第13話:借用証を持った客
翌朝、登記所へ出る支度をしていると、玄関に客が来た。マルタが取り次ぎに来たとき、その顔がわずかに硬かった。
「クヴェレ商会の、バルタザール・クヴェレ様と仰る方が。旦那様にご面会をと」
「旦那様は」
「昨夜からお戻りでございません」
わたしは手袋をはめる手を止めた。玄関で待たせておく、という選択もあった。追い返すこともできた。この家の主人が不在なのだから、それがいちばん自然な応対になる。
けれど自然な応対をしていると、紙は増えない。
「客間へお通しして」
バルタザール・クヴェレは、五十を少し過ぎたくらいの、太った男だった。上等な外套を着ているが、飾りは一つもない。椅子に座るとき、まず脚の具合を確かめてから体を下ろした。壊れそうなものには、最初から用心する人らしい。
「ラングフォード伯爵夫人でいらっしゃいますか」
「はい」
「クヴェレと申します。伯爵閣下とは、四年ほどのお付き合いで」
「四年」
「はじめは馬でございました。次が屋根で、その次が普請でございます」
彼は膝の上で手を組んだ。
「本日は、閣下にお目にかかりたく参りましたが、ご不在とのこと。──では、奥様に申し上げてもよろしいものかどうか、少し迷っております」
「どちらでも構いません」
わたしは答えた。
「わたしに申し上げにくいご用件でしたら、お引き取りください。申し上げられるご用件でしたら、伺います」
クヴェレは少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。
「では、申し上げます」
彼は鞄から、一通の書付を出した。
「閣下への貸付、元利で八百六十ルド。返済の期日が本月末日でございます。本日は、その確認と、それから──」
書付が、机の上を滑ってこちらへ来た。
「保証人の方に、ご挨拶をと存じまして」
わたしは書付を手に取った。借用証だった。日付は三年前の三月二十日。借入額七百ルド。利率、期限、遅延の定め。第五条に、保証人の記載。保証人の欄に、名前があった。エルヴィラ・ラングフォード。
「ヴ」の右肩が、落ちている。
部屋の中で、何かの音が消えたような気がした。実際には何も消えていない。窓の外では庭師が枝を落としていたし、廊下ではマルタが茶器を運ぶ足音がしていた。
わたしはその紙を、両手で持っていた。
「奥様」
クヴェレの声がした。
「ご記憶がおありでしょうか」
わたしはすぐには答えなかった。ここで「知らない」と言えば、この人は「では、この署名は何ですか」と訊く。訊かれて、答えられない。ここで「わたしの字です」と言えば、それで終わる。
どちらも言わない道を、わたしは探した。
「クヴェレさん。この書付は、原本でしょうか」
「写しでございます。原本は商会の金庫に」
「では、写しを一通、いただけますか。いま、お持ちのものと同じものを」
クヴェレの眉が、上がった。
「……写しを」
「はい」
「なぜでございましょう」
「手元に置いて、確かめたいことがございますので」
彼はしばらくわたしを見て、それから、鞄からもう一通出した。最初から二通持ってきていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
わたしは受け取って、鞄にしまった。しまう手が震えていないことを、自分で確かめた。
「奥様。念のために申し上げますが」
クヴェレは椅子の背に体を預けた。
「わたくしどもは、乱暴なことはいたしません。裁きにかけるのも好みません。裁きは高くつきますので」
「でしょうね」
「ですから、月末までにご相談をいただければ、いくらでもやりようはございます。分割でも、差し入れでも」
「差し入れ」
「担保でございます」
彼は言った。
「たとえば、奥様のご名義のご財産などがございましたら」
わたしは顔を上げた。クヴェレはこちらを見ていた。目が、笑っていなかった。
「ご存じなのですね」
「何をでございましょう」
「ミルデンのことです」
「……閣下から伺っております」
彼は否定しなかった。
「三日前に閣下がお見えになりまして、ミルデンの家屋を差し入れたいと仰いました。名義がご自身でないので、書き換えてから改めて、と」
三日前。夫が「明日、書類を用意する」と言った、その前だった。三枚の書類は、わたしのために用意されたのではない。この人のために用意されたのだ。
「クヴェレさん。その家屋の名義は、わたしです」
「存じております」
「書き換えるつもりはございません」
「……さようでございますか」
彼は眉を寄せた。困った、という顔ではない。予定が一つ変わった、という程度の顔だった。
「でしたら、保証人としてのご負担が残ります」
わたしはうなずいた。
「クヴェレさん。一つ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「この借用証に保証人としてわたしの名を入れると決めたのは、どなたでしょう」
「閣下でございます」
「あなたが求めたのではなく」
「わたくしどもは、保証をお願いはいたしますが、誰を、とは申しません。閣下がお持ちになったのは、この形でございました」
「そのとき、わたしはその場におりましたか」
クヴェレの表情が、初めて止まった。
「……いいえ」
「わたしは、その場におりませんでしたね」
「おられませんでした。ご署名は、閣下がお持ちくださいました」
わたしはそのやりとりを覚えておこうと思った。頭の中で、言葉のまま、順番のまま。
「ありがとうございます」
わたしは立ち上がった。
「本日のお話は、承りました。月末までに、こちらから改めてご連絡いたします」
クヴェレも立ち上がった。帽子を取って、丁寧に一礼した。
「奥様。ご無礼を承知で申し上げますが」
「はい」
「わたくしは、閣下より奥様のほうが、話が早いと存じます」
「なぜ、そうお思いに」
「額をお訊きになりませんでした」
クヴェレは帽子を胸に当てたまま言った。
「たいていの方は、まず額に驚かれます。八百六十と申し上げますと、そんなに、と仰る。奥様は、額ではなく、誰が決めたかをお訊きになりました」
「……そうでしたか」
「額は、もう動きません。動くのは、誰が負うかだけでございます。そこをお訊きになる方は、話が早い」
彼は玄関へ向かい、扉のところでもう一度振り返った。
「月末まで、お待ちいたします。それ以上は、お待ちできません。──商いでございますので」
扉が閉まってから、マルタが客間の茶器を下げに来た。
「奥様。あのお方は」
「商人です。この家に、四年」
「四年」
マルタは湯呑みを盆に載せながら、低い声で言った。
「四年前と申しますと、奥様がこちらへお輿入れになった年でございます」
馬車の中で、わたしは借用証の写しを膝の上に広げた。三年前の三月二十日。あの日、わたしは書斎で十六通に署名した。四十分かけて、一枚ずつ読んで。そのなかに、この紙はなかった。
断言できる。理由は簡単で、あの日わたしが読んだ書類は全部「領地の書類」だったからだ。水路、林、小作。金を借りる話は一つもなかった。
もし借用証があれば、わたしは覚えている。額を覚えている。父の娘は、額を覚える。では、この署名は何なのか。わたしは自分の名前を見た。
わたしの字だった。傾きも、続け方も、「ヴ」の右肩の落ち方も。自分の字だと言うしかない字が、自分の書いていない紙の上にあった。馬車が石畳を越えて、大きく揺れた。
わたしは紙を胸に押さえて、窓の外を見た。登記所は、もうすぐだった。
エルヴィラは、この場で「知りません」とも「わたしの字です」とも言いませんでした。代わりに、写しを一通もらいました。──否定も肯定もしないまま、紙だけ増やす。この人のやり方です。
商会主クヴェレは、悪人ではありません。彼は回収しか考えていない。だからこそ、状況が変われば、いちばん早く矛先を変える人でもあります。
次話、エルヴィラは、この署名について、生まれて初めての一言を口にします。




