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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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19/22

第19話:妹を引き合わせた男

 湯が沸くころに、門の掛け金が鳴った。ボンが立ち上がって、今度は吠えた。庭の奥へ向かって、二度、三度。リゼルの顔が変わった。


「……兄です」


 扉が開いて、男が入ってきた。三十くらいの、痩せた男だった。上着は悪くないものだが、袖が擦り切れている。いいものを一着だけ持って、それを着続けている人の格好だった。


「リゼル。伯爵様の馬車が出ていったが、話は──」


 そこで、彼はわたしを見た。止まり方が、正直だった。


「……どちらさまで」


「エルヴィラ・ラングフォードと申します」


 男の喉が動いた。


「ヨナス・マイヤーさんでいらっしゃいますね」


「……なぜ、私の名を」


「委任状に、代理人としてお名前がございました。三年前の三月二十日付けの」


 ヨナスは、扉の前から動かなかった。わたしは椅子から立ち上がり、卓の椅子を一つ引いた。


「お座りになりませんか。湯が沸いております」


        


 ヨナスは座らなかった。立ったまま、こう言った。


「私は、何もしておりません」


「登記の代理を、なさっています」


「頼まれただけです。書類を持って役所へ行っただけで、中身は知りません」


「中身は、ご覧になりませんでしたか」


「……見ても分かりません。私は字が読めますが、ああいうものは読めません」


 それは、たぶん本当だった。


 「字が読める」と「書類が読める」は違う。父の書斎に来る客の半分は、字は読めても条項は読めなかった。


「ヨナスさん」


「はい」


「では、伺い方を変えます。あなたは、あの家の名義人が誰かをご存じでしたか」


 彼は答えなかった。


「わたしの名前を、書類に書いてお持ちになりました。名義人の欄です」


「……役所に出しただけです」


「出したのは、どなたのご指示でしょう」


「伯爵様です」


 答えは早かった。早いというのは、答えを何度も練習した人の答え方だった。


「リゼルさんには、なんとご説明を」


 ヨナスの目が、妹のほうへ動いた。リゼルは卓の向こうで、両手を膝に置いて座っていた。何も言わなかった。


「……独り身の商人だと」


「あなたは、ご存じでしたか。あの方がご結婚なさっていることを」


 長い沈黙があった。台所の湯が、音を立てはじめた。


「……知っていました」


 リゼルが、息を吸う音がした。


「いつからです」


「最初からです」


 ヨナスは、扉の枠に手をついた。


「三年半前、王都の宿で知り合いました。仕事を探していたところに、あの方が話をくださった。妹に会わせてほしい、と」


「その時点で、ご結婚なさっていると」


「聞きました。奥方がいると。その上で、妹を紹介しろと言われました」


「あなたは、なんと」


「……断りました。一度は」


 彼はそこで初めて、こちらを見た。


「一度は断りました。ですが、その次に会ったとき、金を出されました」


「いくら」


「三十ルド」


 わたしはその数字を胸に置いた。三十ルドは、ミルデンの家の家賃の三か月と少しだ。伯爵家の月々の炭代より、少し多い。


「その後も、受け取っておられますね」


「……月に、三ルド」


「三年間」


「はい」


 百八ルド。夫が「北部領の視察費」として毎月出していた三十ルドのうち、十分の一が、この男の袖に入っていた。リゼルが、立ち上がった。


「兄さん」


 声は、静かだった。静かすぎた。


「わたしが去年、一度だけ訊いたわね。あの人、本当に独りなのって」


 ヨナスは目を逸らした。


「あのとき、兄さんは何て言った」


「……」


「『そんなことを訊くと嫌われる』って言った」


 リゼルは前掛けを握った。


「わたし、それで訊くのをやめたの。三年、訊かなかった。訊かなければ、ノラが困らないと思ったから」


「リゼル、おれは──」


「三ルド」


 彼女は繰り返した。


「月に三ルド。それが、わたしの三年の値段だったのね」


 ヨナスは、何も言えなかった。


        


