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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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13/15

第13話:借用証を持った客

 翌朝、登記所へ出る支度をしていると、玄関に客が来た。マルタが取り次ぎに来たとき、その顔がわずかに硬かった。


「クヴェレ商会の、バルタザール・クヴェレ様と仰る方が。旦那様にご面会をと」


「旦那様は」


「昨夜からお戻りでございません」


 わたしは手袋をはめる手を止めた。玄関で待たせておく、という選択もあった。追い返すこともできた。この家の主人が不在なのだから、それがいちばん自然な応対になる。


 けれど自然な応対をしていると、紙は増えない。


「客間へお通しして」


 バルタザール・クヴェレは、五十を少し過ぎたくらいの、太った男だった。上等な外套を着ているが、飾りは一つもない。椅子に座るとき、まず脚の具合を確かめてから体を下ろした。壊れそうなものには、最初から用心する人らしい。


「ラングフォード伯爵夫人でいらっしゃいますか」


「はい」


「クヴェレと申します。伯爵閣下とは、四年ほどのお付き合いで」


「四年」


「はじめは馬でございました。次が屋根で、その次が普請でございます」


 彼は膝の上で手を組んだ。


「本日は、閣下にお目にかかりたく参りましたが、ご不在とのこと。──では、奥様に申し上げてもよろしいものかどうか、少し迷っております」


「どちらでも構いません」


 わたしは答えた。


「わたしに申し上げにくいご用件でしたら、お引き取りください。申し上げられるご用件でしたら、伺います」


 クヴェレは少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。


「では、申し上げます」


 彼は鞄から、一通の書付を出した。


「閣下への貸付、元利で八百六十ルド。返済の期日が本月末日でございます。本日は、その確認と、それから──」


 書付が、机の上を滑ってこちらへ来た。


「保証人の方に、ご挨拶をと存じまして」


 わたしは書付を手に取った。借用証だった。日付は三年前の三月二十日。借入額七百ルド。利率、期限、遅延の定め。第五条に、保証人の記載。保証人の欄に、名前があった。エルヴィラ・ラングフォード。


 「ヴ」の右肩が、落ちている。


 部屋の中で、何かの音が消えたような気がした。実際には何も消えていない。窓の外では庭師が枝を落としていたし、廊下ではマルタが茶器を運ぶ足音がしていた。


 わたしはその紙を、両手で持っていた。


「奥様」


 クヴェレの声がした。


「ご記憶がおありでしょうか」


 わたしはすぐには答えなかった。ここで「知らない」と言えば、この人は「では、この署名は何ですか」と訊く。訊かれて、答えられない。ここで「わたしの字です」と言えば、それで終わる。


 どちらも言わない道を、わたしは探した。


「クヴェレさん。この書付は、原本でしょうか」


「写しでございます。原本は商会の金庫に」


「では、写しを一通、いただけますか。いま、お持ちのものと同じものを」


 クヴェレの眉が、上がった。


「……写しを」


「はい」


「なぜでございましょう」


「手元に置いて、確かめたいことがございますので」


 彼はしばらくわたしを見て、それから、鞄からもう一通出した。最初から二通持ってきていた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 わたしは受け取って、鞄にしまった。しまう手が震えていないことを、自分で確かめた。


