第3話:この家の、名義人です
ミルデンは、思っていたより明るい町だった。
市の立つ日で、街道の脇に荷車が並んでいる。麦の袋。葡萄の籠。鶏。子どもが二人、犬を追いかけて荷車の間を抜けていった。
東通りは、町の南のはずれにあった。塀の低い家が並び、どの家にも小さな庭がついている。四十七番地は、その並びの終わりから二軒目だった。
白い漆喰。木の骨組みが外から見える二階建て。庭に葡萄棚があって、まだ青い実が下がっている。物干しに、洗濯物が三枚。大人のものが二枚と、子どものものが一枚。
わたしは門の前で立ち止まった。
三年前の夏に建った家だ。翌年に厨房を足し、その翌年に二階の張り出しを一間。届けの通りだった。届けの通りに、家はそこにあった。
紙の上の地番が、目の前で、庭と洗濯物になっている。門に手をかけたところで、犬が吠えた。
茶色の、脚の短い犬だった。庭の奥から走ってきて、柵の内側でわたしを見上げ、それから尻尾を振った。吠えたのは挨拶らしい。
「ボン。誰か来たの」
家の中から声がして、扉が開いた。
出てきたのは、若い女性だった。二十四か、五か。前掛けをして、手を布で拭きながら出てくる。髪をうしろでひとつに束ねていて、袖をまくっていた。
その足元から、小さな頭が出てきた。三つくらいの女の子が、母親の膝の後ろに半分隠れて、こちらを見上げている。女性は、わたしを見て、少し首をかしげた。
「……あの、どちらさまでしょう」
わたしは門の外に立ったまま、鞄から一枚の紙を出した。登記所で受け取った、原簿の写しだった。ここへ来るまでの半日、馬車の中で何度も考えた。何と言うべきなのか。
考えた末に、いちばん短いものが残った。
「エルヴィラ・ラングフォードと申します」
女性の顔から、色が引いた。わずかに、ほんのわずかに、口が開いて、それから閉じた。名前だけで通じたのだ、と分かった。彼女はわたしの名を知っていた。少なくとも、聞いたことがあった。
次の瞬間、彼女は動いた。手を後ろに回して、娘を自分の背に押しやった。逃げるためではない。娘を、わたしの視線から外すためだった。
その手つきに、わたしは少し、息を吐いた。
「……あの人の、お姉様でしょうか」
彼女は言った。声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「いいえ」
「では」
わたしは写しを持ち上げて、彼女に見えるようにした。
「この家の、名義人です」
庭で、犬が座った。女性は写しを見た。目が文字を追っていく。読める人だ、と分かった。所在。地番。所有者の欄。そこで、彼女の指が止まった。
「……エルヴィラ・ラングフォード」
「はい」
「この家は、あの人が建てたと」
「建てたのは、たぶんそうでしょう。金を出したのも。ただ、名義はわたしです。三年前の七月十一日から」
彼女の唇が動いて、音にならなかった。わたしは待った。急かす理由が、こちらには一つもなかった。
「……嘘」
やがて、彼女はそう言った。責める声ではない。自分に言い聞かせるような、低い声だった。
「あの人は、独りだと言いました。家族はいないと。だから、この家は、わたしとノラのために建てるのだと」
ノラ。背中の後ろから、小さな声がした。
「おかあさん」
女の子が、母親の前掛けを引いている。女性は膝をついて、娘の頭に手を置いた。それから、顔を上げてわたしを見た。
「……申し訳、ありません」
「なぜ、あなたが謝るのですか」
わたしは訊いた。訊きたかったから訊いた。彼女は答えなかった。答えられなかったのだと思う。
わたしは門の掛け金を外し、庭に入った。犬が寄ってきて、靴の匂いを嗅いだ。マルタに言われた通り、歩ける靴を履いてきてよかった。道は、市の日で悪かった。
葡萄棚の下まで来て、わたしは家を見上げた。
二階の張り出しの窓が、南を向いている。冬でも日が入るように付けたのだろう。厨房の煙突は新しい。壁の下のほうに、子どもの背丈のところに、木の枝で引っかいたような線が三本ついていた。
