第4話:字が読めるのは、奥様と帳面だけでございます
屋敷に着いたのは、日が落ちてからだった。玄関で靴を脱ぐと、裾に泥がついていた。市の日の道は、たしかに悪かった。
「お帰りなさいませ」
マルタが燭台を持って立っていた。わたしの靴を見て、それから顔を見た。何も訊かなかった。
「マルタ。書斎の、下の棚の鍵はどこ」
「大旦那様の帳面でございますか」
「ええ」
「鍵は、かかっておりません」
マルタは燭台を持ち替えた。
「二十年、かかったことがございません」
書斎の下段には、革表紙の帳面が年ごとに並んでいた。埃が薄く積もっている。指で背を数えると、いちばん手前が去年の分だった。
わたしは三年前の分から順に、机の上へ運んだ。三冊で、腕が少し重かった。最初の一冊を開く。
当主の帳面は、家政の帳面とは書き方が違った。日付と、額と、名目。名目の欄は短い。「馬具」「宴」「仕立」。誰が書いたかは分からないが、字は同じ手だった。夫の字ではない。たぶん、書記に任せているのだろう。
頁の紙は、家政の帳面より上等だった。厚くて、角が擦り切れていない。開いた回数が少ない紙は、こういう顔をしている。三年前の四月。北部領視察費 三十二ルド。五月。北部領視察費 三十ルド。
六月。北部領視察費 三十四ルド。毎月ある。わたしは頁を繰った。七月。北部領視察費、三十ルド。──その下に、別の行があった。資材前渡 四百二十ルド。わたしは指を止めた。
資材。何の資材か、名目には書いていない。領地の水路を直すなら、石か木か。四百二十ルドは、水路にしては多い。屋敷の屋根を全部葺き替えても、それほどはかからない。
八月。資材前渡 三百八十ルド。九月。棟上げ祝 二十ルド。棟上げ。わたしは頁から目を上げた。窓の外は暗く、硝子に自分の顔が映っていた。棟上げ祝を出す家は、家を建てている。
三年前の七月十一日に登記された家は、その年の夏に建った。四月から資材の前渡しが始まり、九月に棟上げの祝いが出ている。
伯爵家の会計から。
「奥様」
いつのまにかマルタが入ってきていて、机の端に茶を置いた。
「夕食は、書斎にお運びしましょうか」
「……ええ。お願い」
「かしこまりました」
マルタは下がりかけて、帳面の背表紙を見た。
「珍しゅうございますね。その帳面をお開けになるのは」
「見てはいけないものかしら」
「いいえ。誰も見ないだけでございます」
マルタは燭台の位置を直した。炎が、頁の上で揺れた。
「大旦那様がお亡くなりになってから、そこは開いておりません。旦那様は数字がお嫌いで、書記のヨストが書いて、そのまま棚へ。ヨストは去年、目を悪くして辞めました」
「では、いまは誰が」
「新しい者が書いております。ただ、その者は足し算しかいたしません。書けと言われたものを、書けと言われた欄に書きます」
マルタは盆を胸に抱えた。
「この家で字が読めるのは、奥様と、あと帳面だけでございます」
わたしは顔を上げた。マルタは、目を伏せたまま続けた。
「読める者が一人もおりませんと、帳面はよく喋ります。誰も聞いていないと思っておりますので」
それだけ言って、彼女は出ていった。扉が閉まる音は、いつも通り小さかった。わたしは二冊目を開いた。翌年の分。北部領視察費は毎月続いている。三月に、厨房増築 百十ルド。
三冊目。去年。北部領視察費、毎月。八月に、二階張出 九十ルド。わたしは紙を一枚出して、数字を写していった。北部領視察費は、三年で千百四十ルド。資材前渡と棟上げと増築を足すと、千二十ルド。
合わせて二千百六十ルド。
この屋敷の年間の家政費が、四百ルド前後だった。使用人の給金も、薪も、食材も、客のもてなしも、全部そこから出ている。わたしが毎年、削るところを探しながら回していた額だ。
その五年ぶんが、あの家と、あの家への往復に消えている。わたしはペンを置いて、指を組んだ。怒りが来るだろうと思っていた。三年ぶん、まとめて来るだろうと。来たのは、別のものだった。
──去年の冬、わたしは義母の見舞いに行く馬車を一台減らした。二台出すと馬の飼葉が足りないと、厩の者が言ったからだ。わたしは自分の分を減らして、義母の分を残した。そういう計算を、三年間ずっとしていた。
その同じ年に、二階の張り出しが一間、九十ルドで建っている。わたしが飼葉を数えていたとき、あちらでは南向きの窓が付いていた。冬でも日が入るように。わたしは茶に口をつけた。冷めていた。
