第22話:二枚の署名
月末は、何事もなく過ぎた。
家賃の三百四十二ルドは、支払われなかった。クヴェレ商会への八百六十ルドも、支払われなかった。商会からはわたし宛てに督促が一通来たが、「鑑定中」の通知を出すと、それきり止まった。裁きに持ち込まれたとき立場が悪くなる、というテオドール・グレイの読みは当たっていた。
印紙売捌所の控帳は、月末に焼かれた。証明書は、わたしの鞄の中にある。夫は、屋敷にほとんど帰らなかった。
帰ってきた日は、書斎に籠もって誰にも会わなかった。貴族院に提出する突合資料を作っていたはずだが、作れるものが無いことは、たぶん本人がいちばんよく知っていた。
厨房の者が二人と、庭師が一人、辞めていった。わたしは引き止めなかった。代わりに、マルタの立替分をわたしの手持ちから返した。父が持たせてくれた小遣いが、四年ぶんそのまま残っていた。伯爵夫人には、自分の金を使う機会がほとんどない。
義母は、離れから出てこなかった。ただ、月に二度の見舞いは続いていた。献立の話をして、鶏の硬さの話をして、四半刻で帰る。
四週目の水曜日に、登記所から使いが来た。
三番の机の上に、封が一つ置いてあった。
「公証記録所から、昨日届きました」
テオドール・グレイは、封を開けずにこちらへ滑らせた。
「開けておりません。宛先はあなたです」
わたしは封を取った。思ったより薄かった。四週間待った紙が、二枚しか入っていないというのは、少し妙な感じがした。わたしは封を切り、読んだ。一枚目は、鑑定人二名の所見。二枚目は、証明書だった。
所見の文は短かった。専門の語がいくつかあったが、意味は取れた。父の書斎で覚えた読み方をした。難しい文は、主語と述語を先に抜く。
──甲号(委任状)の署名と、乙号(借用証)の署名は、字形において高度に一致する。──ただし、乙号には運筆の停留が二箇所認められ、筆圧の分布が甲号と異なる。
──乙号は、甲号を範として作成された模写と認めるのが相当である。──よって、両者は同一人の自然な筆記によるものとは認められない。わたしはその四行を三度読んだ。
三度目を読み終えたとき、手が震えた。
震えたのは、たぶん、怒りではなかった。四週間、この紙が出るまで、わたしは自分の言葉を一つも足さずに待っていた。待つというのは、こんなに握力を使うことだったのかと思った。
「奥様」
テオドール・グレイが言った。
「読み上げていただけますか」
わたしは顔を上げた。
「……なぜ」
「私も、聞いておきたいので」
わたしは所見を持ち上げ、四行を声に出して読んだ。読み終えると、彼は少しのあいだ黙っていた。それから、こう言った。
「あなたの言った通りでした」
「わたしは、何も申しておりません」
「『わたしの字ですが、わたしは書いておりません』と仰いました」
彼は言った。
「あれは、鑑定人が四週間かけて書いたことと、同じ意味です。──あの日、あなたはすでに正確でした」
わたしは証明書のほうを見た。公証記録所の印。日付。番号は三百十二番。
わたしが自分の目で見たこと以外を言わなかったのは、慎重だったからではない。言えなかったからだ。見ていないものは、見ていないとしか言えない。
その言い方が、四週間後に、鑑定と一言一句ずれずに並んだ。
「グレイさん」
「はい」
「これは、何に使えますか」
彼は指を三本立てた。
「一つ。商会に対して、保証債務の不存在を主張できます。商会は貸した相手──つまり伯爵にしか請求できなくなります」
「二つ目は」
「貴族院の査問に提出できます。保留になっていた件が動きます」
「三つ目は」
彼は、三本目の指を少し下げた。
「三つ目は、使い方に気をつけてください」
「……と、仰いますと」
「他人の署名を写して債務を負わせるのは、罪です」
彼の声は静かだった。
「この紙を裁きの場に出せば、伯爵は罪に問われます。財産の話ではなく、身柄の話になります」
わたしは証明書を膝の上に置いた。罪。身柄。その二つの言葉が、四週間ずっと考えないようにしていた場所に、まっすぐ入ってきた。
「出さないという選択も、あるということですか」
「あります」
「出さなければ」
「保証は消えます。それだけです」
彼は事実だけを並べた。勧めもしなかったし、止めもしなかった。
「──奥様。これは、あなたが決めることです。私は登記所の人間ですので、どちらの手続きもお手伝いします」
帰りの馬車で、わたしは二枚の紙を膝に置いていた。紙が一枚あると、道が一本増える。二枚あると、道が二本になる。
わたしは、この四週間、紙を増やすことだけを考えてきた。増やせば、増やしただけ選べるようになるからだ。いま、選べるようになった。
三か月前、わたしには何も無かった。名義があると言われても、それが何を意味するのか分からなかった。分からないものは、持っていないのと同じだ。
いまは九枚ある。
九枚のうち、わたしが自分で書いたものは二枚だけだった。請求書と、ヨナスの供述書。あとは全部、誰かが書いた紙をもらってきたものだ。
もらってこられたのは、頼み方を知っていたからではない。窓口へ行って、順番に並んで、名義人ですと名乗っただけだ。名乗る資格が、こちらにあった。それだけのことだった。
馬車が屋敷へ近づくにつれ、灯りが少なくなっていく。
三か月前まで、わたしはこの家の女主人だった。いまも、書面の上ではそうだ。ただ、この家で動かせるものは、もうほとんど残っていない。
残っているのは、半日南にある白い漆喰の家だけだった。あの家は、通りから見ると立派に見える。北側の壁には藁が入っていない。それでも、あの家には人が住んでいる。線が四本、壁に引いてある。
この屋敷には四年住んで、線が一本も引かれていない。引く相手がいなかったからだ、と言えばそれまでだった。
ただ、線というのは、子どもの背丈だけのものではない。この家に来てから、わたしは自分の何を測ってきただろうと考えた。席次表。給金。飼葉。義母の見舞いの回数。
どれも増えも減りもしない数字だった。増えも減りもしないものを四年間数えて、それを務めだと思っていた。務めではあったのだと思う。ただ、それだけだった。
線は、誰かが引こうと決めなければ、一本も入らない。選べるというのは、選ばなければならないということでもあった。窓の外を、王都の街が流れていく。
三年前の三月二十日、夫は窓辺で四十分、わたしの手元を見ていた。見て、覚えて、後で、写した。あの四十分に、この人は何を考えていたのだろう。
妻の字を覚えようとしている自分について、何か思ったのだろうか。馬車が屋敷の門をくぐった。屋敷の窓は、三つのうち二つが暗かった。三か月前は、全部に灯りが入っていた。
わたしは馬車を降り、二枚の紙を鞄にしまい直した。しまうとき、留め金が上手く掛からなかった。中身が増えすぎている。玄関に、見覚えのある太った男が立っていた。
クヴェレ商会の、バルタザール・クヴェレだった。
お読みいただきありがとうございます。
第一部第三章、ここまでです。
鑑定人が四週間かけて書いた四行は、エルヴィラが第14話で言った一言と同じことを言っていました。「わたしの字ですが、わたしは書いておりません」──見たことだけを言う、という作法は、ときどきこういう形で報われます。
そして、この紙には三つ目の使い方があります。財産ではなく、身柄の話になる使い方が。
彼女はまだ、それを選んでいません。
次章「離縁」。玄関に、商会主が立っています。




