第23話:取り立ての向きが、変わりました
バルタザール・クヴェレは、玄関の外で待っていた。中へ通されなかったのではない。マルタが客間へ案内しようとしたのを、彼のほうが断ったのだという。奥様がお戻りになるまで、ここで結構です、と。
「お待たせいたしました」
「いえ。玄関先のほうが、話が早いこともございます」
彼は帽子を取った。わたしは扉を開けて、彼を客間へ通した。前と同じ椅子に、彼は前と同じように、脚の具合を確かめてから座った。
「本日は、督促に参りました」
「はい」
「奥様に、でございます」
彼は鞄から書付を出した。前と同じ借用証の写しと、それから新しい一通。保証人に対する請求書だった。わたしは請求書を受け取り、額と日付を確かめた。それから、自分の鞄から二枚の紙を出して、卓の上に置いた。
「これをご覧いただけますか」
クヴェレは老眼らしく紙を少し遠ざけて読んだ。読み終えるまで、二分ほどかかった。その二分のあいだに、彼の顔からは何も読み取れなかった。この人は、驚くところを人に見せない訓練を、たぶん三十年している。
「……公証記録所の証明でございますね」
「はい」
「模写、と」
「はい」
彼は紙を卓に戻した。
「奥様。念のために伺いますが、この鑑定は、いつご申請に」
「先月の十七日でございます」
「借用証を、わたくしがお持ちした翌日でございますね」
「はい」
クヴェレはしばらく黙っていた。それから深く息を吐いた。
「……なるほど。あの日、写しを二通お求めになった意味が、いま分かりました」
「一通は鑑定に出しました」
「もう一通は」
「手元に。並べる紙は、二枚要りますので」
彼は椅子の背に体を預けた。
「奥様。わたくしどもの立場を申し上げます」
「どうぞ」
「わたくしは、この証明に異議を申し立てることができます。鑑定は絶対ではございません。別の鑑定人を立てて、争うこともできます」
「できますね」
「できます。──ただ、いたしません」
彼はきっぱりと言った。
「争えば、こちらは公証記録所の証明を敵に回します。勝つ見込みは低く、費用はかかり、時間もかかる。そのあいだに、閣下の財産はもっと減ります」
彼は請求書に手を伸ばし、自分の鞄へ戻した。
「保証は、なかったことにいたします」
「よろしいのですか」
「よろしいも何も、無いものは無いのでございます」
クヴェレは肩をすくめた。
「わたくしは、初めからそう申し上げております。額は動かない。動くのは、誰が負うかだけ。──負う方が、変わっただけのことでございます」
「では、どうなさいますか」
わたしが訊くと、彼はあっさり答えた。
「閣下へ請求いたします。全額を、閣下に」
「お払いになれますか」
「無理でございましょう」
彼は即答した。
「ですから、差押えに入ります。手続きは明日から。──屋敷の家財、馬、それから領の収益の一部。貴族院の査問が入っておりますので、領地そのものには手がつけられませんが、動くものはございます」
「ミルデンの家は」
「奥様のご名義でございます。手はつけられません」
彼はそこで、少しだけ身を乗り出した。
「奥様。これは商いの話としてお聞きください」
「はい」
「閣下からの回収は、たぶん、半分がやっとでございます。四百ルドか、それを少し超えるくらい。残りは焦げつきます」
「では、損をなさいますね」
「いたします。──それでも、奥様から取るよりは、ずいぶんましでございます」
「なぜでしょう」
クヴェレは初めて笑った。
「無い保証で取り立てた商会だ、と言われますと、次から誰も借りてくれません。うちは金を貸して食っております。信用のほうが高くつくのでございます」
「クヴェレさん。もう一つ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「三年前この借用証をお作りになったとき、保証人の署名をどこでご覧になりましたか」
彼の目がわずかに動いた。
