↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/30

第23話:取り立ての向きが、変わりました

 バルタザール・クヴェレは、玄関の外で待っていた。中へ通されなかったのではない。マルタが客間へ案内しようとしたのを、彼のほうが断ったのだという。奥様がお戻りになるまで、ここで結構です、と。


「お待たせいたしました」


「いえ。玄関先のほうが、話が早いこともございます」


 彼は帽子を取った。わたしは扉を開けて、彼を客間へ通した。前と同じ椅子に、彼は前と同じように、脚の具合を確かめてから座った。


「本日は、督促に参りました」


「はい」


「奥様に、でございます」


 彼は鞄から書付を出した。前と同じ借用証の写しと、それから新しい一通。保証人に対する請求書だった。わたしは請求書を受け取り、額と日付を確かめた。それから、自分の鞄から二枚の紙を出して、卓の上に置いた。


「これをご覧いただけますか」


 クヴェレは老眼らしく紙を少し遠ざけて読んだ。読み終えるまで、二分ほどかかった。その二分のあいだに、彼の顔からは何も読み取れなかった。この人は、驚くところを人に見せない訓練を、たぶん三十年している。


「……公証記録所の証明でございますね」


「はい」


「模写、と」


「はい」


 彼は紙を卓に戻した。


「奥様。念のために伺いますが、この鑑定は、いつご申請に」


「先月の十七日でございます」


「借用証を、わたくしがお持ちした翌日でございますね」


「はい」


 クヴェレはしばらく黙っていた。それから深く息を吐いた。


「……なるほど。あの日、写しを二通お求めになった意味が、いま分かりました」


「一通は鑑定に出しました」


「もう一通は」


「手元に。並べる紙は、二枚要りますので」


 彼は椅子の背に体を預けた。


「奥様。わたくしどもの立場を申し上げます」


「どうぞ」


「わたくしは、この証明に異議を申し立てることができます。鑑定は絶対ではございません。別の鑑定人を立てて、争うこともできます」


「できますね」


「できます。──ただ、いたしません」


 彼はきっぱりと言った。


「争えば、こちらは公証記録所の証明を敵に回します。勝つ見込みは低く、費用はかかり、時間もかかる。そのあいだに、閣下の財産はもっと減ります」


 彼は請求書に手を伸ばし、自分の鞄へ戻した。


「保証は、なかったことにいたします」


「よろしいのですか」


「よろしいも何も、無いものは無いのでございます」


 クヴェレは肩をすくめた。


「わたくしは、初めからそう申し上げております。額は動かない。動くのは、誰が負うかだけ。──負う方が、変わっただけのことでございます」


        


「では、どうなさいますか」


 わたしが訊くと、彼はあっさり答えた。


「閣下へ請求いたします。全額を、閣下に」


「お払いになれますか」


「無理でございましょう」


 彼は即答した。


「ですから、差押えに入ります。手続きは明日から。──屋敷の家財、馬、それから領の収益の一部。貴族院の査問が入っておりますので、領地そのものには手がつけられませんが、動くものはございます」


「ミルデンの家は」


「奥様のご名義でございます。手はつけられません」


 彼はそこで、少しだけ身を乗り出した。


「奥様。これは商いの話としてお聞きください」


「はい」


「閣下からの回収は、たぶん、半分がやっとでございます。四百ルドか、それを少し超えるくらい。残りは焦げつきます」


「では、損をなさいますね」


「いたします。──それでも、奥様から取るよりは、ずいぶんましでございます」


「なぜでしょう」


 クヴェレは初めて笑った。


「無い保証で取り立てた商会だ、と言われますと、次から誰も借りてくれません。うちは金を貸して食っております。信用のほうが高くつくのでございます」


「クヴェレさん。もう一つ伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「三年前この借用証をお作りになったとき、保証人の署名をどこでご覧になりましたか」


