第18話:王都へ来い、とあの人は言った
三度目のミルデンで、東通りに見覚えのある馬車が停まっていた。
ラングフォードの紋がついている。轅を下ろしたままで、御者は御者台に座り、居眠りをしていた。長く待たされているらしい。
わたしは門を開けた。ボンが、庭の隅で伏せていた。尻尾を振らなかった。犬は、家の中の空気をよく拾う。扉は、少し開いていた。中から、男の声が聞こえた。
「──だから、王都に部屋を用意すると言っている」
夫の声だった。
「あの女が名義を手放さない以上、この家はいつまでも面倒だ。お前とノラは王都に移れ。それが早い」
わたしは、扉の前で足を止めた。入るべきか、聞くべきか。考えるほどのことでもなかった。ここはわたしの家だ。扉を押した。
台所に三人がいた。卓の向こうにリゼル。手前に夫。籠の中にノラ。ノラは目を開けていて、母親のほうを見ていた。夫がこちらを振り返り、そのまま固まった。
「……なぜ、お前がここに」
「名義人ですので」
わたしは扉を閉め、外套を脱いだ。
「先触れもなく参りまして、申し訳ありません。ノラさんの咳の具合を伺いに来ただけです。──お話し中でしたら、庭で待ちます」
「待つな。帰れ」
「わたしの家です」
その一言で、部屋の空気が止まった。リゼルが、両手を前掛けで握っていた。
「マイヤーさん」
わたしは彼女に声をかけた。
「わたしは何も聞きませんでしたし、何も言いません。お話は、あなたが決めることです」
リゼルの目が、わずかに動いた。わたしは壁際の椅子を引いて、そこに座った。籠のそばだった。ノラが手を伸ばしてきたので、指を一本、握らせた。夫が、苛立った声を出した。
「エルヴィラ。出ていけ」
「アルブレヒト様。わたしは、この家の名義人です。ここにいる権利があります。──ただ、話に加わるつもりはございません。座っているだけです」
「座っているだけの人間が、なぜここにいる」
「座っている場所が、わたしの家だからです」
夫は答えに詰まった。わたしは膝の上で手を組んで、卓のほうを見ないようにした。ノラの指が、わたしの指を握ったり離したりしていた。
「……リゼル」
夫が、向き直った。声の調子を変えていた。優しい声だった。
「王都に、小さいが良い部屋がある。ノラの体にもいい。ここは冬が厳しい」
「冬が厳しいのは、この家の造りのせいでございます」
リゼルが言った。夫の言葉が、止まった。
「北側に窓がなく、火のある部屋と寝る部屋が離れております。壁の厚みも、南と北で違います。──外から見た形を先にお決めになったからだ、と伺いました」
夫が、わたしのほうを見た。わたしは何も言わなかった。事実を言ったのはわたしだが、それを覚えて、この場で使ったのはこの人だった。
「そんなことは──」
「アル様」
リゼルは、彼をそう呼んだ。
「王都へ行けば、どうなりますか」
「どうもならない。今より楽になる」
「わたしは、あなたの何になりますか」
夫は答えなかった。この人は、三年間、その質問をされない場所ばかりを選んで生きてきた。
「名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
リゼルが言った。
「……何の話だ」
「あなたの、お名前です。屋号ではなく」
夫の顔から、色が抜けた。
「三年、伺いませんでした。伺ってはいけないのだと思っておりました。商いの方はそういうものだと、兄が申しましたので」
リゼルは、卓の上で手を組んだ。
「でも、名義人の方がいらしたときに、お名前で名乗られました。エルヴィラ・ラングフォードと。──そのとき、初めて、わたしはあなたの名字を知りました」
夫は椅子を引いた。立ち上がろうとして、途中でやめた。
「……ラングフォードだ」
「ご身分は」
「伯爵だ」
「奥様は」
