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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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15/17

第15話:わたしは、署名しておりません

 照会状が届いたのは、その三日後だった。差出は貴族院の領地監査係。宛先は、伯爵と、名義人であるわたしの二通。


 文面は事務的だった。ミルデン管区東通り四十七番地の家屋について、建築費の出所に関する照会。ラングフォード伯爵領の会計との関係。回答の期限は五日後、または出頭。


 わたしは自分宛ての一通を、二度読んだ。わたしは何もしていない。誰にも訴えていないし、誰にも話していない。


 起きたことは、たぶんこうだ。徴税吏のゼーガーが、名義人の税を記録に上げた。その記録に、伯爵家の会計から出た資材前渡が重なった。役所同士は、そういうものを突き合わせる。突き合わせるのが仕事だからだ。


 わたしがしたのは、税の通知を受け取って、写しを見せてくれと言ったことだけだった。紙は、放っておいても勝手に歩く。歩く先を決めるのは、書いた人間ではない。


        


 出頭の日、貴族院の一室には、五人がいた。監査官が一人。書記が二人。それから、夫とわたし。


 監査官は白髪の、痩せた男だった。冒頭に「これは裁きではありません。事実の確認です」と言い、その通りに進めた。


「ラングフォード伯爵。ミルデン東通り四十七番地の家屋の建築費について、伺います」


「私費です」


 夫は即答した。


「三年前の四月から九月にかけて、伯爵家の会計から『資材前渡』の名目で八百ルドが支出されております。これは」


「領の普請の分です。ミルデンとは関係ない」


「では、その普請の受取書は」


 夫は黙った。監査官は書記に何かを言い、書記が一冊の帳面を出した。ラングフォード領の普請台帳だった。


「三年前の四月から九月まで、領内の普請の記録は三件。金額の合計は六十四ルドです。八百ルドとは合いません」


「……手違いだ」


「手違いとおっしゃいますと」


「書記が名目を間違えたのだろう」


 監査官は、うなずきもしなかった。


「同じ書記が、九月に『棟上祝』と書いております。領の普請三件のうち、九月に棟上げをしたものはございません」


 夫の指が、膝の上で動いた。わたしは、そこを見ないようにした。


「伯爵夫人」


 急に呼ばれて、わたしは顔を上げた。


「はい」


「あなたはこの家屋の名義人でいらっしゃいます。建築費の出所を、ご存じでしたか」


「存じませんでした」


「いつ、お知りに」


「今月の初めに、当主の帳面を拝見しまして」


「なぜ、ご覧に」


「税の通知が参りましたので」


 監査官はうなずいた。


「では、登記について。三年前三月二十日の委任状に、あなたの署名がございます」


「はい」


「これは、あなたのご意思によるものですか」


 わたしは、少し考えてから答えた。


「わたしが署名いたしました。読んで、署名いたしました」


「内容をご理解の上で」


「はい。ミルデンの家屋の登記を代理人に委任する、という内容でございました」


 部屋の空気が、わずかに動いた。わたしが「騙された」と言うことを、この場の全員が期待していたのだと思う。言えば、いちばん簡単だった。言わなかった。


 あの委任状は、読んで署名した。それが事実だった。事実でないことを言えば、そこから先の全部が疑われる。


「ご理解の上で、なぜ」


「領地の書類の束の中に入っておりましたので、領地に関わる家屋だと思っておりました」


「そのようにご説明を受けた、ということですか」


「説明は、ございませんでした」


 監査官のペンが止まった。


「説明が、無かった」


「はい。束を渡されて、署名を求められました。中身については、何も」


 これも、事実だった。


 夫は「領地の書類だ」としか言っていない。委任状の中身がミルデンの家屋であることを、彼は一言も説明しなかった。説明しなかったことは、嘘をついたことにはならない。


 ならないが、記録には残る。監査官は、そこを書かせた。


「次に、借入について伺います」


 彼は別の紙を出した。クヴェレ商会からの届出だった。