結婚したのは、四年前の秋だった。
ヴェッセル男爵家は、金はあったが古くはなかった。ラングフォード伯爵家は、古かったが金はなかった。話を持ってきた仲介人は、両方の家に同じ言葉を使ったと思う。釣り合いのとれた縁組でございます、と。
持参金は、八百ルド。父が、三代かけて貯めた額だった。
嫁ぐ前の晩、父は書斎にわたしを呼んで、婚姻財産契約書の下書きを見せた。仲介人が用意してきたものだった。父はそれを一枚ずつめくって、途中で二度、ペンで印をつけた。
「エルヴィラ。これは向こうの書いた紙だ。向こうの都合でできている」
「はい」
「書き直す。清書はお前がしなさい。自分で書いた条項は、忘れない」
あの晩、わたしは夜半までペンを持っていた。指の側面にインクがついて、翌朝、婚礼の手袋をはめるときにまだ落ちていなかった。
あれから四年、あの契約書を開いたことは一度もない。開く必要が、なかったからだ。もう一枚、紙を出す。今度は数字ではなく、言葉を書いた。
──この家の会計から出た金で建った家が、わたしの名義になっている。その一行を、しばらく眺めた。名義人には、税を納める義務がある。
そして、自分の家に人を住まわせている者には、対価を求める権利がある。問題は、いくらか、だ。高すぎれば、ただの腹いせになる。安すぎれば、こちらが認めたことになる。
相場でなければならない。誰が見ても、これは相場だと言える額でなければ。わたしは相場を知らなかった。父の書斎で習ったのは条項の数え方で、ミルデンの家賃ではない。
三年前の三月二十日に買われた印紙は、二枚。登記に使われたのは、一枚。そちらも、まだ分からないままだった。夕食が運ばれてきたとき、わたしはまだ帳面を開いていた。
マルタは皿を机の隅に置いて、帳面のほうへは目をやらなかった。目をやらないというのは、意識してやることだ。二十年この家にいる人は、見ないという仕事の仕方を知っている。
「マルタ。一つ伺ってもよろしいかしら」
「はい」
「旦那様が北部領へお発ちになるとき、いつも東門から出ていらしたわね」
「はい。東門から」
「なぜ、東門なのかしら。北へ行くなら、北門のほうが近いでしょう」
マルタは、皿の位置を直す手を止めた。
「……北門は、朝のうちは荷が詰まりますので。東門のほうが早いと、御者は申しておりました」
「そう」
「ただ」
マルタは、少しだけ言葉を選んだ。
「東門を出て北へ回るなら、街道を一度渡り直さねばなりません。渡り直すのに橋がございますが、その橋は、通行の記録を取ります。伯爵家の馬車は、記録に残ります」
「残る」
「はい。──三年で、一度も」
わたしはペンを置いた。夫の馬車は、三年間、北へ渡る橋を一度も通っていない。
「マルタ。それは、いつからご存じだったの」
マルタは盆を胸に抱えて、深く息を吸った。
「二年ほど前に、厩の者が申しておりました。橋番と親しい者がおりますので」
「なぜ、わたしに」
「申し上げられませんでした」
声は、平らだった。平らにするのに、たぶん、力が要っていた。
「使用人が奥様に申し上げてよいのは、盆の上のものだけでございます。それを外れますと、奥様がお困りになります」
わたしはうなずいた。責める気は起きなかった。この人は、この家で二十年、盆の上のものだけを運んで生きてきた。それで守られてきた人が、この家には何人もいる。
「マルタ」
「はい」
「これからは、盆の外のものも、聞かせてちょうだい」
マルタは、黙っていた。それから、初めて、帳面のほうへ目をやった。
「……承知いたしました」
わたしはペンを取って、明日の予定を書いた。一つ。ミルデン東通りの、近隣の賃料を調べること。二つ。あの人に、もう一度会うこと。名前を書くとき、手が止まった。テオドール・グレイ。
お読みいただきありがとうございます。
エルヴィラが帳面を開いて最初に感じたのは、怒りではなく「飼葉を数えていた冬」の記憶でした。裏切りが痛いのは、裏切られた事実そのものより、その裏で自分が何を我慢していたかを思い出すときなのだと思います。
ところで、マルタの言う「読める者が一人もおりませんと、帳面はよく喋ります」は、この物語のいちばん短い要約かもしれません。
次話、エルヴィラは相場を訊きに行きます。無愛想な記録官は、訊かれてもいないことまで並べて待っていました。




