第12話:給金が、二月分遅れております
その日の夕方、マルタが書斎に来た。盆は持っていなかった。
「奥様。盆の外のことを、申し上げてもよろしいでしょうか」
わたしはペンを置いた。
「どうぞ」
「使用人の給金が、二月分、遅れております」
わたしは、しばらく彼女の顔を見ていた。
「……二月」
「先々月と、先月でございます。今月も、たぶん」
「なぜ、わたしに上がってこなかったの」
「家政費は、月の初めに旦那様の帳面から家政の帳面へ移されます。移す作業は、書記の者がいたします」
マルタは手を前で組んだ。
「先々月から、移されておりません。書記の者は『旦那様のご指示待ち』と申しております。使用人には、わたくしが自分の手元から立て替えて、半分ずつお渡ししております」
「あなたの手元から」
「二十年おりますので、多少は」
わたしは椅子の背に体を預けた。家政の帳面は、わたしが預かっている。毎月、支出は全部書いてきた。──支出は。入金の欄は、書記が書く。わたしは、そこを見ていなかった。
自分の担当のところだけをきちんとやっていれば、家は回っていると思っていた。三年間、それをやっていた。
「マルタ。家政の帳面を持ってきてくださる」
「こちらに」
彼女は、脇に挟んでいた。最初から持ってきていたのだ。わたしは帳面を開いた。入金の欄は、先々月から空白だった。
その代わりに、細い字で、小さな注記が入っていた。「立替 マルタ・ホルン」。先々月に十二ルド。先月に十四ルド。
自分の名前を、この人は帳面に書いていた。誰も見ない帳面だと知っていて、書いていた。
「マルタ」
「はい」
「これは、返します」
「奥様のご負担では」
「わたしの負担ではありません。家の負担です。家の負担を、家の帳面に書いてくださったのですから、家が返します」
マルタは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう存じます」
「それから」
わたしは帳面を閉じた。
「立て替えは、今月で終わりになさい。次からは、わたしに言うこと」
「はい」
マルタは、そこで少し迷う顔をした。二十年この家にいる人が迷う顔をするのは、珍しいことだった。
「奥様。もう一つ、盆の外のことを申し上げても」
「どうぞ」
「厨房の者が二人、来月で辞めると申しております。それから庭師が一人。給金のことではないと申しておりますが、給金のことでございます」
「引き止めなくてよろしい」
わたしは言った。言ってから、自分の声が思ったより冷たいのに気づいた。
「──いえ、そうではなく。引き止める言葉を、わたしはまだ持っておりません。持っていない言葉で引き止めますと、次に辞めるとき、あの人たちは黙って出ていきます」
マルタは、深くうなずいた。
「さようでございますね」
「払える見込みが立ちましたら、そのときに、こちらから声をかけます。それまでは、辞める人を止めません」
「承知いたしました」
彼女は帳面を胸に抱え、それから、小さく付け足した。
「……二十年おりまして、この家が傾くのを見るのは、二度目でございます」
わたしは顔を上げた。
「一度目は」
「前の伯爵様の晩年でございます。あのときは、大奥様が宝石を売られました。ずいぶんお売りになりました」
義母の細い指を思い出した。留め金の緩んだ、古い宝石。あれは、売り残りだったのかもしれない。
「そのときは、どなたが立て替えたの」
マルタは答えなかった。答えないことで、答えていた。
その晩、夫は書斎にいなかった。
夕食も摂らずに出かけて、戻らなかった。行き先を告げずに出るのは、この三年で珍しいことではない。ただ、今回は馬車を使わず、馬で出たとマルタが言った。
急いでいる人は、馬で出る。わたしは書斎に入った。昨日わたしが座った椅子に、三枚の書類がそのまま置いてある。署名の欄は空いたままだった。
