第5話:相場を、教えてください
翌朝の登記所は、前の日よりも混んでいた。
石段の下まで列が伸びていて、その途中に、荷を積んだ手押し車が一台置き去りにされている。誰かが順番を守らせるために置いたのだろう。役所の前では、こういう工夫が生まれる。
わたしは番号札を取らなかった。二階の窓口で写しを受け取ったとき、係の者が「三番の机へ」と言ったからだ。
階段を上がると、昨日と同じ木と埃と、古い糊の匂いがした。二日目には、匂いはもう気にならなくなっている。人はどんな場所にも、二日で慣れるらしい。
三番の机には、テオドール・グレイが座っていた。
「昨日の写しです」
彼は封を開けずに、そのまま差し出した。中身は確認済みらしい。
「ありがとうございます」
わたしは封を鞄にしまい、それから、立ったまま言った。
「もう一つ、伺いたいことがあります」
「登記のことでしたら」
「相場を、教えてください」
彼はペンを置いた。
「相場」
「ミルデン東通りの、家屋の賃料です。木骨石造の二階建て。庭つき。厨房の増築と、二階の張り出しが一間」
テオドール・グレイはしばらくわたしを見た。それから、椅子を引いて立ち上がった。
「お待ちを」
彼が戻ってきたとき、腕に抱えていたのは原簿ではなかった。細長い綴りが三冊。表紙に「賃貸借届出・ミルデン管区」と書いてある。
彼はそれを机に置いて、いちばん上の一冊を開いた。
「賃貸借は、額が一定を超えると届出が要ります。届け出た分だけですが、実際の額が残ります」
「見せていただけるのですか」
「公開です。誰でも見られます」
彼は指で頁を追った。
「東通り。ここから、この辺りまでが四十番台です。──三十九番地、木骨二階建、庭なし、月に六ルド。四十二番地、石造平屋、庭つき、月に五ルド半。五十一番地、木骨二階建、庭つき、厨房増築あり、月に八ルド」
わたしは数字を書き取った。
「五十一番地が、いちばん近いですね」
「近いです。ただ、そちらには二階の張り出しがありません」
「張り出しは、いくらほど加算されるものですか」
「一間で、月に半ルドから一ルド。日当たりのよい向きなら一ルド」
わたしはペンを止めた。
「南向きです」
「では一ルド」
九ルド。月に九ルド。年に百八ルド。三年で三百二十四ルド。わたしはその数字を、紙の隅に書いた。書いてから、少し眺めた。二千百六十ルドが出ていって、戻せるのが三百二十四ルド。全然、足りない。
「足りませんか」
彼が言った。わたしは顔を上げた。
「……なぜ、そう思われるのですか」
「数字を書いた後で、手が止まる方は、たいてい足りていません」
彼は綴りを閉じた。
「賃料は損を埋めるための金額ではありません。使った分の対価です。それ以上は取れませんし、それ以上取ろうとするとこちらが不当になります」
「分かっています」
「でしたら結構です」
彼はそう言って、二冊目の綴りを開いた。わたしが頼んでいないものだった。
「遡って請求できるかどうかも、お知りになりたいのでは」
わたしは少し驚いた。
「……はい」
「使用の対価は、使った時から発生します。名義人が知らなかった期間も、使用は使用です。ですから遡れます。ただし、際限なくは遡れません」
「どこまで」
「五年。それ以上は、こちらが黙っていたと見なされます」
三年は、五年より短い。
「三年ぶんは、取れるということですね」
「取れます」
彼は三冊目を開いた。
「それから、請求の相手です。ここを間違えると、全部やり直しになります」
「相手」
「あの家に住んでいるのは、女性とお子さんだと伺いました」
わたしはうなずいた。昨日、この人に話しただろうか。話していない。
「──なぜ、ご存じなのですか」
「増築の届けに、居住者の欄があります。三年前の秋から、女性一名と乳児一名」
乳児。三年前の秋には、ノラはまだ生まれたばかりだったのだ。