 彼の目がわずかに動いた。


「……閣下がお持ちくださいました」


「その場で書かれたのではなく」


「はい」


「本人の確認は」


「いたしませんでした」


 彼は正直に答えた。


「貴族の奥方に、商人が署名の確認へ伺うわけには参りません。──それが慣いでございます」


「その慣いのために、三年かかりました」


「……返す言葉がございません」


 彼は帽子を膝に置いた。


「奥様。うちは今後、保証人のご署名は本人の前でいただくことにいたします。今日、決めました」


「それは、わたしのためではございませんね」


「違います」


 彼はきっぱり言った。


「次に同じことが起きたとき、うちが損をしないためでございます」


 わたしはうなずいた。この人は最後まで正直だった。わたしはその言い分を頭の中で二度なぞった。この人は善人ではない。ただ、計算が正確なだけだ。


 そして計算が正確な人間は、正しい紙が出てきたときに、いちばん早く向きを変える。


        


 クヴェレは帽子をかぶり、玄関で一礼した。そこで、一つだけ訊いてきた。


「奥様。ご無礼を承知で、もう一つだけ」


「はい」


「その証明を、裁きの場にお出しになりますか」


 わたしは答えなかった。


「余計なことを申しました」


「いえ」


 わたしは首を振った。


「まだ、決めておりません」


「……さようでございますか」


 彼は帽子のつばに手をかけた。


「商人の身で申し上げることではございませんが。──出せば、閣下は牢へ参ります。出さねば、閣下は無一文になるだけでございます」


「はい」


「どちらでも、奥様のご損得は変わりません」


 彼は言った。


「変わらないものを選ぶときは、後で自分が何を思い出したいかで決めるのがよろしいかと。わたくしは、そうしております」


        


 その晩、夫が屋敷に帰ってきた。三週間ぶりだった。馬車の音を聞いて、わたしは階段の上まで出た。


 夫は玄関で外套を脱ぎ、それを女中に渡すのではなく、床に落とした。拾う者がいなかった。厨房の者は二人辞め、庭師も辞め、女中は一人になっていた。


「エルヴィラ」


 彼はこちらを見上げた。痩せていた。前に見たときより、はっきりと。


「話がある」


「はい」


「離縁は、しない」


 わたしは階段の上から、その顔を見ていた。


「絶対に、しないからな」


 わたしは階段を降りた。降りきったところで、床に落ちたままの外套を拾った。埃がついている。三年前なら、女中が三人がかりで払ったものだった。


「アルブレヒト様」


「なんだ」


「明日、商会が参ります。差押えです」


「……知っている」


「立ち会われますか」


 夫は答えなかった。


「立ち会わない場合、目録は商会の言い値で作られます。立ち会えば、こちらの言い分を書かせられます」


「……どちらでも同じだ」


「同じではございません」


 わたしは外套を椅子の背に掛けた。


「同じだと思って何もしないと、後で『あのとき何も言わなかった』と言われます。一言でも言っておけば、記録に残ります」


 夫はこちらを見た。


「……お前は、なぜ俺にそれを言う」


「明日いらっしゃるのが、わたしの知っている商人だからです」


 わたしは玄関の燭台を消した。


「あの方は、言わない人からは、言わないだけ取ります」


 夫は答えなかった。答えないまま、階段を上がっていった。翌朝、彼は玄関に立っていた。立ち会うつもりらしかった。

商会主クヴェレは、鑑定書を読んで二分後に、矛先を変えました。「無い保証で取り立てた商会だ、と言われますと、次から誰も借りてくれません」──彼は正義感で動いていません。信用のほうが高くつく、という計算で動いています。


だからこそ、彼はいちばん早く動きました。感情で動く人は、認めるまでに時間がかかります。


帰りぎわの一言も、この人らしいものでした。「変わらないものを選ぶときは、後で自分が何を思い出したいかで決める」。


次話、夫が「離縁はしない」と言い張る理由が明らかになります。惜しんでいるのは、妻ではありません。


矛先が変わる二分間が痛快だった方は、☆をひとつどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。