「描かれた世界」
絶対地に、変化はなかった。
ゼルクロノスが見つめている場所には、いつもと変わらない景色が広がっている。先ほど現れた線も、そこから伸びた奇妙な痕跡も、すでに消えていた。
だが、ゼルクロノスは調査をやめなかった。
ゼスとの戦いを経て、彼は理解していた。自分の能力が届かないという事実と、そこに何も存在しないという事実は、まったく別のものだ。
ならば、今度は能力を使って無理に答えを引き出すのではなく、起きた現象そのものを見極める必要がある。
「もう一度、起きてみろ」
ゼルクロノスは静かに呟いた。
当然、返事はない。
しばらくして、彼は小さく息を吐いた。
「そう簡単にはいかないか」
そのとき、ふと気づいた。
先ほど線が現れた瞬間、絶対地の法則にも、運命にも、何の変化もなかった。景色は変わったのに、それを変化として記録するものが存在しなかったのだ。
まるで、世界そのものが一瞬だけ別の何かに触れ、すぐに元へ戻ったかのように。
「……世界の中で起きた現象じゃない?」
ゼルクロノスは考え込んだ。
もし、あの線が世界の内部で発生したものなら、何らかの痕跡が残るはずだ。だが、何も残っていない。
つまり、あの現象は世界の内部で起きたのではなく、世界の外側にある何かが、一瞬だけこちらに現れた可能性がある。
「ゼスが言っていたことは、こういう意味なのか……?」
彼は、ゼスが消える直前の言葉を思い返した。
――お前の世界そのものが、すべてだと思うな。
ゼスは、絶対地より上の階層について話していたのではない。そもそも、階層という概念が通用する場所の話ですらなかった。
ならば、その外側にあるものは何なのか。
ゼルクロノスは、これまで自分が認識してきた世界を思い返した。
全宇宙・全次元。観察層。神階。そして絶対地。
どれほど広大であろうと、どれほど上位であろうと、それらはすべて、この世界を構成するものだった。
だが、その世界全体を外側から見ている存在がいるとしたら?
「……まさか」
ゼルクロノスの表情から、笑みが消えた。
世界を支配する者と、世界そのものを作り出す者。
その二つは、似ているようでまったく違う。
どれほど強大な存在でも、世界の中にいる限り、その世界の構造から完全に自由になれるとは限らない。ゼルクロノス自身が、つい先ほどまでその壁に直面していたのだから。
しかし、世界を作り出す者はどうだろう。
世界の法則も、階層も、運命も、物語の展開さえも、その存在によって定められているのだとしたら。
ゼルクロノスは、ゆっくりと顔を上げた。
「この世界を作った存在がいる……?」
口にしてみても、確信はなかった。
だが、そう考えれば説明できることがある。
ゼスが絶対地に現れた理由。ゼルクロノスの能力が届かなかった理由。そして、景色に一瞬だけ現れた、あの奇妙な線。
すべてが同じ答えにつながっているとは、まだ断言できない。
それでも、無関係だと切り捨てるには、あまりにも符合していた。
「もし本当に、世界を作った存在がいるなら……」
ゼルクロノスは拳を握った。
「俺は、そいつに会ってみたい」
それは、支配するためでも、倒すためでもなかった。
ただ、知りたかったのだ。
自分が生きている世界を作った存在が何者なのか。そして、その存在はなぜ、この世界を作ったのか。
ゼルクロノスは初めて、自分より強い存在がいるかどうかとは別の理由で、世界の外側に興味を抱いていた。
その瞬間だった。
ゼルクロノスの視界に、再び線が現れた。
一本、二本、三本。
それらは何もない空間に伸び、交わり、形を作っていく。
今度は消えなかった。
ゼルクロノスは動かなかった。
目の前に現れた線は、やがて文字のような形を作りかけた。しかし、最後まで形になることはなく、唐突に途切れた。
まるで、誰かが書きかけたものを途中で止めたかのようだった。
「……今、何かを書こうとしていたのか?」
その問いに答える者はいない。
だが、ゼルクロノスには分かり始めていた。
これは単なる異常現象ではない。
自分の知らない何かが、この世界の外側に存在している。そして、その何かは、世界の内側にいるゼルクロノスからは認識できない形で作用している。
ゼルクロノスは、線が消えた空間を見つめた。
「ゼス。お前は、これを知っていたのか?」
当然、返事はなかった。
それでも、彼は確信に近いものを感じていた。
ゼスは、ただ絶対性を超越した存在ではない。
この世界の仕組みそのものについて、ゼルクロノスよりも多くを知っていたのだ。
「……なら、次に調べるべきことは決まったな」
ゼルクロノスは歩き出した。
目指す場所があるわけではない。まだ、世界の外側へ向かう方法さえ分かっていない。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
これまでゼルクロノスは、あらゆるものを支配することで答えを得てきた。
だが、今度は違う。
支配できるかどうかではなく、そもそも何が存在しているのかを知る必要がある。
そして、その答えを追い求める先に、ゼルクロノス自身の想像を超える真実が待っているのだとしたら。
彼は、それを確かめずにはいられなかった。
世界の頂点に立つ絶対者は今、初めて、自分が立っている世界そのものを疑い始めていた。
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