第8話:持参金は、どなたのものでしょうか
その日の午後、離れから使いが来た。義母からの言伝は、一行だった。
『持参金は、当家のものです。異論があるなら、証書をお持ちなさい』
わたしは使いの少年に礼を言って、下がらせた。それから、書斎の窓辺に立って、庭を見た。証書を持ってこい、と言われた。持ってこいと言う人は、たいてい、相手が持っていないと思っている。
持参金は、八百ルド。
嫁ぐときに、ヴェッセル家からラングフォード家へ納めた。納めたのは事実で、そこに争いはない。争いになるとすれば、その八百ルドが「誰のものか」だった。
貴族の婚姻では、持参金は嫁ぎ先の財産に組み入れられるのが普通だ。組み入れられれば、当主が使える。屋根を葺き替えてもいいし、馬を買ってもいい。
──家を建てても、いい。だから義母は「当家のものです」と言い切った。言い切れば通ると思っている。実際、たいていの家では通る。通らない家が、少しだけある。
嫁ぐ側に、契約書を読む人間がいた家だ。
わたしは三年前の帳面の数字をもう一度思い出した。資材前渡が四百二十と三百八十、棟上げ祝が二十、厨房増築が百十、二階張出が九十。合わせて千二十ルド。
持参金は八百ルド。千二十のうち八百までは、わたしが持ってきた金で説明がつく。残りの二百二十は、伯爵家の収入から出たことになる。
つまりあの家は、四分の三以上が、ヴェッセル家の三代ぶんの手間賃でできている。わたしは机に戻り、文箱から契約書の写しを出した。
四年前に、わたし自身がペンを持って清書したものだ。指の側面にインクがついて、翌朝の手袋に染みが残った、あの晩の紙。九条ある。
第一条から第八条までは、仲介人の下書きのままだった。持参金の額。納付の時期。婚姻の解消における取り扱い。どれも定型で、どこの家でも似たような文になる。
父がペンで印をつけたのは、二か所だった。
一か所は第三条。「持参金は夫の管理に属する」という一文の、「管理」という語のところ。父はそこに丸をつけて、余白に小さく書いていた。──〈所有ではない〉。
もう一か所が、第九条だった。わたしは第九条の頭の文字に指を置いて、そこで止めた。まだ、読まない。読めば、答えが出る。答えが出れば、わたしはそれを使う。使うなら、使うべき場所で使いたかった。
いまではない。
翌朝、わたしは三度目の登記所に行った。三番の机で、テオドール・グレイは書きかけの書類にペンを置いた。
「今日はどちらの原簿を」
「原簿ではありません。婚姻財産契約の控えを探しています」
彼は少し目を上げた。
「登記所には来ません」
「そうですか」
「婚姻の財産契約は、公証人が原本を保管します。ただし──」
彼は言葉を切って、椅子を引いた。
「不動産が絡む条項がある場合は、その部分だけ、こちらの特別綴に回ることがあります。土地や家屋の帰属を書いた契約は、登記の判断に使いますので」
わたしは息を吸った。
「回っているかどうかを、調べていただけますか」
「四年前のものですね」
「四年前の十月です」
「特別綴は年ごとです。三日ください」
「三日」
「二日でやれと言われれば二日でやりますが、その場合は綴りを頭からめくることになります。三日いただければ、索引から引けます」
わたしはうなずいた。
「三日で結構です」
彼はメモを取った。ヴェッセル、ラングフォード、四年前十月。字は速く、そして読みやすかった。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「三年前の三月二十日に買われた、二枚目の印紙です。あれが何に貼られたかは、追えないと仰いました」
「追えません」
「では、買った記録のほうは」
テオドール・グレイの手が、止まった。
「──記録のほう」
「印紙を売った側は、誰にいくらぶん売ったかを控えているはずです。そうでなければ、税を数えられません」
彼はしばらくわたしを見て、それから椅子を後ろに引いた。
「印紙売捌所の控帳は、三年で廃棄されます」
「三年」
「三年です。三月二十日でしたら」
彼は指を折った。
「今月末で、ちょうど三年です」
