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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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第21話:わたしも、知りませんでした

 朝、熱は下がっていた。ノラは籠の中で起き上がって、いちばんに窓の外を指した。


「ボン」


「後でね」


 リゼルが粥を運んできた。三つの子は、熱が下がると、下がる前より元気になる。医者の言った通り、二日もかからなかった。わたしは外套を着て、鞄を持った。


「では、失礼します」


「奥様」


 リゼルが、扉の前に立った。立ってから、何を言うかを決めていなかったらしい。しばらく、言葉を探していた。


「……あの」


「はい」


「奥様は、いつからご存じでしたか」


 わたしは鞄を持ち直した。


「先月の、二十三日です」


「先月」


「徴税吏の方が、税の通知をお持ちになりました。ミルデンの家屋の名義人として。──それまで、わたしはミルデンという町の名前も知りませんでした」


 リゼルの目が、大きくなった。


「では、あの人がここに通っていたことも」


「存じませんでした」


「三年、ずっと」


「三年、ずっとです」


 わたしは言った。


「北部領の水路を見に行っていると聞いておりました。冬も行くのだと聞いて、そういうものかと思っておりました」


 リゼルの顔から、少しずつ、何かが抜けていった。彼女はこう思っていたのだ。──奥様は知っていて、黙って、それでも許していた立派な方なのだと。あるいは、知っていて、いま復讐に来たのだと。どちらでもなかった。


「奥様。わたしは、ずっと、奥様に申し訳ないと思っておりました」


「はい」


「知らずに、三年、あの人の家に住んで。奥様のご不幸の上に、暮らしておりました」


「リゼルさん」


 わたしは彼女の言葉を止めた。


「わたしも、知りませんでした」


 リゼルが、まばたきをした。


「わたしも、知らずに三年おりました。あなたと同じです。──同じ人に、同じだけ、知らされておりませんでした」


「……ですが、奥様は奥様で」


「立場が違うだけです」


 わたしは首を振った。


「わたしは王都で『領地のためですから』と客に説明し、あなたはここで『行商で留守がちで』とご近所に説明なさいました。二人とも、聞かされた通りを、自分の口で繰り返しました。──どちらが上でも下でもございません」


 リゼルは前掛けの端を握った。わたしは続けた。


「ですから、謝らないでください。謝られますと、こちらが赦す形になります。わたしには、あなたを赦す資格がありません。赦す・赦さないの間柄では、そもそもないからです」


「では、わたしたちは、何なのでしょう」


 彼女は訊いた。いい質問だった。わたしも、その答えを持っていなかった。考えて、いちばん正確なものを選んだ。


「同じ人に嘘をつかれた、二人の女です」


 リゼルはその言葉をゆっくり繰り返した。


「同じ人に、嘘を」


「はい」


「……わたしは、それでよろしいのでしょうか」


「よろしいも何も、事実です」


 わたしは鞄を持ち直した。


「事実は、都合が悪くても動きません。動かないものの上には、立てます」


 彼女は黙っていた。


「奥様は、こわい方ですね」


「そうでしょうか」


「はい。──ですが、たぶん、いちばん安心できる種類のこわさです」


 わたしはその評を、後で何度か思い出すことになる。こわい、と言われたのは初めてではない。四年前、婚礼の前に父の書斎の客が、わたしを見て同じことを言った。代書人の娘は目の使い方が違う、と。


 あのときは褒められていないと思った。いまも褒められているとは思わない。ただこわいと言われる女に、リゼル・マイヤーは家の中を見せて、湯を出して、娘の熱の話をした。


 人を追い詰めるこわさと、追い詰められている人の隣に座れるこわさは、別のものだ。


        