背丈を測った跡だ。いちばん上の線が、いま、女の子の頭より少し高い。
「お名前を、伺ってもよろしいですか」
わたしは振り返って言った。
「……リゼル・マイヤーと申します」
マイヤー。委任状の代理人と、同じ姓だった。
「マイヤーさん。この家に、いつから」
「三年前の、秋からです。建ったばかりのころに」
「ご近所には、何と」
リゼルは目を伏せた。
「……夫は行商で、留守がちだと。年に何度か帰ってくる、と申しておりました」
「そう説明なさるように、言われた?」
「いえ。わたしが、自分で」
彼女は前掛けの端を握った。
「そう言っておけば、誰も何も訊きませんから。訊かれると、答えられませんので」
わたしは黙っていた。三年ぶんの説明を、この人も自分の口でしてきたのだ。同じ人のために、別の場所で、別の言葉で。
わたしは王都で「領地のためですから」と言い、この人はミルデンで「行商で留守がちで」と言った。二人とも、嘘をついたつもりはなかったはずだ。二人とも、聞かされた通りを繰り返しただけだった。
「マイヤーさん」
「はい」
「この家の税は、名義人が納めます。今月末までに、二十四ルドと端数を、この町の役場へ」
リゼルの顔がこわばった。彼女は前掛けの端を握って、それから言った。
「……いくら、お納めすればよろしいでしょうか」
わたしは首を振った。
「あなたからは、いただきません」
「え」
「請求は、この家を建てた人にいたします」
風が吹いて、洗濯物が揺れた。子どものものが一枚、大人のものが二枚。二枚のうち一枚は、男物のシャツだった。わたしは、それを見なかったことにした。今日は、そこまで行かない。
「マイヤーさん。あなたは、ここにいてよいのです」
リゼルが、顔を上げた。
「……どうして」
「家の名義人が、そう言っています」
それ以上の説明を、わたしは持っていなかった。持っていないまま、口が動いた。三年ぶんの説明を自分の口でしてきた口が、今日は、たった二言で済んだ。
女の子が、母親の後ろから半分だけ出てきて、わたしを見上げた。
「……おうちのひと?」
わたしは膝を折って、目の高さを合わせた。
「そうです」
嘘ではなかった。少なくとも、紙の上では。女の子は少し考えて、それから、庭のほうを指さした。
「ボン、かむよ」
「教えてくれて、ありがとう」
門を出るとき、リゼルが追ってきた。
「あの」
「はい」
「……あの人に、何とおっしゃるのですか」
わたしは少し考えた。馬車の轍が、街道に長く伸びている。半日行けば王都で、屋敷があって、三年ぶんの晩餐の席次表がしまってある。
「まだ、決めておりません」
わたしは正直に答えた。
「決めましたら、あなたにもお知らせします」
馬車が動き出してから、わたしは膝の上で写しを広げた。所有者、エルヴィラ・ラングフォード。取得原因、新築。名義人には、税を納める義務がある。それは今朝、徴税吏が教えてくれた。
では、権利のほうは。自分の家に人を住まわせているとき、名義人は何を請求できるのか。
父の書斎で習ったことを、順に思い出していく。使用の対価。期間。遡って請求できるか。できるとして、どこまで遡れるか。相場は誰が決めるのか。
窓の外を、麦の畑が流れていった。わたしは、三年ぶんの数字を知りたくなっていた。
お読みいただきありがとうございます。
エルヴィラは、リゼルを責めませんでした。責める相手が違うからです。
この家の壁には、三本の線が引いてあります。子どもの背丈を測った跡です。それを見てしまった人が、その子を追い出せるかどうか──この物語の答えは、たぶん最初から決まっています。
さて。名義人には、権利と一緒に義務も来ます。税を納める義務、そして──家賃を取る権利が。
次話、エルヴィラは屋敷に戻り、三年ぶんの帳簿を開きます。「視察費」という欄があるはずです。




