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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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7/8

第7話:家名を汚す気か、と大奥様は仰った

 翌朝、離れの棟から呼び出しがあった。イルゼ・ラングフォード。夫の母で、この屋敷の大奥様で、三年前から離れの棟に住んでいる。


 その部屋は南向きの一間で、窓辺に椅子が二脚置いてある。わたしが月に二度ここへ来るとき、いつも右の椅子に座る。左は義母の席だった。


 今日は、左の椅子に義母が立っていた。座っていなかった。


「エルヴィラ」


「おはようございます、大奥様」


「あの請求書は、取り下げなさい」


 わたしは右の椅子には座らず、扉の内側に立ったままでいた。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「家名を汚す気ですか」


「汚れますか」


「当然です。伯爵家の当主が、妻に家賃を請求されている──そんな話が外に出れば、社交の場でどう言われると思っているのです」


「外へは出しません」


 わたしは静かに言った。


「請求書は三通、渡す先も決まっております。写しは登記所に一通。表沙汰にする気はございません」


「登記所ですって」


 義母の声が上がった。


「役所に持ち込んだのですか」


「日付を残すためです。受け取っていない、と言われますと、その先が進みませんので」


「その先」


 義母は、そこで初めて言葉に詰まった。わたしは待った。


「……その先とは、何です」


「支払いです」


 わたしは答えた。


「大奥様。わたしは離縁の話をしておりません。名誉の話も、していないつもりです。家賃を、月に九ルド、三十八か月ぶん。それだけを申し上げております」


 義母は椅子の背に手を置いた。細い指だった。宝石は昔のもので、留め金が緩んでいるのを、わたしは知っている。月に二度、見舞いに来ていれば、そういうことは覚える。


「……九ルド」


「東通りの相場です」


「相場」


 義母は繰り返した。それから、低い声で言った。


「あなたは、算盤の家の娘でしたね」


 わたしは黙っていた。


 その一言が出るまでに、四年かかった。四年のあいだ、この人は一度も、わたしの実家を口に出さなかった。出さないことが礼儀だと思っていたのだろうし、実際、礼儀だったのだと思う。


 礼儀は、都合の悪いときに剥がれる。


「大奥様。祖父は代書人でございました。算盤は、父の代からです」


「そういうことを言っているのではありません」


「存じております」


 わたしはそこで一歩だけ室内に入った。


「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


「なんです」


「昨日、ミルデンと申し上げたとき、大奥様は場所をお訊きになりませんでした」


 義母の指が、椅子の背から離れた。


「……何が言いたいのです」


「人は、知らない土地の名を聞くと、どこにあるのかとお訊きになります。大奥様はお訊きにならなかった。ですから、ご存じなのだと思いました」


 部屋が、しばらく無音になった。窓の外で、庭師が枝を落としている音がした。


「知りません」


 義母は言った。


「知りませんが、想像はつきます。あの子は昔からそういう子です。父親もそうでした」


 わたしは息を止めた。


「前の伯爵様も、でございますか」


「言っておりません」


 義母は椅子に座った。座ってしまうと、急に小さく見えた。


「エルヴィラ。あなたに一つ教えておきます。この家の女は、二代にわたって同じことをしてきました。知らないふりをするのです。知らないふりをしていれば、家は続きます。続いた家には、次の代が生まれます」


「続きましたか」


「続いています。あなたがここにいるのが、その証拠です」


 わたしはその言い分を、頭の中で転がした。筋は通っている。通っているところが、いちばん厄介だった。


「大奥様。わたしは、知らないふりをしておりません」


「これから覚えるのです」


「覚えません」


 義母が顔を上げた。


「知らないふりをするには、知らないことにできる材料が要ります。わたしの手元には、原簿の写しと、委任状の写しと、帳面の数字がございます。これを知らないことにできる人間は、字が読めない人間だけです」


「……読まなければよかったのです」


 義母は、そう言った。言ってから、自分で少し驚いた顔をした。わたしはその言葉を受け止めた。四年前の書斎で、夫が言った言葉と同じ意味だった。「そんなものを読む女がどこにいる」。


