第19話:妹を引き合わせた男
湯が沸くころに、門の掛け金が鳴った。ボンが立ち上がって、今度は吠えた。庭の奥へ向かって、二度、三度。リゼルの顔が変わった。
「……兄です」
扉が開いて、男が入ってきた。三十くらいの、痩せた男だった。上着は悪くないものだが、袖が擦り切れている。いいものを一着だけ持って、それを着続けている人の格好だった。
「リゼル。伯爵様の馬車が出ていったが、話は──」
そこで、彼はわたしを見た。止まり方が、正直だった。
「……どちらさまで」
「エルヴィラ・ラングフォードと申します」
男の喉が動いた。
「ヨナス・マイヤーさんでいらっしゃいますね」
「……なぜ、私の名を」
「委任状に、代理人としてお名前がございました。三年前の三月二十日付けの」
ヨナスは、扉の前から動かなかった。わたしは椅子から立ち上がり、卓の椅子を一つ引いた。
「お座りになりませんか。湯が沸いております」
ヨナスは座らなかった。立ったまま、こう言った。
「私は、何もしておりません」
「登記の代理を、なさっています」
「頼まれただけです。書類を持って役所へ行っただけで、中身は知りません」
「中身は、ご覧になりませんでしたか」
「……見ても分かりません。私は字が読めますが、ああいうものは読めません」
それは、たぶん本当だった。
「字が読める」と「書類が読める」は違う。父の書斎に来る客の半分は、字は読めても条項は読めなかった。
「ヨナスさん」
「はい」
「では、伺い方を変えます。あなたは、あの家の名義人が誰かをご存じでしたか」
彼は答えなかった。
「わたしの名前を、書類に書いてお持ちになりました。名義人の欄です」
「……役所に出しただけです」
「出したのは、どなたのご指示でしょう」
「伯爵様です」
答えは早かった。早いというのは、答えを何度も練習した人の答え方だった。
「リゼルさんには、なんとご説明を」
ヨナスの目が、妹のほうへ動いた。リゼルは卓の向こうで、両手を膝に置いて座っていた。何も言わなかった。
「……独り身の商人だと」
「あなたは、ご存じでしたか。あの方がご結婚なさっていることを」
長い沈黙があった。台所の湯が、音を立てはじめた。
「……知っていました」
リゼルが、息を吸う音がした。
「いつからです」
「最初からです」
ヨナスは、扉の枠に手をついた。
「三年半前、王都の宿で知り合いました。仕事を探していたところに、あの方が話をくださった。妹に会わせてほしい、と」
「その時点で、ご結婚なさっていると」
「聞きました。奥方がいると。その上で、妹を紹介しろと言われました」
「あなたは、なんと」
「……断りました。一度は」
彼はそこで初めて、こちらを見た。
「一度は断りました。ですが、その次に会ったとき、金を出されました」
「いくら」
「三十ルド」
わたしはその数字を胸に置いた。三十ルドは、ミルデンの家の家賃の三か月と少しだ。伯爵家の月々の炭代より、少し多い。
「その後も、受け取っておられますね」
「……月に、三ルド」
「三年間」
「はい」
百八ルド。夫が「北部領の視察費」として毎月出していた三十ルドのうち、十分の一が、この男の袖に入っていた。リゼルが、立ち上がった。
「兄さん」
声は、静かだった。静かすぎた。
「わたしが去年、一度だけ訊いたわね。あの人、本当に独りなのって」
ヨナスは目を逸らした。
「あのとき、兄さんは何て言った」
「……」
「『そんなことを訊くと嫌われる』って言った」
リゼルは前掛けを握った。
「わたし、それで訊くのをやめたの。三年、訊かなかった。訊かなければ、ノラが困らないと思ったから」
「リゼル、おれは──」
「三ルド」
彼女は繰り返した。
「月に三ルド。それが、わたしの三年の値段だったのね」
ヨナスは、何も言えなかった。
わたしは二人のあいだに入らなかった。入るべきではなかったし、入る資格もなかった。この兄妹の話に、わたしの持っている紙は一枚も関係がない。ただ、一つだけ訊いた。
「ヨナスさん。最後に一つだけ、伺わせてください」