「その方たちに請求するのが、いちばん簡単です。住んでいるのはその方たちですから」
「しません」
答えは、考える前に出た。テオドール・グレイはそこで初めて、わずかに目を動かした。
「では、誰に」
「あの家を建てた者に」
「建てただけの人間に、賃料の支払い義務はありません」
「……ありませんか」
「ありません。ただし」
彼は三冊目の、真ん中あたりの頁を開いて、こちらへ向けた。
「使用の対価は、実際に使っている者ではなく、その使用を『自分のために』させている者にも請求できます。人を住まわせている、その利益を受け取っているのは誰か。──そういう組み立て方をします」
わたしは頁を読んだ。細かい字で、判決の要旨らしいものが並んでいた。
「難しいですか」
「いいえ」
わたしは読んだ。三度読んだ。父の書斎で覚えた読み方だった。難しい文は、主語と述語を先に抜く。
「……つまり、あの家に女性と子どもを住まわせているのは、あの人の都合である。その都合のために、わたしの家が使われている。だから、対価はあの人が払う」
「そうです」
「これは、通りますか」
「通ります。私は登記所の人間なので、裁判のことは請け合いません。ですが、この組み立てで通った例が、この綴りに三つあります」
わたしは三つとも読んだ。読んでいるあいだ、彼は黙って待っていた。急かしもしないし、説明もしなかった。
窓口の外では、朝の列がまだ動いていた。誰かが番号を呼ばれ、誰かが書き損じを突き返されている。三番の机だけが、そこから切り離されたように静かだった。
読み終えて顔を上げると、机の上に、綴りが順番に並べ替えられていた。賃料の相場。遡れる年数。請求の相手。わたしが訊いた順ではない。わたしが必要とする順だった。
「……グレイさん」
「はい」
「昨日、わたしは相場のことを何も申し上げませんでした」
「はい」
「なぜ、揃えてくださったのですか」
彼はペンを取って、インク壺の縁で軽くしごいた。
「名義人だと名乗って原簿を見に来た方が、その足で帰るはずがないからです」
それだけだった。彼は書きかけの書類に戻り、それきり顔を上げなかった。ペンを持つ手だけが、わたしの視界の隅で動いていた。
階段の途中で、若い係の者とすれ違った。腕に綴りを抱えていて、こちらに気づくと壁際に寄った。
「三番の机の方は、いつもああなのですか」
訊いてから、余計なことを訊いたと思った。けれど係の者は、笑って首を振った。
「グレイさんですか。無口ですけど、あの人が綴りを三冊出したら、その方はもう勝ってますよ」
「……勝つ」
「一冊なら親切、二冊なら仕事。三冊出したら、勝たせにいってるって、うちでは言います」
彼はそう言って、階段を上がっていった。わたしは三冊の綴りに礼を言って、階段を降りた。鞄の中には、写しが二枚と、数字を書いた紙が一枚。同じ数を三通りに書き直した紙だった。月ぶん、年ぶん、三年ぶん。
足りない。足りないが、これは相場だ。誰が見ても、これは相場だと言える額だった。石段を降りきったところで、わたしは一度だけ振り返った。
建物の窓が、朝より明るくなっている。あの三番の机には、今日も誰かが座って、綴りを一冊か二冊、あるいは三冊、出してもらっているのだろう。
三冊出してもらった人は、勝つのだそうだ。わたしは屋敷へ帰った。
お読みいただきありがとうございます。
テオドールが並べ替えた三冊の順番──相場、遡れる年数、請求の相手──は、彼が何も言わずにやった唯一の親切です。この人はたぶん、言葉で親切にする方法を知りません。
エルヴィラが選んだ「九ルド」は、腹いせの額ではなく相場の額です。腹いせの額は一度で終わりますが、相場の額は三年ぶん積み上がります。
次話、その額を書いた紙が、王都のある机の上に置かれます。置いた相手は不在で、開けたのは別の人でした。