机の引き出しは、三つある。上の段は開いた。ペン、封蝋、印章。二段目も開いた。手紙の束。私信らしいものが多く、わたしは一通も開かなかった。
三段目に、鍵がかかっていた。
わたしはそれを見ていた。鍵のかかった引き出しを開ける方法を、わたしは知らない。知りたいとも思わなかった。こじ開けた紙は、こじ開けたという事実がついて回る。ついて回る紙は、いざというときに使えない。
父の言い方を借りるなら、〈盗った紙は、どこにも出せない〉。代わりに、机の下を見た。
紙は、意外なところに落ちる。急いで引き出しを閉める人は、はみ出した一枚をにする。三年間、この部屋を掃除してきた者たちは、机の下に落ちた紙を拾わない。拾って捨てて、後で叱られた者が、二十年前にいたからだ──とマルタが言っていた気がする。
机の脚と壁のあいだに、一枚落ちていた。拾い上げて、埃を払う。クヴェレ商会からの書状だった。
『ラングフォード伯爵閣下
貴殿への貸付金、元利合計八百六十ルドにつき、返済期日を本月末日と改めてご通知申し上げます。なお、期日を過ぎました場合は、契約書第五条に基づき、保証人へ直接の請求に移らせていただきます。
クヴェレ商会 バルタザール・クヴェレ』
わたしは、その書状を三度読んだ。二度目までは字面を追い、三度目でようやく、そこに書かれている額の大きさが腹に落ちた。
八百六十ルド。伯爵家の年間の家政費の、二倍以上だった。そして、日付は──先月の二十日。夫がまだ「北部領」にいたはずの時期に、この書状は王都の屋敷へ届いている。
保証人へ直接の請求に移らせていただきます。わたしは、その一行のところで指を止めた。保証人。誰の。
貴族の借入に保証人が付くこと自体は、珍しくない。親族が立つこともあれば、同格の家が立つこともある。ただ、伯爵家に八百六十ルドを貸す商会が、保証人として誰の名を受け入れたのか。
義母ではないだろう。宝石を売り尽くした人に、商会は保証を求めない。わたしは書状をもう一度見て、契約書第五条という文字のところに、指を当てた。契約書。その紙が、どこかに一通ある。
自室に戻って、わたしは机の上に紙を並べた。原簿の写し。委任状の写し。請求書の控え。帳面から写した数字。そして、クヴェレ商会の書状。五枚を、日付の順に並べ直す。
三年前の三月二十日。印紙、二枚。委任状、一通。三年前の七月十一日。登記。三年前の夏から去年まで。資材と増築で千二十ルド。三年間の視察費、千百四十ルド。先月二十日。督促。八百六十ルド。
わたしはペンを取って、余白に一行だけ書いた。──三年前の三月二十日に、印紙は二枚買われている。委任状に貼られたのは、一枚。
保証人という言葉と、二枚目の印紙が、頭の中で近づいた。近づいて、まだ触れなかった。触れないままにしておいた。
思いつきで結んだ線は、あとで自分の首を絞める。父がそう言っていた。〈線を引く前に、紙を出せ〉。紙が要る。印紙売捌所の控帳。テオドール・グレイが三日と言った、その三日目は明日だった。
わたしは書状の写しを取り、原本を元の場所へ戻した。机の脚と壁のあいだ、同じ角度で。部屋を出るとき、廊下の窓から表を見た。門のところに、明かりが一つ。厩の者が、まだ馬を待っている。
夫は、まだ帰っていなかった。
エルヴィラは三年間、家政の帳面の「支出」だけを見ていました。入金の欄は書記の担当だったからです。──自分の持ち場をきちんとやっていれば全体は回っている、というのは、たいてい間違っています。
書状を見つけても、彼女は線を引きませんでした。「保証人」と「二枚目の印紙」を結ぶのは簡単ですが、簡単なぶん、間違っていたときに戻れません。
明日、印紙売捌所の控帳が出ます。三年で捨てられる帳面の、最後の月です。
線を引かなかった慎重さに唸った方。よければブックマークを。この人は、いつもこの速度です。




