↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/23

第20話:医者を、呼びます

 ノラの熱が上がったのは、その日の夕方だった。ヨナスが帰り、供述の書き取りを終えて、わたしが馬車を呼ぼうとしたときだった。籠のほうから、リゼルの声がした。


「……熱い」


 わたしは近づいて、額に手を当てた。熱かった。乾いた咳のときとは違う。頬が赤く、目が潤んでいて、息が浅い。


「いつからですか」


「昼までは、何ともありませんでした」


 リゼルの声が、うわずっていた。


「ミルデンに、お医者は」


「北の通りに。──ですが」


「ですが」


「先月、お代を待っていただいたままで」


 わたしは立ち上がった。


「行ってまいります。場所を教えてください」


「奥様」


「わたしが行ったほうが早いのです。あなたは、この子のそばにいてください」


        


 北の通りの医者は、六十がらみの、無愛想な男だった。名を告げると、すぐに顔をしかめた。


「マイヤーのところか。あそこはまだ先月の分が」


「わたしが払います」


 わたしは財布を出した。


「先月の分と、今日の分と、それから、これから三か月ぶんを前に」


 医者の手が止まった。


「……三か月」


「三つの子です。冬まで、たぶん何度かあります。そのたびにお代の話をしていると、呼ぶのが遅れます」


 医者はわたしをじろじろ見た。身なりのいい女が、東通りの家の話をしている。彼はそれを口に出さなかった。


「鞄を取ってくる」


        


 医者はノラを診て、こう言った。


「喉が腫れている。熱はここからだ。冷やして、水を飲ませて、寝かせておけばいい」


「命に関わりますか」


 リゼルが訊いた。


「三つの子の熱は、たいてい二日で下がる。下がらなければ、また呼べ」


 彼は薬を置いて、湯の温度と、水を飲ませる回数を指示した。それから、部屋を見回して、こう付け足した。


「この部屋は前より暖かいな。前に来たときは、寒くて往生した」


「籠を、動かしましたので」


「そうか。そのままにしておけ」


 彼は帰っていった。


        


 夜になった。


 わたしは帰らなかった。乗合の最終は日暮れで、伯爵家の馬車を呼べば往復に半日かかる。それに、この家には大人が一人しかいなかった。


 リゼルが、水を替えに立った。わたしは籠のそばに座って、ノラの額の布を絞った。三つの子の顔は、熱があると、大人よりずっと小さく見える。


「奥様」


 リゼルが戻ってきて、卓の向こうに座った。


「申し訳ありません。こんな」


「謝ることではありません」


「……いえ」


 彼女は両手を膝の上で握った。


「そうではなくて。──奥様に、こんなことをしていただく筋合いが、わたしにはございません」


 わたしは布を絞る手を止めなかった。


「筋合いの話は、後でいたしましょう」


「奥様」


「いま、この部屋に大人が二人おります。子どもが一人、熱を出しております。それだけの話です」


 リゼルは、しばらく黙っていた。それから、両手で顔を覆って、声を出さずに泣いた。


 三年、この人はこの家で泣かなかったのだと思う。泣くと、隣の家に聞こえる。聞こえると、訊かれる。訊かれると、答えられない。


 だから、この人は泣き方から先に、隠すようになっていた。わたしは何も言わなかった。慰めると、止まってしまう。止まらせたくなかった。


        