 乗合の停まる広場まで、リゼルが送りに出た。ノラは家に置いてきた。犬が見張っている、という約束になっていた。


「奥様」


「はい」


「兄のことですが」


 わたしは足を止めた。


「昨日の書き取りは、あれでよろしかったでしょうか」


「ええ。ご本人が読んで、署名なさいました。──あれは、あなたのお兄さんを罰する紙ではありません」


「では、何の紙でしょう」


「三年前の三月二十日に、印紙が二枚買われたという事実を、買った人の言葉で残した紙です」


 わたしは鞄を軽く叩いた。


「一枚は委任状に貼られました。もう一枚は、伯爵に渡されました。──ここまでは、お兄さんが自分の目で見たことです。その先は、見ておられません」


「その先が、大事なのですね」


「大事です。ですが、いま持っている紙では届きません」


 わたしは正直に言った。


「あと四週から六週、待ちます。筆跡の鑑定が出ます。それが出れば、届くかもしれません」


「出なければ」


「そのときに考えます」


 リゼルは黙って歩いた。広場が見えてきたところで、彼女はこう言った。


「奥様。わたしにできることは、ございますか」


 わたしは少し考えた。


「二つ、お願いしてもよろしいですか」


「はい」


「一つ。この家に、これから何かを言いに来る人が現れるかもしれません。伯爵の使いか、商会の方か、あるいは別の誰かか。──来たら、何も答えず、日付と、名前と、言われたことだけを書き留めておいてください」


「書き留める」


「はい。答えなくて結構です。書くだけで、後で効きます」


 リゼルはうなずいた。


「二つ目は」


「ノラさんの背丈を、また測ってください」


 彼女が、顔を上げた。


「壁の線です。三本ございました。──今年の分は、まだ入っておりませんね」


 リゼルの唇が、少しだけ震えた。


「……はい」


「四本目を、入れておいてください。わたしが次に伺うまでに」


        


 乗合馬車の中で、わたしは膝の上の鞄を見ていた。中には、ヨナスの供述書が入っている。昨日、彼が読んで、署名した紙。その一枚が、この三日で増えたものだった。


 紙は、少しずつしか増えない。増えないが、減りもしない。窓の外を、麦の畑が流れていった。あと四週。麦が色を変えるくらいの時間だ。この畑は、わたしが次に通るときには刈られている。


 馬車が街道に出ると、麦の穂が同じ向きに倒れているのが見えた。毎年同じ向きに倒れる畑を、この町の人は毎年起こしている。


 わたしは膝の上で、指を折って日を数えた。鑑定の結果まで四週。商会の期日は、もう過ぎている。貴族院の照会は保留のまま。屋敷の給金は、今月も出ない。どれ一つ、わたしが動かせるものはなかった。


 三か月前なら、それが不安だったと思う。いまは、そうでもなかった。待っているあいだにも、紙は増える。今日は一枚増えた。増えた紙は減らない。


 父の帳面に、こういう言葉があったのを思い出した。


 〈急ぐ客ほど損をする。急がせるのは、たいてい向こう側だ〉


 夫は「月末までに」と言った。商会は「月末まで」と言った。法官が来るとすれば、その人も期日を切ってくるだろう。期日を切る人は、期日までに片づけたい理由がある。こちらには、その理由がない。


 わたしは窓の外を見た。日が傾いて、麦の影が長くなっていた。


 鞄の内側の隙間に、書きかけの便りが一枚ある。三番の机あてに、四週のあいだ何を揃えておけばよいかを訊こうとして、二行で止めたものだ。訊かなくても、たぶん分かる。分かるのに、まだ捨てていない。

「わたしも、知りませんでした」──この一言は、たぶんこの物語でいちばん短い救いです。


リゼルは謝ろうとしました。謝れば、エルヴィラが赦す側になります。エルヴィラはそれを断りました。赦す・赦さないの関係を作った瞬間に、二人は上下になってしまうからです。


代わりに彼女が選んだ言葉は、「同じ人に嘘をつかれた、二人の女です」でした。


壁の線は、四本目を待っています。


次話、鑑定の結果が出ます。

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