第7話:家名を汚す気か、と大奥様は仰った
翌朝、離れの棟から呼び出しがあった。イルゼ・ラングフォード。夫の母で、この屋敷の大奥様で、三年前から離れの棟に住んでいる。
その部屋は南向きの一間で、窓辺に椅子が二脚置いてある。わたしが月に二度ここへ来るとき、いつも右の椅子に座る。左は義母の席だった。
今日は、左の椅子に義母が立っていた。座っていなかった。
「エルヴィラ」
「おはようございます、大奥様」
「あの請求書は、取り下げなさい」
わたしは右の椅子には座らず、扉の内側に立ったままでいた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「家名を汚す気ですか」
「汚れますか」
「当然です。伯爵家の当主が、妻に家賃を請求されている──そんな話が外に出れば、社交の場でどう言われると思っているのです」
「外へは出しません」
わたしは静かに言った。
「請求書は三通、渡す先も決まっております。写しは登記所に一通。表沙汰にする気はございません」
「登記所ですって」
義母の声が上がった。
「役所に持ち込んだのですか」
「日付を残すためです。受け取っていない、と言われますと、その先が進みませんので」
「その先」
義母は、そこで初めて言葉に詰まった。わたしは待った。
「……その先とは、何です」
「支払いです」
わたしは答えた。
「大奥様。わたしは離縁の話をしておりません。名誉の話も、していないつもりです。家賃を、月に九ルド、三十八か月ぶん。それだけを申し上げております」
義母は椅子の背に手を置いた。細い指だった。宝石は昔のもので、留め金が緩んでいるのを、わたしは知っている。月に二度、見舞いに来ていれば、そういうことは覚える。
「……九ルド」
「東通りの相場です」
「相場」
義母は繰り返した。それから、低い声で言った。
「あなたは、算盤の家の娘でしたね」
わたしは黙っていた。
その一言が出るまでに、四年かかった。四年のあいだ、この人は一度も、わたしの実家を口に出さなかった。出さないことが礼儀だと思っていたのだろうし、実際、礼儀だったのだと思う。
礼儀は、都合の悪いときに剥がれる。
「大奥様。祖父は代書人でございました。算盤は、父の代からです」
「そういうことを言っているのではありません」
「存じております」
わたしはそこで一歩だけ室内に入った。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんです」
「昨日、ミルデンと申し上げたとき、大奥様は場所をお訊きになりませんでした」
義母の指が、椅子の背から離れた。
「……何が言いたいのです」
「人は、知らない土地の名を聞くと、どこにあるのかとお訊きになります。大奥様はお訊きにならなかった。ですから、ご存じなのだと思いました」
部屋が、しばらく無音になった。窓の外で、庭師が枝を落としている音がした。
「知りません」
義母は言った。
「知りませんが、想像はつきます。あの子は昔からそういう子です。父親もそうでした」
わたしは息を止めた。
「前の伯爵様も、でございますか」
「言っておりません」
義母は椅子に座った。座ってしまうと、急に小さく見えた。
「エルヴィラ。あなたに一つ教えておきます。この家の女は、二代にわたって同じことをしてきました。知らないふりをするのです。知らないふりをしていれば、家は続きます。続いた家には、次の代が生まれます」
「続きましたか」
「続いています。あなたがここにいるのが、その証拠です」
わたしはその言い分を、頭の中で転がした。筋は通っている。通っているところが、いちばん厄介だった。
「大奥様。わたしは、知らないふりをしておりません」
「これから覚えるのです」
「覚えません」
義母が顔を上げた。
「知らないふりをするには、知らないことにできる材料が要ります。わたしの手元には、原簿の写しと、委任状の写しと、帳面の数字がございます。これを知らないことにできる人間は、字が読めない人間だけです」
