第14話:この紙を、見たことがありません
三番の机に着いたとき、テオドール・グレイの前には、すでに二つの綴りが置いてあった。三日目だった。
「二つ、揃いました」
彼は言った。前置きはなかった。
「一つ目。印紙売捌所の控帳です」
彼が開いたのは、罫の細かい帳面だった。日付ごとに、購入者と枚数が並んでいる。
「三年前、三月二十日。エルヴィラ・ラングフォード。二枚」
指が止まったところに、たしかにわたしの名があった。役所の書記の手で、他の何十という名前と一緒に、淡々と並んでいる。
「買いに行ったのは、わたしではありません」
「代理でも、名義人の名で買えます。控えるのは名前だけです」
「では、これは何の証明になりますか」
「二枚買われた、という証明です。それ以上でも以下でもありません」
彼は帳面を閉じた。
「今月末で廃棄されます。閲覧の記録は残りますので、必要でしたら『こういう記載があった』という証明書を出せます。有料です」
「出してください」
「はい」
彼は用紙へ手を伸ばした。
「二つ目。特別綴です」
もう一冊のほうを、彼は開かなかった。指を置いたまま、こちらを見た。
「四年前十月、ヴェッセル家とラングフォード家の婚姻財産契約。──不動産に関する条項が一つ含まれていたため、その部分の写しが、こちらへ回っていました」
わたしは息を止めた。
「あるのですね」
「あります」
「読めますか」
「読めます。当事者ご本人ですので」
彼は綴りに手を掛けて、そこで一度止めた。
「ただし、閲覧の記録が残ります。──いつ、誰が、この条項を見たか。それも記録です」
わたしはその意味を考えた。いま読めば、わたしがこの日に読んだという記録が残る。あとで争いになったとき、相手は「妻はこの日に条項を知っていた」と言える。
逆に、読まずに置けば、記録は残らない。残らないが、内容も分からない。
「グレイさん」
「はい」
「わたしは、その条項を知っております」
彼の指が、綴りから離れた。
「……ご存じ」
「四年前、わたしが清書いたしました。父の口述で。九条ございます」
テオドール・グレイはしばらく黙っていた。
「では、なぜ探しておられたのですか」
「写しが手元にあるだけでは、心もとなかったからです。わたしの文箱の中にある紙は、わたしがいくらでも書けます」
わたしは鞄を膝に置いた。
「でも、登記所の綴りに同じものが入っていれば、それは四年前から動いていない紙です。──いま読む必要はございません。あることが分かれば、それで結構です」
「分かりました」
彼は綴りを閉じ、脇へ寄せた。その所作にほんのわずかだけ、ためらいがあったように見えた。読ませなかったことを、この人はたぶん少し残念に思っている。
「グレイさん。今日は、もう一枚お見せしたいものがあります」
わたしは鞄から、借用証の写しを出した。彼が受け取って、机の上に広げる。読む速度は速かった。三年前の日付のところで、指が止まった。
「……三月二十日」
「はい」
「保証人の欄に、あなたのお名前がある」
「はい」
彼は顔を上げなかった。紙を見たまま、静かに訊いた。
「これは、あなたが書きましたか」
わたしはそこで一度だけ、深く息を吸った。三日間、どう言うかを考えていた。「知らない」でも「わたしの字だ」でもない言い方を、探し続けていた。言葉は、意外なところにあった。父の書斎にあった。
〈自分の目で見たことだけを言え。見ていないことは、見ていないと言え〉
「グレイさん」
「はい」
「わたしは、この紙を、見たことがありません」
彼の目が、上がった。
「……見たことがない」
「はい。三年前の三月二十日、わたしは書斎で十六通に署名いたしました。四十分かけて、一枚ずつ読みました。そのなかに、この紙はございませんでした」
「では、この署名は」
「わたしの字です」
わたしは言った。
「わたしの字ですが、わたしは書いておりません。──この二つを、両方申し上げます。片方だけを申し上げると、嘘になりますので」
テオドール・グレイはゆっくりと椅子に座り直した。それから机の引き出しを開けて、小さな器具を出した。真鍮の枠に硝子の入った、片手に収まる大きさのものだった。
「拝見します」
彼は借用証の写しを台に置くと、硝子越しに署名を覗いた。長かった。窓口の外で番号が三つ呼ばれるあいだ、彼は一度も顔を上げなかった。
「奥様。委任状の写しは、お持ちですか。三年前三月二十日付けの」
わたしは鞄から出した。彼は二枚を並べた。委任状の署名と、借用証の署名。硝子越しに、片方を見て、もう片方を見て、また戻った。
「同じ日付で、同じ名前で、同じ形です」
彼は言った。
「ただし、速度が違います」
「速度」
「筆の運びです。こちらは──」
彼は委任状のほうを指した。
「──書き慣れた手です。止めが短く、続けが自然で、最後のはねに勢いがある。人が自分の名前を書くときの速さです」
次に、借用証のほうを指した。
「こちらは、遅い。線がまっすぐで、震えはないが、途中で二度、止まっています。ここと、ここ」
わたしは硝子を借りて、覗いた。言われるまで、まったく気づかなかった。けれど言われて見ると、たしかにそこだけ線が太くなっている。ペンが一瞬止まった跡だった。
「これは何ですか」
「見ながら書いた跡です」
彼は静かに言った。
「人は、自分の名前を書くとき、手本を見ません。見る必要がないからです。──手本を見て書く人間は、途中で目を上げます。目を上げるたびに、ペンが止まります」
わたしはその二つの署名を、もう一度並べて見た。三年前の三月二十日。夫は窓辺に立って、四十分、わたしが署名するのを見ていた。見ていたのだ。指で窓枠を叩きながら、ずっと。
あの音を、わたしは苛立ちだと思っていた。読む妻を持った男の、退屈な四十分だと。違った。あれは、覚えようとしている人間の手だった。
「グレイさん」
わたしの声は、自分でも意外なほど平らだった。
「これは、鑑定できますか」
「できます」
彼は器具を片づけながら答えた。
「王都の公証記録所に、筆跡を見る者がおります。二人が別々に見て、意見が一致したものだけを証明にします」
「日数は」
「六週。混んでいれば八週」
六週。月末までに、あと二十日もない。
「間に合いません」
「間に合いません」
彼は同じ言葉を返した。
「ですから、順番を変えます」
「順番」
「先に、鑑定の申請を出します。出した日付が記録に残る。その上で、商会には『鑑定中である』と通知する」
彼は用紙を三枚、机に並べた。
「請求は止まりませんが、争いのある債権だと分かっていて強引に取り立てる商会は、あまりありません。裁きに持ち込まれたとき、こちらの立場が悪くなりますので」
わたしは用紙を引き寄せた。三枚とも、署名の欄が空いている。今朝、書斎の机の上にも、署名の欄が空いた紙が三枚あった。同じ形の紙が、まるきり逆のことをする。置く人間が違うと、白い欄は、まるきり逆の意味になる。
わたしはペンを取って、いちばん上の一枚を、一行目から読み始めた。
第一部第二章、ここまでです。
「わたしの字ですが、わたしは書いておりません」──この一言のために、エルヴィラは三日かけて言葉を探しました。片方だけ言えば嘘になる、というのは、彼女が父から受け取った作法のいちばん芯の部分です。
夫が四十分間、窓辺で待っていた理由も、この回で判明しました。彼は待っていたのではなく、見ていました。
次章「査問」。貴族院から、伯爵家に照会が来ます。




