第20話:医者を、呼びます
ノラの熱が上がったのは、その日の夕方だった。ヨナスが帰り、供述の書き取りを終えて、わたしが馬車を呼ぼうとしたときだった。籠のほうから、リゼルの声がした。
「……熱い」
わたしは近づいて、額に手を当てた。熱かった。乾いた咳のときとは違う。頬が赤く、目が潤んでいて、息が浅い。
「いつからですか」
「昼までは、何ともありませんでした」
リゼルの声が、うわずっていた。
「ミルデンに、お医者は」
「北の通りに。──ですが」
「ですが」
「先月、お代を待っていただいたままで」
わたしは立ち上がった。
「行ってまいります。場所を教えてください」
「奥様」
「わたしが行ったほうが早いのです。あなたは、この子のそばにいてください」
北の通りの医者は、六十がらみの、無愛想な男だった。名を告げると、すぐに顔をしかめた。
「マイヤーのところか。あそこはまだ先月の分が」
「わたしが払います」
わたしは財布を出した。
「先月の分と、今日の分と、それから、これから三か月ぶんを前に」
医者の手が止まった。
「……三か月」
「三つの子です。冬まで、たぶん何度かあります。そのたびにお代の話をしていると、呼ぶのが遅れます」
医者はわたしをじろじろ見た。身なりのいい女が、東通りの家の話をしている。彼はそれを口に出さなかった。
「鞄を取ってくる」
医者はノラを診て、こう言った。
「喉が腫れている。熱はここからだ。冷やして、水を飲ませて、寝かせておけばいい」
「命に関わりますか」
リゼルが訊いた。
「三つの子の熱は、たいてい二日で下がる。下がらなければ、また呼べ」
彼は薬を置いて、湯の温度と、水を飲ませる回数を指示した。それから、部屋を見回して、こう付け足した。
「この部屋は前より暖かいな。前に来たときは、寒くて往生した」
「籠を、動かしましたので」
「そうか。そのままにしておけ」
彼は帰っていった。
夜になった。
わたしは帰らなかった。乗合の最終は日暮れで、伯爵家の馬車を呼べば往復に半日かかる。それに、この家には大人が一人しかいなかった。
リゼルが、水を替えに立った。わたしは籠のそばに座って、ノラの額の布を絞った。三つの子の顔は、熱があると、大人よりずっと小さく見える。
「奥様」
リゼルが戻ってきて、卓の向こうに座った。
「申し訳ありません。こんな」
「謝ることではありません」
「……いえ」
彼女は両手を膝の上で握った。
「そうではなくて。──奥様に、こんなことをしていただく筋合いが、わたしにはございません」
わたしは布を絞る手を止めなかった。
「筋合いの話は、後でいたしましょう」
「奥様」
「いま、この部屋に大人が二人おります。子どもが一人、熱を出しております。それだけの話です」
リゼルは、しばらく黙っていた。それから、両手で顔を覆って、声を出さずに泣いた。
三年、この人はこの家で泣かなかったのだと思う。泣くと、隣の家に聞こえる。聞こえると、訊かれる。訊かれると、答えられない。
だから、この人は泣き方から先に、隠すようになっていた。わたしは何も言わなかった。慰めると、止まってしまう。止まらせたくなかった。
夜半に、ノラが目を覚ました。
「……おかあさん」
「ここにいるわ」
リゼルが手を握った。ノラは、それから、もう一方の側を見た。
「……おばさん」
「はい」
「ボンは」
「庭で寝ています。さっき覗いたら、足を伸ばして寝ておりました」
ノラは、少し笑ったように見えた。それから、また眠った。リゼルが、小さく息を吐いた。
「奥様。ノラは、犬のことばかり訊きます」
「大事なのでしょう」
「……あの犬は、拾ったのです。二年前の冬に、この庭で。ノラが見つけて、離さなくて」
彼女は、眠っている娘の髪を撫でた。
夜の台所は、昼と音が違う。火が小さくなると、家の木が鳴る。梁が縮む音だと大工が言っていた。良い材でも、乾ききるまでは鳴るのだそうだ。
わたしは布を絞り直した。桶の水は、もう温くなっている。
「奥様。少しお休みになってください」
「いえ」
「夜通しでは、お体が」
「三年、夜通し起きていたことがございませんので、たまには」
リゼルは笑った。
「奥様は、よく眠れる方でいらっしゃいますか」
「よく眠ります。父にも呆れられておりました。──ただ、この三月は少し」
「わたしもです」
彼女は膝を抱えた。