 この家では、読まないことが美徳だったのだ。二代にわたって。


「大奥様。持参金のことを、伺ってもよろしいですか」


 空気が変わった。義母の顔が、はっきりと硬くなった。


「……なぜ、いま」


「わたしが嫁ぐときに、八百ルドをお納めしております。婚姻財産契約に基づいて」


「あれは、この家に入ったものです」


「入りましたが、条件がついております」


「条件など」


「ございます」


 わたしは、それ以上言わなかった。言う必要が、まだなかった。この人がどう反応するかを見に来たのであって、答え合わせに来たのではない。義母は、椅子の肘掛けを握った。


「……あの契約書は、どこにあります」


「実家の写しが、わたしの文箱に」


「原本は」


「存じません」


 嘘ではなかった。原本は仲介人が保管し、控えが登記所へ回るはずだった。四年前のことだ。回ったかどうかは、確かめたことがない。


 義母はそのまま黙り込んだ。わたしは一礼して、扉に手をかけた。


「エルヴィラ」


「はい」


「アルブレヒトは、明日帰ってくるのですね」


「そう聞いております」


「……あの子に、優しくおしなさい」


 わたしは振り返らなかった。


「大奥様。家賃を請求することと優しくしないことは、別のことでございます」


 部屋を出る間際に、もう一度だけ振り返った。


 義母は椅子に座ったまま、窓のほうを向いていた。膝の上で両手を組んでいる。その姿勢を、わたしは月に二度、四年間見てきた。見舞いに行くたびに、この人は同じ角度で窓を見ていた。


 三年前から、この人は誰とも卓を囲んでいない。


「大奥様」


「まだ何か」


「今度の見舞いは、明後日でございます。いつも通り伺います」


 義母は、こちらを見なかった。


「……献立の話をするのですか」


「ええ。いつも通り」


 わずかな間があった。


「……勝手になさい」


 扉を閉めて、廊下を歩いた。


 角を曲がったところで、マルタが盆を持って立っていた。離れの棟には、お茶が運ばれる決まりになっている。運ぶ人は、扉の外で待つ決まりにもなっている。


「マルタ」


「はい」


「大奥様は、契約書の原本を探されるかもしれません」


 マルタは、盆の位置を直した。


「……さようでございますか」


「屋敷の中にはございません。ですから、探しても出てまいりません」


「承知いたしました」


 彼女はそれだけ言って、離れの扉へ向かった。自分の部屋へ戻る途中、渡り廊下の窓から離れの棟が見えた。


 三年前、義母があの棟へ移ったとき、わたしは「お身体のために日当たりのよいお部屋を」と言われて、そういうものかと思っていた。実際には、母屋から人がいなくなったからだったのかもしれない。当主が月の三分の一を留守にする家で、大奥様が母屋の食卓に座っていても、向かいには嫁しかいない。


 あの人も、あの人なりに、座る場所を選んだのだ。


 知らないふりをするというのは、たぶん、そういうことの積み重ねなのだと思う。一度に大きな嘘をつくのではなく、座る椅子を少しずつ替えていく。気がつくと、誰も同じ卓についていない。


 わたしは三年間、その卓に一人で座っていた。席次表だけは、毎週きちんと作りながら。わたしは自分の部屋へ戻り、文箱を開けた。


 四年前に父が印をつけた下書きの、その清書。わたしの字で書かれた条項が、九つ並んでいる。第九条を、指でなぞった。まだ、読まなかった。

お読みいただきありがとうございます。


義母イルゼは、悪人として書いていません。彼女は「知らないふりをすれば家は続く」という、二代ぶんの経験則で動いています。厄介なのは、その経験則が実際に一度は成功しているところです。


そして、この家では「読まないこと」が長らく美徳でした。エルヴィラだけが、その美徳を持っていません。


次話、大奥様は持参金を人質に取ります。──取れるものなら。

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