第6話:執務机の上の、一枚
請求書を書くのに、三日かかった。文面そのものは短い。一晩でできた。難しかったのは、削ることだった。
最初に書いたものには、余計な行が七つあった。「三年間の不在について」「わたしの立場について」「あなたが署名させたものについて」。どれも本当のことだったが、どれも賃料とは関係がなかった。
関係のない行が一つでも混じっていれば、これは請求書ではなく手紙になる。手紙は、無視できる。一日目の晩に、わたしは七行を四行に減らした。二日目の晩に、四行を二行にした。
残った二行は、しぶとかった。「三年間、わたしは客にあなたの不在を説明してまいりました」と、「ノラという子には、何の罪もございません」。
前者は恨みだった。後者は、たぶん、こちらの都合だった。あの子のことを書けば、わたしはあの子を盾にしたことになる。それは、この請求書がいちばんしてはいけないことだった。
三日目の朝、わたしは二行とも消した。残ったのは、こうだった。
請求書ミルデン管区東通り四十七番地 家屋一棟(木骨石造二階建・庭・厨房増築・二階張出一間)右家屋の使用の対価として、下記の額をご請求申し上げます。
月額 九ルド
期間 三年前七月十一日より本月末日まで(三十八か月)
合計 三百四十二ルド支払期日 本月末日
支払先 エルヴィラ・ラングフォード名義人 エルヴィラ・ラングフォード
算定の根拠は、別紙にした。東通り三十九番地、四十二番地、五十一番地の届出額。張り出しの加算。遡及の年数。
根拠を添えるのは、父の癖だった。「数字は、どこから来たかを一緒に出せ。出さない数字は、言い値だ」
わたしは請求書と別紙を一通の封に入れ、封蝋を押した。指輪の紋は、ラングフォードのものではない。ヴェッセルのものを使った。実家から持ってきた印章が、文箱に入っていた。
それから書斎を出て、廊下の突き当たりへ向かった。夫の執務室は、いつも通り空いていた。
机の上には、埃よけの布がかかっている。マルタが週に一度、拭いているはずだ。わたしは布の端をめくり、封を机の中央に置いた。
置いてから、位置を少しだけ直した。真ん中に置きすぎると、掃除の者が動かす。端に置くと、書類の山に紛れる。右手の、ペン皿のすぐ横。座ればいちばんに目に入る場所に、わたしはそれを置いた。
三日後の午後、階段の下が騒がしくなった。わたしは客間で刺繍をしていた。刺繍は好きではないが、手を動かしていると人の話が聞きやすい。
「──開けなさい、と言っているのです!」
義母の声だった。
イルゼ・ラングフォード。夫の母で、この屋敷の大奥様で、三年前から離れの棟に住んでいる。月に二度、わたしが見舞いに行く。行くたびに、髪の結い方と晩餐の献立の話をする。
その声が、いま、二階から降りてきていた。わたしは針を置いて立ち上がり、廊下へ出た。
階段の下で、マルタが立っていた。両手に盆を持ったまま、階段の途中に立ちふさがるでもなく、ただ真ん中に立っている。その上に、義母がいた。手に、開いた封筒を持っている。
封蝋は、割れていた。
「これは何です」
義母がわたしを見つけて、封筒を振った。
「アルブレヒトの机に、こんなものが。三百四十二ルド? 誰が、誰に請求するというのです」
「わたしが、旦那様に」
義母の顔が、赤くなった。
「家の中で請求書を回す嫁が、どこにいます!」
「大奥様」
マルタが、盆を持ったまま口を開いた。
「旦那様の机の上のものは、旦那様宛でございます」
義母が、マルタを見下ろした。
「なんですって」
「大奥様宛のものは、あちらでございます」
マルタは片手で盆を支え、空いたほうの手で玄関脇を指した。棚の上に、郵便受けの籠が三つ並んでいる。当主宛、大奥様宛、家政宛。二十年前からそこにある。
「本日、大奥様宛は二通ございました。仕立屋と、教会の名簿でございます。お持ちいたしましょうか」