「クヴェレ商会より、伯爵家への貸付につき届出がございます。元利八百六十ルド。──保証人の欄に、伯爵夫人のお名前が」


 夫が、わずかに身じろぎした。


「伯爵夫人。この保証について、ご存じでしたか」


 わたしは膝の上で手を組み、それから、まっすぐに監査官を見た。


「わたしは、署名しておりません」


 部屋が、静止した。書記のペンの音が止まり、それから慌てて動いた。


「……もう一度、伺います」


「はい」


「あなたは、この借用証に署名なさっていない」


「しておりません」


 わたしは、それだけ言った。


 言葉を足したくなった。「あの日、わたしは十六通に署名しました」「借用証はございませんでした」「筆跡が違います」。全部、頭の中にあった。


 言わなかった。言えば、説明になる。説明は、長ければ長いほど弱くなる。


「妻は署名した」


 夫が、そこで初めて口を開いた。


「三年前の三月に、私の書斎で。この女は全部読んで、全部に署名した。自分でそう言っていた」


 わたしは夫のほうを見なかった。監査官が、わたしに視線を戻す。


「伯爵夫人。いかがですか」


 わたしは鞄から、一通の書付を出して、机の上に置いた。


「筆跡鑑定の申請書の写しでございます。三日前に、王都公証記録所へ提出いたしました。受付印がございます」


 監査官が受け取り、日付を見た。


「三日前」


「はい。この照会状が届く前でございます」


 その一言が、いちばん効いた。


 わたしが鑑定を申請したのは、貴族院から呼ばれたからではない。呼ばれる前に、自分で出していた。順番が逆であることを、紙が証明していた。


 監査官は書付を書記に渡し、写しを取るように指示した。


 鞄に戻すとき、写しの角が折れかけているのに気づいた。三日前、これを書いたのはわたしだ。けれど「先に、鑑定の申請を出します」と言ったのは、わたしではない。


 あのとき、理由は言われなかった。言われないまま、その日のうちに出せる書式が三枚、必要な順に並べて出てきた。──理由は、いま分かった。分かったところで、それを言う相手は登記所の三番の机にいて、この部屋にはいない。


「結果はいつ」


「六週から八週と伺っております」


「では、その結果が出るまで、この件については保留といたします」


 彼はペンを置いた。


「本日の確認は以上です。伯爵、建築費の件については、五日以内に領の会計との突合資料を提出してください。提出がない場合は、こちらで調べます」


 夫は、返事をしなかった。


        


 帰りの馬車で、夫が初めて口をきいた。


「……お前」


「はい」


「あそこで、なぜ言わなかった」


「何をでしょう」


「筆跡が違うと。俺が書いたと。言えばよかっただろう。あの場で言えば、お前は被害者だ」


 わたしは窓の外を見ていた。


「わたしは、見ておりませんので」


「何を」


「旦那様が書いたところを、見ておりません」


 夫が、息を呑む音がした。


「わたしが見たのは、自分が書いていないという事実だけです。それだけを申し上げました。──それ以上を申し上げますと、鑑定の結果と食い違ったときに、わたしの言葉が全部軽くなります」


「……お前は」


「はい」


「お前は、俺が思っていたより」


 彼はそこで止めた。止めた先を、わたしは訊かなかった。馬車が屋敷の門をくぐったとき、玄関に人が立っているのが見えた。義母だった。


 三年ぶりに、離れの棟から母屋の玄関まで出てきていた。手に、何かを持っている。近づいてから、それが古い文箱だと分かった。黒く塗った、角の擦れたものだった。


 馬車が停まる。夫が先に降りて、母を見上げた。義母は、息子のほうを見なかった。三年ぶりに離れを出た人が、母屋の玄関に立って待っている。待っている相手が誰なのかは、その立ち方で分かった。

エルヴィラは査問で、たった一言しか言いませんでした。「わたしは、署名しておりません」。


説明を足せば足すほど、言葉は弱くなります。彼女が用意したのは言葉ではなく、三日前の日付が入った紙一枚でした。──呼ばれてから動いたのではなく、呼ばれる前に動いていた。順番だけは、後から作れません。


義母が、三年ぶりに離れを出ました。手に文箱を持って。


次話、持参金の話になります。三年ぶりに離れを出た人が、何を抱えてきたのか。

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