「あの人が来る日の前の晩は、眠れませんでした。来る日ではなく、その前の晩です」
「なぜでしょう」
「来てしまえば、あとは過ぎるからです。前の晩がいちばん長うございました」
わたしは、その言い方を覚えておこうと思った。わたしにも同じ晩があった。夫が帰ってくる前の晩、席次表を三度書き直していた。三度書き直しても、席は二つしかない。
二人とも、同じ人を待つ晩を、別の家で過ごしていた。
「リゼルさん。眠ってください。わたしが見ております」
「ですが」
「見るだけならできます。布を絞って、水を飲ませて、額に触るだけです」
わたしは桶を引き寄せた。
「わたしは、そういうことは得意なのです。手順のあることは」
リゼルは迷ってから、卓に伏せた。五分もしないうちに寝息が聞こえた。わたしは布を絞り、ノラの額に置いた。三つの子の呼吸は速い。速いが、規則正しかった。窓の外で、犬が一度だけ鳴いた。
「あの人は、犬は嫌いだと申しました。飼うなら外だ、と」
「外にいますね」
「はい。ずっと外です」
わたしは、庭のほうを見た。窓の向こうは暗くて、何も見えなかった。
「リゼルさん」
「はい」
「明日、わたしは王都へ戻ります。ですが、月末までにもう一度こちらへ参ります」
「……はい」
「そのときに、犬小屋を一つ、頼んでおきましょう。北側の物置を潰します。あそこは冷えるだけで、何の役にも立っておりません」
リゼルが顔を上げた。
「奥様。それは、家に手を入れるということでは」
「そうです」
「……よろしいのですか」
「名義人ですので」
わたしは布をもう一度絞った。
「壊すのは、名義人の権利です」
リゼルは何か言いかけて、やめた。やめてから、こう言った。
「奥様。犬小屋の代金は、わたしが出します」
「賃料も払えないと仰った方が」
「犬は、わたしの犬です」
その言い方に、わたしは黙った。黙ってから、うなずいた。
「では、そういたしましょう。木材はこちらで用意します。手間賃はあなたが」
「はい」
「領収は取っておいてください。誰が何を出したかは、後で必ず問題になります」
リゼルは笑った。
「奥様は、いつもそう仰いますね。日付と、名前と、言われたこと。──それから、誰が出したか」
言われてみれば、この三月、わたしはそればかり言っている。父もそうだった。書斎から出てくるたびに同じことを言っていた。子どものわたしは、それを説教だと思って聞いていた。
説教ではなかったのだと、いまになって分かる。あれは七人ぶんの後悔だったのかもしれない。
帰りの乗合を待つあいだ、わたしは広場の隅で薬包を数えた。医者が置いていった三包のうち、一包は使った。残りは二包。
三か月前のわたしは、薬の数を数えなかった。数える必要がなかったからだ。屋敷では必要なものは誰かが数えて、誰かが補充した。
薬包を鞄に戻すとき、指が別の紙に当たった。ミルデンの土地の履歴だ。テオドール・グレイが「ついでです」と言って引き出しから出した、あの一枚。広げると、いちばん下の欄の外に、細い字で書き足しがあった。──〈王都のヴェッセル、十一軒。うち代書を業とせし者、二軒〉。
原簿には、そんなことは載っていない。別の綴りを引かなければ出てこない数だった。いまは別のことに時間を使うべきかと、そう言った人が、そう言う前に、二軒まで絞っていたことになる。
わたしはその一行を指でなぞって、紙を畳んだ。いつお調べになったのですか、と訊けば答えるだろう。答えて、また「ついでです」と言うだろう。だから、訊かないことにした。
いまは自分で数える。数えると生活の輪郭が見える。輪郭が見えると、足りないところも見える。この家に足りないのは金ではなく、たぶん、余裕のある大人がもう一人だった。
わたしがそれになれるかどうかは、まだ分からない。
この回で、エルヴィラは初めて自分の財布を開きました。三か月ぶんを前払いしたのは親切ではなく、「お代の話をしていると呼ぶのが遅れる」からです。彼女はいつも、感情の前に段取りを置きます。
リゼルは、三年ぶりに泣きました。泣き方を隠すようになっていた人が、隣に誰かがいるときにだけ泣ける──という話でもあります。
犬は、ずっと外にいます。飼うなら外だ、と言った人がいるからです。
なお、鞄の中の土地の履歴には、原簿を引いても出てこない数が書き足してあります。書き足した人は、それを言いません。
次話、朝が来ます。




