第11話:あの家は俺が建てた、と旦那様は仰った
翌朝、書斎に呼ばれた。
夫は机の向こうに座っていて、その前に紙が三枚置いてあった。昨夜のうちに人を走らせて、王都の代書屋に書かせたのだろう。インクの匂いがまだ新しく、封の紐も切ったばかりに見えた。
「座れ」
わたしは椅子を引いて座り、いちばん上の一枚を手に取った。
「読むのか」
「読みます」
夫は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
一枚目は、名義変更の申請書だった。ただし、書き方が奇妙だった。「譲渡」でも「贈与」でもない。表題は〈更正登記申請書〉となっていて、理由の欄にこう書いてあった。
『登記の際、名義人の表示に錯誤があったため』
錯誤。つまり、三年前の登記が間違いだった、ということにする書類だ。最初から夫のものだったのに、書き間違えてわたしの名前になっていた。だから直す。──そういう筋書きだった。
わたしは二枚目を見た。錯誤を認める旨の、わたしの陳述書。三枚目は、それに添える委任状。三枚とも、署名の欄が空いていた。
「これに署名すれば済む」
夫が言った。
「税もこちらで持つ。お前の名前は帳面から消える。それでいいだろう」
「アルブレヒト様」
「なんだ」
「錯誤とは、書き損じのことでございます」
わたしは一枚目を机に置いた。
「三年前、登記の申請をなさったのは、ヨナス・マイヤーという方です。委任状にはわたしの署名がございます。わたしは自分の名前を書きました。書記の方も、原簿に間違いなく写しております」
「だから、そこが間違いだったと言っている」
「誰の間違いでしょうか」
夫が黙った。
「──書き損じでしたら、書いた者の間違いです。ですが、この登記に書き損じはございません。全員が、書くべきことを書いております。──間違っていたのは、書類ではなく、旦那様のご意図でしょう」
「言い方を変えろ」
「変えても、申請の理由は変わりません」
わたしは三枚を揃えて、机の中央に戻した。
「更正の登記は、事実と違う記載を直すためのものです。事実と違わないものを直すことはできません。もし通ってしまえば、それは書類のほうを嘘にすることになります」
夫の顔が、赤黒くなった。
「……お前に何が分かる」
わたしはその言葉を、黙って受け取った。三年前も、四年前も、同じ言葉を聞いている。義母は「読まなければよかったのです」と言い、夫は「お前に何が分かる」と言う。二人とも、正しく言えている。分かられると困る人たちの、正しい言い方だった。
「分かりません」
わたしは答えた。
「ですから、教えていただけますか。あの家を建てた費用は、どこから出たのでしょう」
夫の眉が、動いた。
「──何」
「四百二十ルドと三百八十ルド。棟上げに二十ルド。翌年の厨房に百十ルド。その翌年の張り出しに九十ルド。合わせて千二十ルドでございます」
「……なぜ、その数字を」
「当主の帳面に書いてございました。名目は『資材前渡』と『棟上祝』と『増築』です」
夫は椅子から立ち上がった。
「あれは、俺の金だ」
「旦那様の金でございますか」
「当たり前だ。俺が伯爵で、あの帳面は俺の家の帳面だ」
「では、伺います」
わたしは膝の上で手を組んだ。
「ラングフォード領の年貢と、王領からの下賜金は、その帳面のどの欄に入っておりますか」
夫が、口を開けた。わたしは続けた。
「両方とも、同じ帳面に入っております。伯爵家の会計は、当主の私財と領の収入を分けておりません。この家は、二十年前からそうです。分けていない以上、そこから出た千二十ルドは、領の収入から出たのと同じことになります」
「……それがどうした」
「領の収入で建てた家が、伯爵ご自身のものでしたら、それは私的な流用と呼ばれます」
書斎が無音になった。庭で鳥が二度鳴き、その音が止んでも、夫は立ったまま机の端を掴んでいた。
「……お前」
「はい」
「俺を潰す気か」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「潰す気でしたら、この書類に署名しております」