「……なんでしょう」
「三年前の三月二十日、あなたは印紙を何枚買われましたか」
彼の顔が、動いた。いままででいちばん、はっきりと。
「……二枚です」
「二枚」
「はい。伯爵様に、二枚買ってこいと言われました。名義は奥方の名で、と」
「一枚は、委任状に貼られました」
「はい」
「もう一枚は」
ヨナスは、口を開けて、閉じた。
「……お渡ししました。伯爵様に」
「貼られたところは、ご覧になりましたか」
「見ておりません」
わたしはうなずいた。それでよかった。この人が見ていたら、この人は共犯になる。見ていないなら、この人はただの使い走りだ。どちらであっても、わたしの手元の紙は増えないが、話の形は変わる。
「ありがとうございます。──いまのお話、書き留めてもよろしいでしょうか」
「……書く」
「はい。あなたが仰ったことを、そのまま。あとで、あなたに読んでいただいて、間違いがなければ署名を」
ヨナスの顔が、青くなった。
「私を、売る気ですか」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「あなたが仰ったことを、あなたの言葉のまま残すだけです。──もし後で誰かが、あなたが違うことを言ったと主張したときに、いちばん困るのは、あなたです」
彼はしばらく黙っていた。それから、リゼルのほうを見た。妹は、兄を見なかった。
「……書いてください」
ヨナスは言った。
「読みます。読んで、間違いがなければ、署名します」
わたしは書き取ったものを読み上げた。
途中で二度、彼が「そこは違う」と言った。一度目は、伯爵と知り合った場所。宿ではなく、宿の向かいの酒場だった。二度目は、断った回数。一度ではなく、二度断っていた。
わたしは両方とも書き直した。
「二度、お断りになったのですね」
「……はい。二度目は、妹の名前を出されたときです。おれが妹の名を出したのではありません。あちらが調べておりました」
わたしはペンを止めた。
「調べていた」
「宿屋の娘が一人いる、と。──おれが話した覚えはありません」
三年半前の王都の酒場で、伯爵は既にミルデンの家の話を持っていた。持っていて、住む人まで調べていた。わたしはその一行も書き足した。
「ヨナスさん。いま仰ったことは、確かですか」
「確かです。忘れるはずがありません」
彼は初めて、はっきりした声を出した。
「あのとき断っていれば、妹は宿を続けておりました。父の宿を、たたまずに済んだかもしれません」
「宿は、いつたたまれたのですか」
「三年前の春です。……ちょうど、家が建つ前でした」
わたしはペンを置いた。順番が、そこでもう一度ひっくり返った。宿をたたんだから家に入ったのではない。家の話が先にあって、宿がたたまれた。
どちらが先かは、この人の口からしか出ない。だから書き留めた。書き終えて、わたしは紙を彼のほうへ向けた。ヨナスは読んだ。読みながら、二度、指で行をなぞった。字が読める人の読み方だった。
「間違いは、ございません」
「では、日付とお名前を」
彼はペンを取り、自分の名を書いた。書き終えてから、しばらくペンを置かずにいた。
「奥様。この紙は、妹にも見せますか」
「ご本人が望まれれば」
「……見せてください」
彼は言った。
「おれの口から言うと、言い訳が混じります。紙なら混じりません」
ヨナス・マイヤーは、この物語でいちばん小さい悪人です。断ったのは一度だけで、二度目には受け取りました。月に三ルド、三年で百八ルド。──妹の三年が、その額で売られていました。
責めはしませんでした。責める代わりに、言ったことを紙にして、署名をもらいました。この人のやり方は、最初からずっと同じです。
なお、三年前の印紙は二枚。ヨナスが買い、一枚は委任状へ。もう一枚は「お渡ししました」。──貼られたところを、彼は見ていません。
次話、ノラの熱が上がります。
いちばん小さい悪人に、どうにも複雑な気持ちになった方。感想欄で、その複雑さを教えてください。




