がった。
「触れてみなさい」
「うん」
手のひらを表面に当てると、光が走った。
枠が開いた。
ミオの顔が現れた。朝の光の中で、少し眠そうな目をしている。でも、すぐに枠の前に身を乗り出した。
「ノア——それから、ハンナさん?」
「うん。紹介したくて」
「はじめまして」
ミオが、はっきりとした声で言った。
ばあちゃんは、しばらく、枠の中を見つめていた。
動く絵の中に、人がいる。声が届く。それだけのことが、ばあちゃんにはどう見えているのだろうと、僕は少し不安だった。
でも——ばあちゃんは、笑った。
「はじめまして。ノアの祖母の、ハンナといいます」
ソラが翻訳した言葉が流れる。ミオが、また笑い返した。
「ノアには、いつもお世話になっています」
「こちらこそ」
ばあちゃんは、ミオの顔を、それからクドウの顔を、フウタの顔を、一人ずつ、丁寧に見た。
探るような目じゃなかった。確かめるような目だった。
どんな人たちなのか。ノアを大切にしてくれているのか。信じていいのか。
長い時間、薬師として人を見てきた目が、静かに動いていた。
そして——もう一度、笑った。
今度は、最初より、少し深く。
「いい人たちだね、ノア」
「……うん」
「安心した」
それだけ言って、ばあちゃんは包みを持ち直した。
「さて。行こうか」
◇
ハンナは、歩きながら考えていた。
動く絵の中にいた若い女性——ミオという人の目が、ずっと頭に残っていた。
心配している目だった。メルのことを。ノアのことを。
見たことのない場所にいて、見たことのない服を着ていて、言葉も違う。それでも——誰かを案じる目の色は、どこの世界でも同じなのだと、ハンナは思った。
ノアがこの一月、毎日森へ通っていたこと。帰ってくるたびに、少し背筋が伸びていたこと。誰かに「すごい」と言われたような顔をしていたこと。
聞かなかった。聞けなかったのではなく、聞かなかった。
この子が話す気になるまで、待とうと思っていた。
ノアの母——エリアが、まだ生きていたころ、こんなことを言っていた。
「お母さん、ノアはきっと、普通の子とは違う育ち方をすると思う。押したら折れるから、待たなきゃいけない子なんだと思う」
待った。
三年間、ずっと待った。
昨日、台所でノアが話し始めたとき、ハンナは泣きそうになった。顔には出さなかったけれど。
やっと話してくれた、と思った。
それだけで、十分だった。
ダグの家が見えてきた。
ハンナは足を止めずに、扉を叩いた。
「ガルド。ハンナだよ」
すぐに扉が開いた。ガルドが出てきて、ハンナの顔を見て、それからノアの顔を見て——眉を寄せた。
「ハンナさん。こいつは——」
「私が連れてきた」
ハンナが、静かに言った。
有無を言わせない、でも穏やかな声だった。
「入っていいかい」
◇
部屋は薄暗かった。
窓の布が下ろされていて、昼間でも外の光が入りにくくなっている。隅に置かれた水差しから、かすかに湯気が立っていた。ティナが昨日から沸かし続けてくれている水だ。
メルが、奥の寝台に横たわっていた。
布団を顎まで引き上げて、目を閉じている。呼吸が、浅い。胸が小さく上下するたびに、かすかな音が聞こえた。
ハンナはゆっくりと近づいて、額に手を当てた。
「……まだ高い」
目の縁が、少し、動いた。
長年薬師をやってきた。高熱の子どもを、何人も見てきた。治癒魔法の届かない場所で、できることを尽くして、それでも間に合わなかったことも、あった。
この子は——間に合わせなければならない。
「ダグ」
後ろで、ダグが壁にもたれて立っていた。ガルドとエーラも、部屋の端に立っている。
「薬を持ってきた。飲ませたい」
「……どんな薬ですか」
エーラが聞いた。
「遠くの知恵者に教えてもらった。ちゃんとしたものだ」
「ハンナさんが言うなら——」
「待ってくれ」
ダグが、前に出た。
ハンナを見て、それから——ノアを見た。
「そいつが持ってきた薬じゃないですよね」
「ダグ」
「ノアの薬を、メルに飲ませるんですか。出来損ないが持ってきた、どこの——」
「ダグ」
ハンナの声が、静かに遮った。
部屋の空気が、少し変わった。
