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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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17/19

第17話:間に合わなかった人が、おりましたので

 鑑定の受理通知を受け取りに行ったのは、閉庁の少し前だった。登記所の窓口は、夕方になると急に静かになる。列は消え、番号を呼ぶ声もなく、木の床を歩く音だけが響いた。


 三番の机に、テオドール・グレイが座っていた。


「受理されました。番号は三百十二番です」


 彼は封を差し出した。


「二人の鑑定人が別々に見ます。結果が食い違えば、三人目が入ります。そのぶん延びます」


「延びると、いつごろに」


「十週」


 わたしは受理通知をしまった。


「グレイさん。もう一つ、お願いがございます」


「どうぞ」


「あの家の、土地のほうの履歴を見ることはできますか。──家屋は三年前に建ちました。では、その土地は、それより前は誰のものだったのでしょう」


 テオドール・グレイの手が、止まった。止まってから、彼は引き出しを開けて、一枚の紙を出した。


「これですか」


 わたしはその紙を見た。東通り四十七番地の、土地の登記の履歴だった。日付順に、所有者が並んでいる。


「……調べておられたのですか」


「ついでです」


「ついで」


「原簿を出したときに、目に入りましたので」


 彼はそれ以上言わなかった。わたしは紙を受け取り、いちばん下の行から順に上がっていった。三年前、伯爵家が買っている。その前は、ミルデンの町の共有地。その前は──指が止まった。


 文字を、二度読んだ。


「グレイさん」


「はい」


「この、二十二年前の所有者の名前は」


「ヴェッセル。あなたのご実家と、同じ姓です」


 わたしは紙を持ったまま、しばらく動けなかった。指の先が、少しだけ冷たくなっていた。


「……同じ姓の、別の家でしょうか」


「分かりません。ヴェッセルという姓は、王都に十一軒あります。男爵位を持つのは一軒だけですが、二十二年前はまだ男爵ではありませんでしたので、そこからは追えません」


 二十二年前。父が代書人の仕事から手を広げ、家を建て、土地をいくつか買っていた時期だった。わたしは五つか六つで、書斎の隅で紙を折って遊んでいた。


 父は土地を買っては、数年で売っていた。買うのは決まって、誰かが手放して困っているものだった。安く買って、整えて、次の人へ渡す。「これは商いだ」と言っていたが、渡した先の名前を、父はいつまでも覚えていた。


「調べれば分かりますか」


「分かります。ただ、時間がかかります。──いまは、別のことに時間を使うべきかと」


 彼の言い方は、正しかった。


「ええ」


 わたしは紙を丁寧に畳んで、鞄にしまった。いま追うべきは、二十二年前ではない。今月末までに来る、八百六十ルドのほうだ。


        


 帰りぎわ、わたしは訊いた。訊くつもりはなかったのに、口が動いていた。


「グレイさん。一つ、伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「なぜ、ここまでしてくださるのですか」


 彼は書きかけの書類にペンを置いた。窓の外は、もう暗くなりかけていた。閉庁の鐘が鳴るまで、あと少しあった。


「……間に合わなかった人が、おりましたので」


 わたしは待った。彼は黙り、それから椅子を少し引いて、机の上で手を組んだ。


「私の家は、王都の書記官の家です。長兄が家を継ぎ、次兄が神職に行きました。三男は、字が読めるだけでした」


「それで、登記所へ」


「最初は、荷運びです。十六のときに。──先にお話しした、控帳を運ぶ役目です」


 彼は指を、机の木目に沿わせた。


「二十一のとき、荷車三台ぶんを焼き場へ出しました。三年経った控帳です。規則どおりでした」


「はい」


「翌月に、女の方が来られました。四十くらいの、宿の女将さんでした」


 声は、平らなままだった。


「ご主人が亡くなって、その借金の保証人に自分がなっていると言われた、と。身に覚えがない。印紙を買った覚えもない。だから、いつ誰が買ったのかを調べてほしい、と」


 わたしは息を止めていた。


「先月、焼きました」


 彼は言った。


「私はそう申し上げました。他に言いようがありませんでしたので。──あの方は、日付を三度言い直されました。二月ではなかったか、三月ではなかったか、と。どの月であっても、もう無かったのですが」


