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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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10/12

第10話:三年ぶりの食卓に、一枚

 夫が帰ってきたのは、日が落ちて一時間ほど経ったころだった。


 馬車の音がして、玄関の扉が開く。外套を脱ぐ音、靴を落とす音、それから低い声。三年のあいだ、月に十日ずつ聞いてきた音の順番だった。


 わたしは、階段の上から降りていった。


「お帰りなさいませ」


 アルブレヒト・ラングフォードは、外套を女中に渡しながら、こちらを見た。


 少し痩せた、と思った。三十二歳にしては、目の下の影が深い。旅で疲れたのか、それとも別の理由なのかは、分からなかった。


「……ああ」


 それだけだった。三年前も、こういう帰り方をしていた。旅から戻った男が妻に言うことは、この家では「ああ」で足りることになっている。


「晩餐のご用意ができております」


「食べる。着替えてからだ」


 彼は階段を上がっていった。途中で一度、足を止めた。


「エルヴィラ」


「はい」


「……母上は」


「離れにいらっしゃいます。お呼びしましょうか」


「いい」


 それきり、彼は上がっていった。わたしは食堂へ入り、燭台と卓の位置を、もう一度確かめた。


 二人分の食器。向かい合わせ。燭台は中央に二本。三年前と同じ配置で、三年前と同じ席次表に従っている。作ったのはわたしだ。毎週、誰も座らない卓のために作り続けてきた。


 袖の中には、請求書の写しが一枚入っている。出す場所は、昨夜のうちに決めてあった。


        


 最初の皿が下げられるまで、夫は三つのことを話した。一つ、北の道が悪かったこと。二つ、水路の普請が長引いていること。三つ、隣領の若い当主が代替わりで浮かれていること。


 どれも、三年間で何度も聞いた話だった。


 わたしは相槌を打った。「まあ」「それは大変でございましたね」「お疲れでしょう」。三年間、同じ相槌を打ってきた。今日は、その言葉が自分の口から出るたびに、少しずつ薄く聞こえた。


 二皿目が出たところで、夫がグラスを置いた。


「母上から、何か聞いたか」


 来た、と思った。


「何をでしょう」


「……何でもいい。何か言われたか」


「請求書のことでしたら、伺いました」


 夫の手が止まった。わたしは自分の皿を見ていた。見ながら、続けた。


「大奥様が旦那様宛ての封をお開けになりまして。中身をご覧になって、お怒りでした」


「……そうか」


 彼は、それきり黙った。黙ったまま二皿目を食べ、食べ終わるまでに、たっぷり十分かかった。その十分のあいだ、わたしは彼が何を計算しているのかを考えていた。


 妻が請求書を書いた。それを母が読んだ。──では妻は、どこまで知っているのか。家のことか。女のことか。子どものことか。


 彼は、それを訊けない。訊けば、知らないほうのことまで教えることになる。だから彼は、待っている。わたしが先に喋るのを、待っている。三年間、わたしはいつも先に喋る側だった。皿が下げられた。