 わたしは二人のあいだに入らなかった。入るべきではなかったし、入る資格もなかった。この兄妹の話に、わたしの持っている紙は一枚も関係がない。ただ、一つだけ訊いた。


「ヨナスさん。最後に一つだけ、伺わせてください」


「……なんでしょう」


「三年前の三月二十日、あなたは印紙を何枚買われましたか」


 彼の顔が、動いた。いままででいちばん、はっきりと。


「……二枚です」


「二枚」


「はい。伯爵様に、二枚買ってこいと言われました。名義は奥方の名で、と」


「一枚は、委任状に貼られました」


「はい」


「もう一枚は」


 ヨナスは、口を開けて、閉じた。


「……お渡ししました。伯爵様に」


「貼られたところは、ご覧になりましたか」


「見ておりません」


 わたしはうなずいた。それでよかった。この人が見ていたら、この人は共犯になる。見ていないなら、この人はただの使い走りだ。どちらであっても、わたしの手元の紙は増えないが、話の形は変わる。


「ありがとうございます。──いまのお話、書き留めてもよろしいでしょうか」


「……書く」


「はい。あなたが仰ったことを、そのまま。あとで、あなたに読んでいただいて、間違いがなければ署名を」


 ヨナスの顔が、青くなった。


「私を、売る気ですか」


「いいえ」


 わたしは首を振った。


「あなたが仰ったことを、あなたの言葉のまま残すだけです。──もし後で誰かが、あなたが違うことを言ったと主張したときに、いちばん困るのは、あなたです」


 彼はしばらく黙っていた。それから、リゼルのほうを見た。妹は、兄を見なかった。


「……書いてください」


 ヨナスは言った。


「読みます。読んで、間違いがなければ、署名します」


 わたしは書き取ったものを読み上げた。


 途中で二度、彼が「そこは違う」と言った。一度目は、伯爵と知り合った場所。宿ではなく、宿の向かいの酒場だった。二度目は、断った回数。一度ではなく、二度断っていた。


 わたしは両方とも書き直した。


「二度、お断りになったのですね」


「……はい。二度目は、妹の名前を出されたときです。おれが妹の名を出したのではありません。あちらが調べておりました」


 わたしはペンを止めた。


「調べていた」


「宿屋の娘が一人いる、と。──おれが話した覚えはありません」


 三年半前の王都の酒場で、伯爵は既にミルデンの家の話を持っていた。持っていて、住む人まで調べていた。わたしはその一行も書き足した。


「ヨナスさん。いま仰ったことは、確かですか」


「確かです。忘れるはずがありません」


 彼は初めて、はっきりした声を出した。


「あのとき断っていれば、妹は宿を続けておりました。父の宿を、たたまずに済んだかもしれません」


「宿は、いつたたまれたのですか」


「三年前の春です。……ちょうど、家が建つ前でした」


 わたしはペンを置いた。順番が、そこでもう一度ひっくり返った。宿をたたんだから家に入ったのではない。家の話が先にあって、宿がたたまれた。


 どちらが先かは、この人の口からしか出ない。だから書き留めた。書き終えて、わたしは紙を彼のほうへ向けた。ヨナスは読んだ。読みながら、二度、指で行をなぞった。字が読める人の読み方だった。


「間違いは、ございません」


「では、日付とお名前を」


 彼はペンを取り、自分の名を書いた。書き終えてから、しばらくペンを置かずにいた。


「奥様。この紙は、妹にも見せますか」


「ご本人が望まれれば」


「……見せてください」


 彼は言った。


「おれの口から言うと、言い訳が混じります。紙なら混じりません」

ヨナス・マイヤーは、この物語でいちばん小さい悪人です。断ったのは一度だけで、二度目には受け取りました。月に三ルド、三年で百八ルド。──妹の三年が、その額で売られていました。


責めはしませんでした。責める代わりに、言ったことを紙にして、署名をもらいました。この人のやり方は、最初からずっと同じです。


なお、三年前の印紙は二枚。ヨナスが買い、一枚は委任状へ。もう一枚は「お渡ししました」。──貼られたところを、彼は見ていません。


次話、ノラの熱が上がります。


いちばん小さい悪人に、どうにも複雑な気持ちになった方。感想欄で、その複雑さを教えてください。

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