夫は、答えなかった。リゼルは、わたしのほうを一度見た。それから、また前を向いた。
「王都へは、行きません」
「リゼル」
「行きません」
彼女は繰り返した。声は震えていたが、言葉は落ちなかった。
「わたしは、あの人に騙されておりました。でも、この三年、ノラを育てたのはわたしです。育てた場所は、この家です。──この家は、あなたのものではないと伺いました」
「あの女に何を吹き込まれた」
「何も」
リゼルは首を振った。
「奥様は、籠を三歩動かして、薪の置き場を変えて、窓を開ける時間を教えてくださっただけです。それだけで、ノラの咳は、夜のあいだ止まるようになりました」
夫が、こちらを見た。わたしは、ノラの指を握ったまま、黙っていた。
「……お前が、そそのかしたのか」
「壁が冷たかっただけでございます」
わたしは答えた。
「壁は、そそのかしません」
夫は、それから十分ほど粘った。金の話をした。ノラの将来の話をした。この町には仕事がないという話もした。どれもリゼルの答えを変えなかった。最後に、彼はこう言った。
「お前も、後で困るぞ」
それが、この人の手札の底だった。脅す言葉は、脅すしかなくなった人間が出す。夫は外套を掴んで、扉のところで一度振り返った。
「エルヴィラ」
「はい」
「月末までに、名義を戻せ」
「戻すものが、ございません」
扉が閉まった。馬車の音が遠ざかるまで、誰も口をきかなかった。リゼルが、椅子に座り込んだ。
「……奥様」
「はい」
「わたし、震えております」
見ると、彼女の手が、卓の上で細かく揺れていた。
「よく仰いました」
「言えたのは、名義人の方がそこにいらしたからです」
彼女はうつむいた。
「一人でしたら、たぶん、行くと申しました」
わたしは何も言わずに、湯を沸かしに立った。この家の湯呑みは、縁が欠けている。わたしはそれを二つ出して、卓に置いた。卓の端に、紙が一枚残っていた。
夫が置いていったものだった。持って帰るのを忘れたのか、置いていったのか、どちらか分からない。わたしは手に取って、読んだ。
更正登記の申請書だった。三週間前に書斎の机に置かれていた三枚のうちの、一枚目。理由の欄に〈登記の際、名義人の表示に錯誤があったため〉と書いてある。
署名の欄は、まだ空いていた。
あの人は、これをリゼルに見せるつもりだったのだと思う。見せて、「奥様が署名すれば全部片づく」と説明して、王都へ来る話に繋げるつもりだった。
説明の順番としては、悪くない。ただ、この紙をリゼルに読ませたのが失敗だった。
「マイヤーさん。これは、ご覧になりましたか」
「はい。冒頭だけ」
「どう思われました」
リゼルは湯呑みを両手で包んだ。
「……錯誤、という字が読めませんでした」
「間違い、という意味です」
「では、この紙は」
「三年前の登記が間違いだった、ということにする紙です」
彼女は、しばらくその紙を見ていた。
「奥様のお名前が、間違いだったことになるのですね」
「そうなります」
「……それは、嘘でございます」
リゼルは言った。
「奥様のお名前で建った家に、わたしとノラが三年住みました。間違いだったことにされますと、その三年も無かったことになります」
わたしは、その言い方を胸に置いた。この人は、条項は読めない。けれど、紙が何を消そうとしているかは分かる。わたしは申請書を畳んで、鞄に入れた。
この回のエルヴィラは、ほとんど何もしていません。壁際の椅子に座って、三歳の子どもに指を握らせていただけです。
けれどリゼルは、「名義人の方がそこにいらしたから言えた」と言いました。同じ部屋に、味方でも代弁者でもなく、ただ座っている人がいる──それだけで人が言えるようになる言葉が、たしかにあります。
夫の最後の言葉は「お前も、後で困るぞ」でした。脅すしかなくなった人間の、いちばん短い自白です。
次話、その「兄」が訪ねてきます。