わたしは立ち上がっていた。立ち上がってから、自分が立ったことに気づいた。
「間に合いますか」
「廃棄は月末にまとめて行われます。閲覧の請求は、名義人ご本人からなら通ります」
「請求します」
「用紙を出します」
彼は引き出しから紙を一枚出し、机に置いた。それから、インク壺をわたしのほうへ、寄せた。わたしは書いた。氏名、事由、対象の日付。
書き終えて顔を上げると、彼はこちらを見ていなかった。書きかけの書類に戻っていた。
「グレイさん」
「はい」
「三年で捨てられると、なぜご存じなのですか」
「捨てる側にいたことがあるからです」
ペンは止まらなかった。
「若いころ、売捌所の控帳を運ぶ役目でした。荷車三台ぶんを、年に一度」
「……何が書いてあるか、ご覧になりましたか」
「見ません。運ぶだけです」
彼はそこで、初めて手を止めた。
「ただ、あれを捨てた年に困った人が、必ず何人か出ます。出てから来るので、間に合いません」
わたしは請求の用紙を彼に渡した。
「間に合わせます」
「ええ」
彼は用紙に受付印を押した。押しながら、そのまま言った。
「三日後に、二つまとめてお返事します。特別綴と、控帳と」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。閲覧は権利ですので」
わたしは鞄の留め金を閉め、それから、一つだけ訊いた。
「グレイさん。もし控帳に、二枚目の印紙の行き先が書いてあったとして」
「書いてありません」
「……書いていない」
「控帳に残るのは、誰が何枚買ったかだけです。何に貼ったかは、貼った人間しか知りません」
彼はペンを置いた。
「ですから、あの控帳が証明できるのは一つだけです。──三年前の三月二十日に、あなたの名前で二枚買われた、という事実。それだけを、紙で固めておく」
「それだけで、足りますか」
「足りるかどうかは、相手が何を言い出すかによります」
彼は初めてこちらの目を見た。
「二枚目が出てきたとき、相手はきっとこう言います。『あなたが自分で署名した』と。そのときに、こちらが持っていなければならないのは、否定ではありません」
「では、何を」
「あの日、あなたが二十枚を四十分かけて読んだという事実です。読む人間は、読まずに署名しません。──そういう人間だと、先に紙で示しておく」
わたしは声が出なかった。この人は、まだ起きていない争いの、負け方のほうから逆算している。
屋敷に戻ると、玄関が慌ただしかった。使用人が二人、階段を上がったり降りたりしている。マルタが廊下の隅で、女中頭に何かを指示していた。
「マルタ。何かあったの」
「旦那様のお戻りの日が、決まりました」
彼女は言った。
「明日の晩でございます。宿場から、二度目の早馬が」
わたしは玄関の柱時計を見た。三時を回っている。明日の晩まで、まる一日ある。
「晩餐は」
「明日は、二人分をご用意いたします」
二人分。この三年、この屋敷の晩餐は、ずっと一人分だった。
「マルタ」
「はい」
「席次は、いつも通りに」
マルタは一度だけまばたきをした。
「向かい合わせでございますね」
「ええ。向かい合わせで」
それからわたしは付け足した。
「明日の朝、馬車を一台お願い。南へ」
「ミルデンでございますか」
「ええ。返事が来ましたので」
昼過ぎに届いた手紙は、便箋が一枚きりで、字は丁寧だった。読み書きは母親から習ったと、そこに書いてあった。用件は二行だけだった。
『ノラの咳が止まりません。この家の冬は、そういうものでしょうか』
わたしは階段を上がりながら、袖の中を確かめた。請求書の写しが、一枚。手紙が、一枚。どちらも、あの人が建てた家から出たものだった。
お読みいただきありがとうございます。
第九条は、まだ読まれていません。エルヴィラが読まないのは、忘れているからでも、怖いからでもなく、「使う場所を選んでいる」からです。手札は、切る場所を決めてから見るほうがいい──これは彼女の父が教えたやり方です。
そして印紙の控帳は、今月末で三年を迎えます。
次話は、いったんミルデンへ。三つの子の咳と、まだ何も知らない母親の話です。