「……その方は」


「礼を言って、帰られました」


 彼は手を組み直した。


「怒鳴られたなら、まだよかったのだと思います。あの方は、丁寧に礼を言って、扉のところで一度振り返って、それから帰られました。──三か月後に、宿を手放されたと聞きました」


 わたしは何も言えなかった。言えることが一つもなかった。


 慰めの言葉は思いついた。思いついたものを全部、口に出さずに畳んだ。この人が二十年近く抱えているものに、今日会ったばかりの人間が触れるのは、失礼にあたる。


「規則は正しいのです」


 テオドール・グレイは言った。


「三年で捨てなければ、控帳は建物ごと埋まります。誰かが決めなければならなかった年数です。──ただ、その年数の外側に落ちる人が、毎年、何人かおられます」


「それを、数えていらっしゃるのですか」


「数えてはおりません」


 彼は首を振った。


「覚えているだけです。数えると、たぶん、続けられなくなりますので」


 閉庁の鐘が鳴った。彼は立ち上がり、机の上の綴りを揃えはじめた。いつもの手つきだった。角から静かに、傷をつけまいとする手つき。


「奥様」


「はい」


「今月末で、あなたの控帳も焼かれます」


「はい」


「間に合いました」


 それだけ言って、彼は綴りを抱えて奥へ入っていった。わたしは階段を降りた。外は暗く、石畳が昼の熱を少し残していた。


 馬車を待つあいだ、わたしは鞄の中の紙を思った。原簿の写し。委任状の写し。借用証の写し。印紙の控えの証明書。婚姻財産契約の原本。土地の履歴。


 どれも、誰かが「捨てずに残した」から、いまここにある。紙は、勝手には残らない。残そうと決めた人間が、どこかに必ずいる。


 わたしの手元にある紙のうち、三枚はあの人が出してくれたものだった。ついでです、と言いながら。馬車が来た。わたしは乗り込んで、膝の上に鞄を置いた。鞄は、ずいぶん重くなっていた。


 三か月前、この鞄には家計の覚え書きと、糸巻きと、義母への見舞いの菓子しか入っていなかった。


 いま入っているのは、全部、誰かの手で書かれた紙だ。書いた人間はばらばらで、書いた目的もばらばらで、なのに、並べると一本の線になる。


 線を引いたのは、わたしではない。わたしはただ、順番に並べただけだ。馬車が石畳を鳴らして進むあいだ、わたしは窓の外の灯りを数えていた。


 王都の夜は、家ごとに灯りの数が違う。使用人の多い家は明るく、少ない家は暗い。ラングフォードの屋敷は、この三か月でずいぶん暗くなった。厨房の者が二人辞め、庭師が辞め、今月も給金が入っていない。


 その暗い家に、わたしは帰る。帰って、明日また出てくる。窓の硝子に、自分の顔が映っていた。三か月前より、少し痩せている。夜に紙を読む時間が増えたからだと思う。


 テオドール・グレイの、袖口のインクの染み。あれは毎日ついているのだろう。洗っても落ちきらないものが、あの位置につく仕事なのだ。


 わたしは指の側面を見た。四年前、婚礼の朝に落ちきらなかったインクは、とうに消えている。消えたが、書いた条項は、たぶんまだどこかにある。

テオドール・グレイが「三年で捨てられます」と正確に覚えていた理由は、この回のためにありました。彼は制度を憎んでいません。規則は正しい、とはっきり言います。その上で、規則の外側に落ちた一人を、二十年近く覚えている。


ミルデン東通り四十七番地の土地には、二十二年前の持ち主がいました。──この件は、いまは追いません。追うべきときが来ます。


次話、ミルデンへ。夫が、リゼルに「王都へ来い」と言いに行きます。

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