「……読まなければよかったのです」
義母は、そう言った。言ってから、自分で少し驚いた顔をした。わたしはその言葉を受け止めた。四年前の書斎で、夫が言った言葉と同じ意味だった。「そんなものを読む女がどこにいる」。
この家では、読まないことが美徳だったのだ。二代にわたって。
「大奥様。持参金のことを、伺ってもよろしいですか」
空気が変わった。義母の顔が、はっきりと硬くなった。
「……なぜ、いま」
「わたしが嫁ぐときに、八百ルドをお納めしております。婚姻財産契約に基づいて」
「あれは、この家に入ったものです」
「入りましたが、条件がついております」
「条件など」
「ございます」
わたしは、それ以上言わなかった。言う必要が、まだなかった。この人がどう反応するかを見に来たのであって、答え合わせに来たのではない。義母は、椅子の肘掛けを握った。
「……あの契約書は、どこにあります」
「実家の写しが、わたしの文箱に」
「原本は」
「存じません」
嘘ではなかった。原本は仲介人が保管し、控えが登記所へ回るはずだった。四年前のことだ。回ったかどうかは、確かめたことがない。
義母はそのまま黙り込んだ。わたしは一礼して、扉に手をかけた。
「エルヴィラ」
「はい」
「アルブレヒトは、明日帰ってくるのですね」
「そう聞いております」
「……あの子に、優しくおしなさい」
わたしは振り返らなかった。
「大奥様。家賃を請求することと優しくしないことは、別のことでございます」
部屋を出る間際に、もう一度だけ振り返った。
義母は椅子に座ったまま、窓のほうを向いていた。膝の上で両手を組んでいる。その姿勢を、わたしは月に二度、四年間見てきた。見舞いに行くたびに、この人は同じ角度で窓を見ていた。
三年前から、この人は誰とも卓を囲んでいない。
「大奥様」
「まだ何か」
「今度の見舞いは、明後日でございます。いつも通り伺います」
義母は、こちらを見なかった。
「……献立の話をするのですか」
「ええ。いつも通り」
わずかな間があった。
「……勝手になさい」
扉を閉めて、廊下を歩いた。
角を曲がったところで、マルタが盆を持って立っていた。離れの棟には、お茶が運ばれる決まりになっている。運ぶ人は、扉の外で待つ決まりにもなっている。
「マルタ」
「はい」
「大奥様は、契約書の原本を探されるかもしれません」
マルタは、盆の位置を直した。
「……さようでございますか」
「屋敷の中にはございません。ですから、探しても出てまいりません」
「承知いたしました」
彼女はそれだけ言って、離れの扉へ向かった。自分の部屋へ戻る途中、渡り廊下の窓から離れの棟が見えた。
三年前、義母があの棟へ移ったとき、わたしは「お身体のために日当たりのよいお部屋を」と言われて、そういうものかと思っていた。実際には、母屋から人がいなくなったからだったのかもしれない。当主が月の三分の一を留守にする家で、大奥様が母屋の食卓に座っていても、向かいには嫁しかいない。
あの人も、あの人なりに、座る場所を選んだのだ。
知らないふりをするというのは、たぶん、そういうことの積み重ねなのだと思う。一度に大きな嘘をつくのではなく、座る椅子を少しずつ替えていく。気がつくと、誰も同じ卓についていない。
わたしは三年間、その卓に一人で座っていた。席次表だけは、毎週きちんと作りながら。わたしは自分の部屋へ戻り、文箱を開けた。
四年前に父が印をつけた下書きの、その清書。わたしの字で書かれた条項が、九つ並んでいる。第九条を、指でなぞった。まだ、読まなかった。
お読みいただきありがとうございます。
義母イルゼは、悪人として書いていません。彼女は「知らないふりをすれば家は続く」という、二代ぶんの経験則で動いています。厄介なのは、その経験則が実際に一度は成功しているところです。
そして、この家では「読まないこと」が長らく美徳でした。エルヴィラだけが、その美徳を持っていません。
次話、大奥様は持参金を人質に取ります。──取れるものなら。




