第9話:おばさん、と呼ばれて
二度目のミルデンは、市の日ではなかった。
街道は空いていて、馬車は昼前に東通りへ入った。降りるとき、御者が「お待ちしましょうか」と訊いた。待たなくてよい、と答えた。帰りは乗合で戻るつもりだった。伯爵家の紋のついた馬車を、あの家の前に何時間も停めておきたくなかった。
門の前で、犬が待っていた。
二度目なので、ボンは吠えなかった。柵の内側で尻尾を振り、わたしが門を開けると、靴の匂いを嗅いでから庭の奥へ戻っていった。
「奥様」
扉が開いて、リゼルが出てきた。前掛けは、この前と違うものだった。洗って干して、順番に使っているのだろう。
「お手紙、ありがとう」
「……来ていただけるとは、思いませんでした」
「咳が止まらないと書いてありましたので」
家の中は、思っていたより暗かった。
窓は大きい。南向きの張り出しもある。それなのに暗いのは、家具が少ないからだった。台所に卓が一つ、椅子が二脚。壁際に木箱が積んであって、その上に布がかけてある。棚の代わりらしい。
二階へ上がる階段の下に、藁を編んだ籠が置いてあり、その中で女の子が丸くなっていた。ノラは、眠っていなかった。目を開けて、こちらを見上げていた。
「おばさん」
わたしは籠の横に膝をついた。三つの子の声は、思ったより低かった。喉の奥が、少し鳴っている。
「こんにちは」
「ボン、かまなかった?」
「かみませんでした。教えてくれたおかげです」
ノラは満足そうにうなずいて、それから、続けて三度咳をした。乾いた咳だった。痰が絡む音ではない。空気の冷たいところにいる子どもの咳だった。わたしは立ち上がって、壁に手を当てた。冷たい。
外壁ではなく、内側の壁だ。台所の火から二間しか離れていないのに、手のひらが冷える。
「リゼルさん。この壁の向こうは」
「北側の物置です」
「窓は」
「ございません」
わたしは天井を見た。梁が太い。材はいい。金はかかっている。厨房の増築が百十ルド、二階の張り出しが九十ルド。帳面の数字を思い出した。二百ルドかけて、この家には、暖かい部屋が一つもない。
「この家に、冬は何度」
「三度目でございます」
「毎年、咳を」
「……毎年です。春になると止まりますので、そういうものかと」
リゼルは、そう言って、うつむいた。
「わたしが不注意なのだと思っておりました」
「不注意ではありません」
わたしは、はっきり言った。
「この家は、南から見て気持ちのよい家です。通りから見ても、立派に見えます。ただ、住む人のためには造られておりません」
リゼルが顔を上げた。
「……どういうことでしょう」
「北側に窓がなく、火のある部屋と寝る部屋が離れています。壁の厚みも、南と北で違います。建てた者が、外から見た形を先に決めたということです」
外から見た形。
三年前の夏、あの人はここに立って、どんな家にするかを考えたのだろう。庭に葡萄棚を置き、二階に南向きの張り出しを付け、白い漆喰を塗った。
通りを歩く人が、いい家だと思うように。そして年に何度か、その家に泊まりに来た。泊まるのは、たぶん、南の部屋だ。湯を沸かすあいだ、リゼルは自分のことを少しだけ話した。
ミルデンの北のはずれで、宿屋の娘として育ったこと。父が亡くなって宿をたたんだこと。兄が王都で商いの手伝いをしていて、そこで「アル」という商人を紹介されたこと。
「アル、と」
「はい。名字は伺いませんでした。商いの方は、屋号でお呼びするものだと兄が」
アルブレヒト。その二文字を切り取れば、たしかに商人の名前に聞こえる。
「その方は、月にどのくらい」
「十日ほど。仕入れの都合だと申しておりました。北へ行く道が悪いので、まとめて回るのだと」
北へ行く道。