「奥様。念のために申し上げますが」


 クヴェレは椅子の背に体を預けた。


「わたくしどもは、乱暴なことはいたしません。裁きにかけるのも好みません。裁きは高くつきますので」


「でしょうね」


「ですから、月末までにご相談をいただければ、いくらでもやりようはございます。分割でも、差し入れでも」


「差し入れ」


「担保でございます」


 彼は言った。


「たとえば、奥様のご名義のご財産などがございましたら」


 わたしは顔を上げた。クヴェレはこちらを見ていた。目が、笑っていなかった。


「ご存じなのですね」


「何をでございましょう」


「ミルデンのことです」


「……閣下から伺っております」


 彼は否定しなかった。


「三日前に閣下がお見えになりまして、ミルデンの家屋を差し入れたいと仰いました。名義がご自身でないので、書き換えてから改めて、と」


 三日前。夫が「明日、書類を用意する」と言った、その前だった。三枚の書類は、わたしのために用意されたのではない。この人のために用意されたのだ。


「クヴェレさん。その家屋の名義は、わたしです」


「存じております」


「書き換えるつもりはございません」


「……さようでございますか」


 彼は眉を寄せた。困った、という顔ではない。予定が一つ変わった、という程度の顔だった。


「でしたら、保証人としてのご負担が残ります」


 わたしはうなずいた。


「クヴェレさん。一つ伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「この借用証に保証人としてわたしの名を入れると決めたのは、どなたでしょう」


「閣下でございます」


「あなたが求めたのではなく」


「わたくしどもは、保証をお願いはいたしますが、誰を、とは申しません。閣下がお持ちになったのは、この形でございました」


「そのとき、わたしはその場におりましたか」


 クヴェレの表情が、初めて止まった。


「……いいえ」


「わたしは、その場におりませんでしたね」


「おられませんでした。ご署名は、閣下がお持ちくださいました」


 わたしはそのやりとりを覚えておこうと思った。頭の中で、言葉のまま、順番のまま。


「ありがとうございます」


 わたしは立ち上がった。


「本日のお話は、承りました。月末までに、こちらから改めてご連絡いたします」


 クヴェレも立ち上がった。帽子を取って、丁寧に一礼した。


「奥様。ご無礼を承知で申し上げますが」


「はい」


「わたくしは、閣下より奥様のほうが、話が早いと存じます」


「なぜ、そうお思いに」


「額をお訊きになりませんでした」


 クヴェレは帽子を胸に当てたまま言った。


「たいていの方は、まず額に驚かれます。八百六十と申し上げますと、そんなに、と仰る。奥様は、額ではなく、誰が決めたかをお訊きになりました」


「……そうでしたか」


「額は、もう動きません。動くのは、誰が負うかだけでございます。そこをお訊きになる方は、話が早い」


 彼は玄関へ向かい、扉のところでもう一度振り返った。


「月末まで、お待ちいたします。それ以上は、お待ちできません。──商いでございますので」


 扉が閉まってから、マルタが客間の茶器を下げに来た。


「奥様。あのお方は」


「商人です。この家に、四年」


「四年」


 マルタは湯呑みを盆に載せながら、低い声で言った。


「四年前と申しますと、奥様がこちらへお輿入れになった年でございます」


        


 馬車の中で、わたしは借用証の写しを膝の上に広げた。三年前の三月二十日。あの日、わたしは書斎で十六通に署名した。四十分かけて、一枚ずつ読んで。そのなかに、この紙はなかった。


 断言できる。理由は簡単で、あの日わたしが読んだ書類は全部「領地の書類」だったからだ。水路、林、小作。金を借りる話は一つもなかった。


 もし借用証があれば、わたしは覚えている。額を覚えている。父の娘は、額を覚える。では、この署名は何なのか。わたしは自分の名前を見た。


 わたしの字だった。傾きも、続け方も、「ヴ」の右肩の落ち方も。自分の字だと言うしかない字が、自分の書いていない紙の上にあった。馬車が石畳を越えて、大きく揺れた。


 わたしは紙を胸に押さえて、窓の外を見た。登記所は、もうすぐだった。

エルヴィラは、この場で「知りません」とも「わたしの字です」とも言いませんでした。代わりに、写しを一通もらいました。──否定も肯定もしないまま、紙だけ増やす。この人のやり方です。


商会主クヴェレは、悪人ではありません。彼は回収しか考えていない。だからこそ、状況が変われば、いちばん早く矛先を変える人でもあります。


次話、エルヴィラは、この署名について、生まれて初めての一言を口にします。

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