夫が、こちらを見た。
「お考えください。もしこの三枚に署名して、あの家の名義が旦那様のものになりましたら、どうなりますか。──領の金で建てた家を、伯爵ご自身が所有しているという形が、書類の上で完成いたします」
夫の手が、机から離れた。
「いまは、そうなっておりません」
わたしは静かに言った。
「名義はわたしです。わたしは領とは関係のない、ただの妻でございます。伯爵家が身内の家を建てた、という形でしたら、まだ言い訳が立ちます。贅沢だと言われるだけで済みます」
「……」
「ですが、名義を移せば、贅沢では済まなくなります」
夫は座り直し、両手で顔を擦った。指の間から、押し殺した息が漏れた。
「じゃあ、どうしろというんだ」
「家賃をお支払いください」
わたしは言った。
「三百四十二ルド。それをお支払いいただければ、あの家は『伯爵夫人が所有し、伯爵が借りている家』になります。書類の上で、いちばん傷が浅い形です」
「……三百四十二ルドなど、どこにある」
その言い方に、わたしは引っかかった。
伯爵家の年間の家政費は四百ルド前後だ。三百四十二ルドは軽い額ではないが、当主が一年かけて工面できない額でもない。少なくとも、三年で二千百六十ルドを北へ運べる家であれば。
「お手元にないのですか」
夫は答えなかった。答えないというのは、答えだった。
「アルブレヒト様。伯爵家に、いま、いくら残っておりますか」
「……お前が知ることではない」
「帳面を見れば分かります」
「見るな」
声が、初めて大きくなった。わたしは立ち上がった。
「本日は、これで失礼いたします」
「エルヴィラ」
扉のところで、夫が言った。
「あの三枚、いつでも署名できるように置いておく」
「置いていただいて結構です」
わたしは振り返らずに答えた。
「読んでからにします、と申し上げました。読みましたので、署名はいたしません」
自室に戻って、わたしは紙を一枚出し、夫が「三百四十二ルドなど、どこにある」と言ったときの声の調子を書き留めた。
あれは惜しんでいる声ではなかった。無い、という声だった。惜しむ人は額を値切る。無い人は、額の話そのものをしない。
三年で二千百六十ルドを南へ運べた家に、三百四十二ルドが無い。だとすれば、その金はどこかから借りている。借りているなら、貸した誰かがいる。
わたしはペンを止めて、しばらく窓の外を見た。庭木の影が、風もないのに少しだけ揺れている。厩の者が、まだ馬を引いているのだろう。貸した人間は、返ってこないとき、どこへ取りに来るのだろうか。
伯爵家の財布が空だと知っている貸し手なら、当主の懐は当てにしない。当てにするのは、名義のあるものだ。土地。屋敷。──家。
夫が今朝、あれほど急いで三枚の書類を用意した理由に、わたしは初めて手が届きかけた。届きかけて、指を引いた。
指を引いたつもりが、その指を折っていた。土地で一本、屋敷で二本、家で三本。──いつから、こう数えるようになったのだろう。
三番の机で、テオドール・グレイが同じことをしていた。三月二十日でしたら、と言ってから指を折り、今月末でちょうど三年です、と続けた。あの日わたしは、数えられた月ではなく、数えている手のほうを見ていた。見ていたことに、いま気づいた。
わたしは指を開いて、膝の上に戻した。それから、ペンを置いた。書けるところまでは書いてある。書けないところは、まだ紙が無い。
蝋燭を吹き消した。紙は、まだ足りない。
お読みいただきありがとうございます。
「錯誤による更正」というのは、実際に使われる手続きです。ただしそれは書き間違いを直すためのもので、意図を書き換えるためのものではありません。この違いを知っているかどうかで、この朝の勝負は決まりました。
そしてエルヴィラは、名義を渡さない理由を「夫のため」の形で説明しました。嘘ではありません。名義を移した瞬間に、夫は自分で自分の首を絞めます。──ただ、彼女がそれを教えたのは、親切からではありません。
次話、伯爵家の金庫に、いくら残っているのか。それを知っている人物が、玄関に立ちます。




