第16話:わたくしのときには、その条項がございませんでした
義母は、玄関の三段の階段の、いちばん上に立っていた。抱えているのは、黒く塗った文箱だった。角が擦れて、塗りが剥げている。ずいぶん古いものらしい。夫が馬車から降りて、母を見た。
「母上。何をしておられるのです」
「あなたには用がありません」
義母は、息子のほうを見なかった。
「エルヴィラ。少し、いいですか」
離れの棟の、南向きの一間。わたしは右の椅子に座った。義母は左に座り、膝の上に文箱を置いた。
「開けなさい」
わたしは箱を受け取り、留め金を外した。中には、紙が一束入っていた。
いちばん上は、四年前の婚姻財産契約書。原本だった。仲介人の署名と、両家の印と、九つの条項。清書したのは、わたしの手だ。四年前のインクの色を、わたしは覚えている。
その下に、もっと古い紙が何通か。前伯爵の時代の借用証。宝石商からの受取証が五枚。日付は二十年前から十八年前まで。
「原本を、お持ちだったのですね」
「仲介人が二通作りました。一通は公証人へ。もう一通は当家へ。当家の分は、わたしが預かりました」
「アルブレヒト様は」
「あの子は、四年間、一度もこれを探しませんでした」
義母は膝の上で手を組んだ。
「探さなかったのではありません。あることを知らなかったのです」
わたしは契約書を開いた。
紙は、四年経っても白かった。良い紙を使ったのだ。仲介人が持ってきた下書きは薄い紙だったが、清書に使ったのはヴェッセル家の紙だった。父が「契約書の紙代を惜しむ家とは、契約するな」と言っていた。惜しむ家は、破るときも惜しまない、と。
第三条。〈持参金は夫の管理に属する〉。父が丸をつけた「管理」の横に、四年前のわたしが小さく書いた註がある。原本のほうにも、同じ註が入っていた。清書のときに、そのまま書き写したからだ。
──〈所有ではない〉。
「エルヴィラ。第三条は、何と書いてありますか」
義母が訊いた。訊き方が、試験のようだった。
「持参金は夫の管理に属する、と」
「管理とは」
「預かって、使う権利です。所有ではございません」
「では、婚姻が終わったとき、その八百ルドはどこへ行きますか」
わたしは顔を上げた。
「……返還されます。持参した側へ」
「そう書いてありますね」
「はい。第三条の但し書きに」
義母は、深く息を吐いた。それは、安堵の息のようにも、諦めの息のようにも聞こえた。
「昨日、その条項を確かめました。四年間、開けたことがなかったのです。──開けなくても中身は知っていました。仲介人が持ってきたとき、一度は読みましたから」
「では、なぜ昨日」
「わたしの記憶が、正しいかどうかを確かめたかったのです」
彼女は文箱の底から、いちばん古い紙を一枚抜いた。黄ばんだ、二つ折りの紙。開くと、それも婚姻財産契約書だった。二十六年前の日付。ラングフォード家と、聞いたことのない家の名。
義母の、婚姻の契約書だった。
「七条ございます」
義母は言った。
「持参金の額。納付の時期。婚姻中の管理。──そこまでは、あなたのものと同じです」
わたしは読んだ。第三条。〈持参金は夫の所有に帰す〉。但し書きは、なかった。
「管理、ではないのですね」
「所有、です」
義母の声は、平らだった。
「わたくしのときには、その条項がございませんでした」
窓の外で、庭師が枝を落としている音がした。この部屋に来ると、いつも同じ音がする。
「わたくしの父は、代書人ではありませんでした」
義母は言った。
「読める人でしたが、読んで、何も言いませんでした。良い縁組だから、と。──あの人にとって、良い縁組でしたので」
彼女は宝石商の受取証を一枚ずつ並べた。五枚。額は、それぞれ違う。合計すると、六百ルドを少し超えた。
「前の伯爵が同じことをしたとき、わたくしにできたのは、これだけでした。自分の首飾りを売って、使用人の給金に充てました。二十年前です。マルタが立て替えたのも、たしかその年です」
「大奥様」
「言わないでよろしい」
義母は手を上げて、遮った。
「憐れまれに来たのではありません。これを渡しに来たのです」
彼女は文箱を、わたしのほうへ押した。
「原本です。持っていなさい。わたくしが持っていると、あの子がいつか、燃やしてくれと言いに来ます。──言われたら、わたくしは燃やします。そういう母親です。四十年やってきて、それは直りません」
わたしは文箱に手を置いた。
「ですから、あなたが持っていなさい。あなたは燃やしません」
「……なぜ、そう思われるのですか」
「読む人だからです」