「アルブレヒト様」


 わたしは名前を呼んだ。夫の肩が、わずかに動いた。


「ミルデンへ行ってまいりました」


 燭台の炎が、まっすぐ立っていた。


「東通り四十七番地。白い漆喰の、二階建てのお家です。庭に葡萄棚がございました」


「……エルヴィラ」


「マイヤーさんという方と、小さなお嬢さんがお住まいでした。犬は、ボンというそうです」


 夫は、ナプキンを、皺になるほど握っていた。


「言い訳を聞きたいか」


 わたしは首を振った。


「いいえ」


「……なんだと」


「聞きたくありません。今日は、そのお話をしに来たのではございませんので」


 わたしは袖から写しを出した。たたんだままの紙を、テーブルクロスの上に置く。彼の皿の、右手のすぐ横。ペンを置くのと同じ場所だった。


「本日ぶんまで、三十八か月。月額九ルド。合計三百四十二ルド」


 夫は紙を見た。開かなかった。開かなくても、机の上で一度読んでいるはずだった。


「……これは何の冗談だ」


「請求書でございます」


「お前が、私に、家賃を」


「はい」


「あの家は俺が建てたんだぞ」


 言ってから、彼は自分で気づいた顔をした。わたしは、うなずいた。


「はい。建てたのは旦那様です。ですが、名義はわたしです。三年前の七月十一日から、登記の原簿にそう書かれております」


「あれは──」


 彼は言葉を探した。探して、いちばん都合のいいものを掴んだ。


「あれは形だけだ。税の都合で、便宜上、お前の名を借りただけだ」


「便宜上」


「そうだ。実質は俺のものだ。誰が見てもそうだ」


「誰が見ても、と仰いますと」


 わたしはグラスを置いた。


「登記所の記録官が見ますと、名義人はわたしです。徴税所の吏員が見ますと、納税の義務者はわたしです。町役場の窓口も、わたしの名前で受け付けます」


 彼の顔が、赤くなった。


「揚げ足を取るな」


「取っておりません」


 わたしは静かに言った。


「便宜上の名義でしたら、なぜわたしに税の通知が来るのでしょうか。便宜は、旦那様のご都合でございましょう。ご都合の分だけ、名義人が負うものが増えております」


「……税は俺が払う」


「では、家賃も」


 そこで、彼は初めて、まともにわたしの顔を見た。三年ぶりに、彼はわたしを見たのだと思う。皿越しでも、燭台越しでもなく。


「エルヴィラ」


「はい」


「お前、三年前のあの日──」


 言いかけて、彼は止めた。わたしは待った。待っているあいだに、彼の指がテーブルクロスを掴んで、皺を作った。


「……読んだのか」


「読みました」


「全部か」


「全部です。二十枚、一枚ずつ。四十分かかりました。旦那様は窓辺で、指で窓枠を叩いていらっしゃいました」


 彼の口が、半分開いた。その顔を、わたしは、よく覚えておこうと思った。


 この人は今日まで、妻は読んでいないと思っていたのだ。読む素振りをしていただけだと。四十分かけて紙をめくる女が、中身を頭に入れているとは、想像したことがなかった。


「だから、覚えております」


 わたしは言った。


「水路の修繕の請負が三通。林の伐採が二通。小作の年季が十通。それから、家屋の登記の委任状が一通。合わせて十六通」


「……十六」


「はい。二十枚ではなく、十六通でした。裏に続きのあるものが四枚ございましたので」


 夫は、何も言わなかった。わたしは請求書の写しを、指で少しだけ彼のほうへ押した。


「支払期日は月末でございます。お支払いいただけない場合は、手続きに入ります」


「手続き」


「はい」


 彼は笑おうとした。うまく笑えていなかった。


「……エルヴィラ。お前、俺を訴える気か」


「訴えるとは申し上げておりません。手続きと申し上げました」


 わたしは立ち上がった。


「デザートは、お部屋にお運びいたします。旅でお疲れでしょうから」


 食堂を出ようとしたところで、背中に声がかかった。


「待て」


 わたしは足を止めた。


「……名義を、俺に書き換えろ」


 振り返ると、夫は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。目が、少し赤かった。疲れではない色だった。


「明日、書類を用意する。署名するだけでいい。それで全部済む」


 わたしはしばらく、その顔を見ていた。明日。用意する。署名するだけでいい。三年前と、同じ言い方だった。


「……分かりました」


 夫の肩から、ゆっくりと、力が抜けた。わたしは扉に手をかけて、それから、言い足した。


「読んでからにします」

第10話です。三年ぶりの食卓には、皿が二枚と、紙が一枚。


エルヴィラは言い訳を聞きませんでした。聞けば、この夜は「浮気の話」になります。彼女がしたのは、そうならないようにすることでした。──不貞は、当人同士の言い分が食い違えば、そこで止まります。数字は止まりません。


いちばん彼が動揺したのは、女の話でも家の話でもなく、「読んだのか」でした。


次話、夫は自分の口で、あの家の建築費の話を始めます。


「読んでからにします」が刺さった方は、いいねをひとつ置いていってください。

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