王都のわたしには「北部領の水路」と言い、ミルデンのこの人には「北へ行く仕入れ」と言った。同じ嘘を二か所で使い回している。使い回すほうが、辻褄が合いやすいからだろう。
嘘の管理を、あの人は横着した。わたしは湯呑みを受け取って、両手で持った。安い焼き物で、縁が少し欠けている。
「奥様」
「はい」
「その、家賃のことでございますが」
リゼルは、木箱の上から一枚の紙を取った。数字が書いてある。細かく、几帳面な字だった。
「わたしの手元にあるお金を、数えました。あの人が置いていく分と、繕い物の手間賃と。月に九ルドは、無理でございます。二ルドなら、なんとか」
わたしはその紙を見た。卵、六。麦、二袋。薪。ノラの靴。数字の横に、細かい但し書きがついている。「靴は来月」「薪は隣から半分」。この人も、数える人だった。
「リゼルさん。手紙に書きました通り、あなたには請求いたしません」
「ですが、住んでいるのはわたしです」
「住まわせているのは、別の人です」
リゼルの目が、わずかに揺れた。
「……あの人は、家賃を払うでしょうか」
「払わせます」
わたしは答えた。
「払わなければ、払わせる手続きがあります。手間はかかりますが、道はございます」
「奥様は、なぜ」
リゼルは、そこで言葉を切った。切ってから、探すように言い直した。
「なぜ、わたしを追い出さないのですか」
わたしは、答えを持っていなかった。持っていないまま、口が動いた。
「壁に、線が三本ついておりました」
「……線」
「外の、庭に面した壁です。子どもの背丈を測った跡でしょう」
リゼルの顔が、くしゃりと歪んだ。歪んで、それから、彼女は慌てて前掛けで目を押さえた。
「あれは、わたしがつけました。あの人ではありません」
「存じております」
「あの人は、一度も測りませんでした」
わたしはうなずいた。ノラが、籠の中でまた咳をした。わたしは籠の位置を見て、台所の火との距離を測った。三歩。近すぎず、遠すぎる。
「リゼルさん。籠を、あちらへ動かしてもよろしいですか」
「え」
「火のそばの、椅子の陰へ。煙は当たりませんが、暖かい壁のそばになります」
わたしは籠を持ち上げた。子ども一人ぶんの重さは、思っていたより重かった。移し終えて、壁に手を当てた。こちらは、温い。
「今夜から、ここで寝かせてあげてください」
「……はい」
「それから、北側の物置に、薪を置かないこと。物置が冷えると、壁一枚隔てた部屋が冷えます。薪は台所へ」
「はい」
「窓は、朝に一度だけ開けて、すぐ閉めること。冬の家は、開けっぱなしにすると温まりません」
言いながら、自分でも少し驚いていた。こういう知識は、王都の屋敷で覚えたものではない。ヴェッセル家の、まだ男爵位を買う前の、細長い家で覚えたことだった。
わたしは三代目だ。祖父は代書人で、父は算盤で、そしてわたしは、冷える壁の直し方を知っている。
「奥様」
帰りぎわ、リゼルが門まで送りに出た。
「ノラの咳が止まりましたら、お知らせしてもよろしいでしょうか」
わたしは少し考えた。考えるほどのことでもなかった。
「ええ。お知らせください」
乗合馬車の停まる広場まで歩きながら、わたしは背中の後ろを一度だけ振り返った。白い漆喰の家が、通りの終わりに立っている。外から見れば、立派な家だった。
この回でエルヴィラがやったことは、籠を三歩動かして、薪の置き場を変えて、窓を開ける時間を教えただけです。誰も断罪していませんし、誰も泣かせていません。
けれど彼女は、この家が「外から見た形」で造られていることを、壁を触っただけで見抜きました。──家賃を取る相手が、どういう人間かも一緒に。
明日の晩、その人が三年ぶりに帰ってきます。晩餐は二人分、席は向かい合わせです。