 夜半に、ノラが目を覚ました。


「……おかあさん」


「ここにいるわ」


 リゼルが手を握った。ノラは、それから、もう一方の側を見た。


「……おばさん」


「はい」


「ボンは」


「庭で寝ています。さっき覗いたら、足を伸ばして寝ておりました」


 ノラは、少し笑ったように見えた。それから、また眠った。リゼルが、小さく息を吐いた。


「奥様。ノラは、犬のことばかり訊きます」


「大事なのでしょう」


「……あの犬は、拾ったのです。二年前の冬に、この庭で。ノラが見つけて、離さなくて」


 彼女は、眠っている娘の髪を撫でた。


 夜の台所は、昼と音が違う。火が小さくなると、家の木が鳴る。梁が縮む音だと大工が言っていた。良い材でも、乾ききるまでは鳴るのだそうだ。


 わたしは布を絞り直した。桶の水は、もう温くなっている。


「奥様。少しお休みになってください」


「いえ」


「夜通しでは、お体が」


「三年、夜通し起きていたことがございませんので、たまには」


 リゼルは笑った。


「奥様は、よく眠れる方でいらっしゃいますか」


「よく眠ります。父にも呆れられておりました。──ただ、この三月は少し」


「わたしもです」


 彼女は膝を抱えた。


「あの人が来る日の前の晩は、眠れませんでした。来る日ではなく、その前の晩です」


「なぜでしょう」


「来てしまえば、あとは過ぎるからです。前の晩がいちばん長うございました」


 わたしは、その言い方を覚えておこうと思った。わたしにも同じ晩があった。夫が帰ってくる前の晩、席次表を三度書き直していた。三度書き直しても、席は二つしかない。


 二人とも、同じ人を待つ晩を、別の家で過ごしていた。


「リゼルさん。眠ってください。わたしが見ております」


「ですが」


「見るだけならできます。布を絞って、水を飲ませて、額に触るだけです」


 わたしは桶を引き寄せた。


「わたしは、そういうことは得意なのです。手順のあることは」


 リゼルは迷ってから、卓に伏せた。五分もしないうちに寝息が聞こえた。わたしは布を絞り、ノラの額に置いた。三つの子の呼吸は速い。速いが、規則正しかった。窓の外で、犬が一度だけ鳴いた。


「あの人は、犬は嫌いだと申しました。飼うなら外だ、と」


「外にいますね」


「はい。ずっと外です」


 わたしは、庭のほうを見た。窓の向こうは暗くて、何も見えなかった。


「リゼルさん」


「はい」


「明日、わたしは王都へ戻ります。ですが、月末までにもう一度こちらへ参ります」


「……はい」


「そのときに、犬小屋を一つ、頼んでおきましょう。北側の物置を潰します。あそこは冷えるだけで、何の役にも立っておりません」


 リゼルが顔を上げた。


「奥様。それは、家に手を入れるということでは」


「そうです」


「……よろしいのですか」


「名義人ですので」


 わたしは布をもう一度絞った。


「壊すのは、名義人の権利です」


 リゼルは何か言いかけて、やめた。やめてから、こう言った。


「奥様。犬小屋の代金は、わたしが出します」


「賃料も払えないと仰った方が」


「犬は、わたしの犬です」


 その言い方に、わたしは黙った。黙ってから、うなずいた。


「では、そういたしましょう。木材はこちらで用意します。手間賃はあなたが」


「はい」


「領収は取っておいてください。誰が何を出したかは、後で必ず問題になります」


 リゼルは笑った。


「奥様は、いつもそう仰いますね。日付と、名前と、言われたこと。──それから、誰が出したか」


 言われてみれば、この三月、わたしはそればかり言っている。父もそうだった。書斎から出てくるたびに同じことを言っていた。子どものわたしは、それを説教だと思って聞いていた。


 説教ではなかったのだと、いまになって分かる。あれは七人ぶんの後悔だったのかもしれない。


 帰りの乗合を待つあいだ、わたしは広場の隅で薬包を数えた。医者が置いていった三包のうち、一包は使った。残りは二包。


 三か月前のわたしは、薬の数を数えなかった。数える必要がなかったからだ。屋敷では必要なものは誰かが数えて、誰かが補充した。


 薬包を鞄に戻すとき、指が別の紙に当たった。ミルデンの土地の履歴だ。テオドール・グレイが「ついでです」と言って引き出しから出した、あの一枚。広げると、いちばん下の欄の外に、細い字で書き足しがあった。──〈王都のヴェッセル、十一軒。うち代書を業とせし者、二軒〉。


 原簿には、そんなことは載っていない。別の綴りを引かなければ出てこない数だった。いまは別のことに時間を使うべきかと、そう言った人が、そう言う前に、二軒まで絞っていたことになる。


 わたしはその一行を指でなぞって、紙を畳んだ。いつお調べになったのですか、と訊けば答えるだろう。答えて、また「ついでです」と言うだろう。だから、訊かないことにした。


 いまは自分で数える。数えると生活の輪郭が見える。輪郭が見えると、足りないところも見える。この家に足りないのは金ではなく、たぶん、余裕のある大人がもう一人だった。


 わたしがそれになれるかどうかは、まだ分からない。

この回で、エルヴィラは初めて自分の財布を開きました。三か月ぶんを前払いしたのは親切ではなく、「お代の話をしていると呼ぶのが遅れる」からです。彼女はいつも、感情の前に段取りを置きます。


リゼルは、三年ぶりに泣きました。泣き方を隠すようになっていた人が、隣に誰かがいるときにだけ泣ける──という話でもあります。


犬は、ずっと外にいます。飼うなら外だ、と言った人がいるからです。


なお、鞄の中の土地の履歴には、原簿を引いても出てこない数が書き足してあります。書き足した人は、それを言いません。


次話、朝が来ます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。