ハンナは、ダグを真正面から見た。
怒っていない。責めてもいない。ただ——真剣な目だった。
「私はね、ダグ。長いことこの村で薬師をやってきた。お前のお父さんが子どもの頃から、ずっとね」
「……はい」
「その間に、魔法で救えなかった命を、いくつも見送ってきた」
ダグが、黙った。
「魔法は強い。でも——万能じゃない。それを、一番よく知っているのは私だよ」
ハンナは、手の中の小袋を見た。
「この薬は、ノアが繋いでくれた縁から来ている。どこからどう来たかは、今は言えない。でも——私は信じている。この子の目を、長年見てきたから」
「でも——」
「ダグ」
ハンナは、ダグの目をまっすぐに見た。
「お前は今、怖いんだろう。それでいい。怖くて当然だ。大事な妹が、目の前で弱っていく。何もできない自分が、情けなくて、怖くて、誰かにぶつけたくて——その気持ちは、わかる」
ダグの目が、揺れた。
「でも——今は、怒っている場合じゃない」
ハンナは、静かに続けた。
「私が保証する。この薬を、メルちゃんに飲ませていいかどうか——それは、私が責任を持って判断した。薬師として。この村で一番長く、病を見てきた者として」
誰も、何も言わなかった。
ガルドが、妻のエーラを見た。エーラが、小さく頷いた。
ダグが——壁から離れた。
扉の方へ歩いていって、外に出た。
扉が、静かに閉まった。
「……入っていいよ」
ガルドが、低い声で言った。
◇
ハンナは、メルの枕元に座った。
小袋を開けて、水差しの沸かした水を少し取り、粉末を溶かした。スプーンで静かにかき混ぜる。
「メルちゃん」
低く、優しく呼んだ。
メルが、うっすらと目を開けた。潤いのない目だった。
「薬だよ。甘いから、飲めるよ」
スプーンをそっと唇に当てた。
メルが、少しだけ口を開けた。
一口。
また一口。
ゆっくりと、飲んだ。
ハンナは、その間ずっと、メルの顔を見ていた。
昔、エリアが倒れたときも、こうして枕元に座った。スプーンで水を飲ませた。それでも、エリアは逝った。
あのとき自分は、何もできなかったと思った。今も思う。
でも——今日は、違うかもしれない。
ノアが繋いでくれたものが、この子を救うかもしれない。
エリアの息子が——母親がいなくなった後も、一人で森を歩きながら、知識を積み上げて——その知識が、今日ここに繋がっている。
「エリア」
心の中で、呼んだ。
「見てるかい」
メルが、薬を飲み終えた。
また目を閉じた。呼吸は、まだ浅い。
すぐには変わらない。それはわかっている。
でも——始まった。
ハンナは立ち上がって、ノアを振り返った。
ノアが、部屋の入り口に立っていた。
入ってきていいのかどうか、わからないような顔をして。それでも、目を離せないような顔をして。
ハンナは、静かに頷いた。
入っておいで、という意味で。
ノアが、一歩、部屋に入ってきた。
◇
暗い部屋の中で、メルの呼吸が聞こえていた。
浅く、でも——続いている。
僕は、その音をずっと聞いていた。
消えないでいる、ということが、今この瞬間は、それだけで十分だった。
ばあちゃんが、隣に立った。
何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
それで——十分だった。
◇
「飲んだ」
ソラが、研究室に静かに告げた。
「ハンナさんが、飲ませてくれました」
美緒は、息を吐いた。
気づかないうちに、ずっと息を詰めていた。
「あとは——待つだけですか」
楓太が言った。
「そうだ」
工藤が、短く答えた。
「効くはずだ。柳瀬先生の見立てが正しければ——二日で、熱が引き始める」
「二日」
「待つしかない」
美緒はモニターを見た。
ノアが、暗い部屋の中に立っている。ハンナが、隣にいる。
メルの呼吸の音が、かすかに拾えた。
浅い。でも——続いている。
「ソラ」
美緒が言った。
「何か変化があれば、すぐに教えて」
「はい。ノアが箱を持ってそばにいる間は、カメラ越しに確認できます。何かあれば、すぐにお知らせします」
研究室に、静かな時間が降りた。
画面の向こうで、小さな命が——薬が効くのを待っている。