義母は口を開けて、閉じた。封筒を持った手が、少し下がった。マルタは階段を上がらなかった。声も荒らげなかった。ただ、この家の郵便の仕分けの話をしただけだった。
二十年、この家で盆を運んできた人の作法だった。
「……エルヴィラ」
義母が、わたしのほうへ向き直った。
「これはどういうことです。説明なさい」
「家賃です」
「家賃」
「ミルデンにある家の。名義人がわたしですので、使っている方に請求いたしました」
「ミルデン? そんな家は知りません」
わたしは義母の顔を見た。照明が薄い階段で、その表情はよく見えなかった。ただ「そんな家は知りません」という言い方が、早かった。人は、本当に知らないことを訊かれると、まず「どこ?」と訊く。
義母は場所を訊かなかった。
「そうですか」
わたしはそう言って、階段の下から義母を見上げた。
「では、旦那様がお戻りになりましたら、直接お渡しします。その封は、お持ちいただいて構いません」
「……なんですって」
「写しは、こちらにございます。原本は三通作りました」
三通。
一通は執務机に。一通は文箱に。もう一通は、登記所の三番の机で、テオドール・グレイが「日付の証拠になります」と言って、受付印を押してくれた。
押しながら、彼はこう言った。「受け取っていないと言われたときのためです」
「……あなた、自分が何をしているか分かっているのですか」
義母の声は、さっきより低くなっていた。
「この家の名前に、傷がつきます」
「傷がつくのは、家賃を請求したからでしょうか」
「当たり前です」
「では、三年前から傷はついております」
義母は答えなかった。
「大奥様。わたしは表沙汰にはいたしません。請求書は三通しか作っておりませんし、渡す先も決めております。ただ、なかったことにもいたしません」
義母は封筒を握ったまま、階段を上がっていった。離れの棟へ戻る扉が、いつもより大きな音で閉まった。マルタが盆を持ち直した。
「奥様。お茶を淹れ直してまいります」
「マルタ」
「はい」
「二十年、あの籠は使われているの」
マルタは目を細めた。
「大奥様は、ご自分宛のものしかご覧になりません。──今日までは」
その晩、屋敷に早馬が来た。北部領からではなかった。南の街道の宿場からで、封には夫の字があった。三行だけだった。
『明後日、帰る。用がある。誰にも会うな』
わたしはその紙を、燭台の前で二度読んだ。誰にも会うな。会うな、と書けるということは、誰に会われると困るかを、あの人が分かっているということだ。
わたしは紙を折って、文箱に入れた。中には請求書の写しと、原簿の写しと、委任状の写しと、父の手紙が入っている。ずいぶん厚くなった。
明後日。その日までに、しておくことが一つあった。わたしは机に向かい、短い手紙を書いた。宛先はミルデン東通り四十七番地、リゼル・マイヤー様。
『先日は突然に伺い、失礼いたしました。家賃について、ご報告すると申し上げましたので、お知らせいたします。請求は、あなたではなく、あの家を建てた者にいたしました。額は月に九ルド、東通りの相場です。あなたの暮らしは、これで変わりません。ノラさんに、ボンによろしくとお伝えください』
最後の一行を書いてから、消そうかと迷った。消さなかった。これは請求書ではない。手紙は、余計な行を持っていてよい。
お読みいただきありがとうございます。
エルヴィラが三日かけてやったのは、書くことではなく削ることでした。怒りの行を七つ消したから、この紙は「手紙」ではなく「請求書」になった。無視できない紙とは、そういう紙のことです。
そしてマルタは、階段を上がりませんでした。彼女が使ったのは、この家の郵便の仕分けという、ただの作法です。
さて、明後日。三年ぶりに、あの人が帰ってきます。