「……閣下がお持ちくださいました」
「その場で書かれたのではなく」
「はい」
「本人の確認は」
「いたしませんでした」
彼は正直に答えた。
「貴族の奥方に、商人が署名の確認へ伺うわけには参りません。──それが慣いでございます」
「その慣いのために、三年かかりました」
「……返す言葉がございません」
彼は帽子を膝に置いた。
「奥様。うちは今後、保証人のご署名は本人の前でいただくことにいたします。今日、決めました」
「それは、わたしのためではございませんね」
「違います」
彼はきっぱり言った。
「次に同じことが起きたとき、うちが損をしないためでございます」
わたしはうなずいた。この人は最後まで正直だった。わたしはその言い分を頭の中で二度なぞった。この人は善人ではない。ただ、計算が正確なだけだ。
そして計算が正確な人間は、正しい紙が出てきたときに、いちばん早く向きを変える。
クヴェレは帽子をかぶり、玄関で一礼した。そこで、一つだけ訊いてきた。
「奥様。ご無礼を承知で、もう一つだけ」
「はい」
「その証明を、裁きの場にお出しになりますか」
わたしは答えなかった。
「余計なことを申しました」
「いえ」
わたしは首を振った。
「まだ、決めておりません」
「……さようでございますか」
彼は帽子のつばに手をかけた。
「商人の身で申し上げることではございませんが。──出せば、閣下は牢へ参ります。出さねば、閣下は無一文になるだけでございます」
「はい」
「どちらでも、奥様のご損得は変わりません」
彼は言った。
「変わらないものを選ぶときは、後で自分が何を思い出したいかで決めるのがよろしいかと。わたくしは、そうしております」
その晩、夫が屋敷に帰ってきた。三週間ぶりだった。馬車の音を聞いて、わたしは階段の上まで出た。
夫は玄関で外套を脱ぎ、それを女中に渡すのではなく、床に落とした。拾う者がいなかった。厨房の者は二人辞め、庭師も辞め、女中は一人になっていた。
「エルヴィラ」
彼はこちらを見上げた。痩せていた。前に見たときより、はっきりと。
「話がある」
「はい」
「離縁は、しない」
わたしは階段の上から、その顔を見ていた。
「絶対に、しないからな」
わたしは階段を降りた。降りきったところで、床に落ちたままの外套を拾った。埃がついている。三年前なら、女中が三人がかりで払ったものだった。
「アルブレヒト様」
「なんだ」
「明日、商会が参ります。差押えです」
「……知っている」
「立ち会われますか」
夫は答えなかった。
「立ち会わない場合、目録は商会の言い値で作られます。立ち会えば、こちらの言い分を書かせられます」
「……どちらでも同じだ」
「同じではございません」
わたしは外套を椅子の背に掛けた。
「同じだと思って何もしないと、後で『あのとき何も言わなかった』と言われます。一言でも言っておけば、記録に残ります」
夫はこちらを見た。
「……お前は、なぜ俺にそれを言う」
「明日いらっしゃるのが、わたしの知っている商人だからです」
わたしは玄関の燭台を消した。
「あの方は、言わない人からは、言わないだけ取ります」
夫は答えなかった。答えないまま、階段を上がっていった。翌朝、彼は玄関に立っていた。立ち会うつもりらしかった。
商会主クヴェレは、鑑定書を読んで二分後に、矛先を変えました。「無い保証で取り立てた商会だ、と言われますと、次から誰も借りてくれません」──彼は正義感で動いていません。信用のほうが高くつく、という計算で動いています。
だからこそ、彼はいちばん早く動きました。感情で動く人は、認めるまでに時間がかかります。
帰りぎわの一言も、この人らしいものでした。「変わらないものを選ぶときは、後で自分が何を思い出したいかで決める」。
次話、夫が「離縁はしない」と言い張る理由が明らかになります。惜しんでいるのは、妻ではありません。
矛先が変わる二分間が痛快だった方は、☆をひとつどうぞ。