義母は、そこで初めて、こちらを見た。
「読む人は、燃やしません。書いてあることを、知ってしまっているからです」
わたしは文箱の中身を確かめ、留め金を閉めた。
「大奥様。一つ申し上げてもよろしいですか」
「なんです」
「持参金の返還を、いま求めるつもりはございません」
義母の眉が、わずかに動いた。
「……なぜ」
「婚姻が終わっておりませんので」
わたしは言った。
「第三条の但し書きは、婚姻が終わったときの定めでございます。いま持ち出せば、わたしが婚姻を終わらせたがっていることになります。──わたしは、家賃の話をしているだけです」
義母は、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。四年間で、わたしが初めて見る顔だった。
「あなた、本当に、算盤の家の娘ですね」
「はい」
「褒めております」
「存じております」
義母は椅子の背に体を預けた。
「大奥様。あと一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんです」
「二十年前、宝石をお売りになったとき、どなたかに相談なさいましたか」
義母は、黙っていた。
「……仲介人に、一度だけ」
「なんと」
「『奥様のお立場では、できることがございません』と」
彼女は、膝の上の手を見ていた。
「わたくしは、その言葉を信じました。信じるしかありませんでした。契約書を読んでも、できることが本当に書いてありませんでしたから」
わたしは、二十六年前の紙をもう一度見た。七条しかない契約書。但し書きのない第三条。この人は、読まなかったのではない。読んで、何も無かったのだ。
「エルヴィラ。あの子は、たぶん、もう持ちません」
「……はい」
「わたくしは、あの子を庇いません。庇うと、あなたまで沈みます。──二十年前、わたくしは庇いました。庇って、宝石を売って、家は続きました。続きましたが」
彼女は窓のほうを向いた。
「同じ子が、同じことをしました」
わたしは立ち上がり、文箱を抱えた。
「大奥様。明後日、いつも通り伺います」
「献立の話をするのですか」
「ええ。いつも通り」
義母は、こちらを見ずに答えた。
「……鶏がよろしい。近ごろ、肉が硬くていけません」
わたしは扉のところで一礼した。廊下に出ると、マルタが盆を持って待っていた。中身は空だった。空の盆を持って待つ理由はないので、この人はずっとそこにいた。
「マルタ」
「はい」
「大奥様は、四年間、わたしを試していらしたのかしら」
マルタは盆を持ち替えた。
「試すというほどのことは、なさらない方でございます。ただ、ご覧にはなっておりました」
「何を」
「奥様が、帳面をお開けになるかどうかを」
彼女は廊下の窓の外を見た。庭師の音は、もう止んでいた。
「大奥様は、二十年前に開けませんでした。開けたところで、書いてあることが無かったからでございます」
「マルタ。あなたは、それをご存じだったの」
「存じません」
彼女は言った。
「ただ、あの年の冬に、大奥様の首飾りが一つずつ減っていくのは見ておりました。減ったものは、二度と戻りませんでした」
わたしは文箱を抱え直した。中の紙は、たいして重くない。重いのは箱のほうだ。
「マルタ。明日、鶏を。柔らかいものを」
「承知いたしました」
部屋に戻って、文箱を机に置いた。角の塗りが剥げている。長いあいだ、誰かの手元にあった箱だ。
中のいちばん上が、四年前のわたしの契約書だった。父が印をつけた箇所は二つある。一つは第三条で、今日それが効いた。もう一つは、まだ読んでいない。
大奥様の父上は、読んで、何も言わなかった。わたしの父は、読んで、二か所に丸をつけた。読めるかどうかではなく、読んだあとに何をするかだったのだと思う。
二つ目の丸を、いつ開けるかは、まだ決めていない。
お読みいただきありがとうございます。
義母イルゼの契約書には、但し書きがありませんでした。二十六年前、彼女の父は「読める人」でしたが、読んで何も言わなかった。──エルヴィラの父は、読んで、二か所にペンで印をつけました。
その差が、二十年後にどれだけの違いになるか。この回は、その話です。
そしてエルヴィラは、手に入れたばかりの札をすぐには切りませんでした。「いま持ち出せば、わたしが婚姻を終わらせたがっていることになる」──彼女は、まだ家賃の話をしています。
次話、無愛想な記録官が、自分の昔の話を少しだけします。
二十六年ぶんの静けさに、息を吐いた方。☆をひとつ、大奥様に。




