第2話:紙は嘘をつきません
ミルデンへ発つ前に、寄るところがあった。
王都登記所は、大通りから一本入った石造りの建物で、朝から人が詰まっている。土地の売り買い、相続、抵当。人が金を動かすとき、必ずここに紙が一枚増える。番号札を受け取って、わたしは長椅子の端に座った。
二十七番。呼ばれるまでに一時間半かかった。
その間に、いろいろな人が呼ばれていった。畑を売る老人。抵当の書き換えに来た商人。相続の手続きで来たらしい兄弟は、窓口の前で言い合いになって、係の者に外へ出された。
どの人も、紙を持っていた。持っていない人は、ここにいなかった。わたしは膝の上の鞄に手を置いた。中には昨日の写しが一枚だけ入っている。それだけを持って、わたしはここに座っている。
「二十七番の方」
窓口の奥から出てきたのは、背の高い男だった。三十代の半ばだろうか。髪をきちんと分けているのに、袖口にはインクの染みがある。愛想は、まったくない。
「ご用件を」
「ミルデンの家屋の、原簿を拝見したいのです。東通り四十七番地」
「閲覧のご資格は」
「名義人です」
男の手が、初めて止まった。
「……お名前を」
「エルヴィラ・ラングフォード」
男は帳面に何かを書きつけ、奥へ消えた。戻ってくるまでに、また十五分かかった。
抱えてきた原簿は、大判で、厚みが指四本ぶんほどあった。机に置くとき、男は角から静かに下ろした。落とすまいという手つきではない。傷をつけまいという手つきだった。
「ミルデン東通り四十七番地。地目、宅地。家屋、木骨石造二階建」
男は指で欄を追いながら読み上げていく。
「所有者、エルヴィラ・ラングフォード。取得原因、新築。登記の日付は三年前の七月十一日」
わたしは欄を覗き込んだ。原簿の文字は役所の書記の手で、わたしの字ではない。けれど、そこに書かれている名前はわたしのものだった。
「申請は、ご本人ではありませんね」
「……はい?」
「代理人による申請です。委任状が綴じてあります」
男は原簿の脇に置いた薄い綴りを開いた。中に、見覚えのある紙があった。いや、正確に言えば、見覚えのある字があった。
委任状。三年前の三月二十日付け。ミルデン東通り四十七番地の家屋につき、登記の一切を代理人に委任する、という一文。その下に、わたしの署名。
「ヴ」の右肩が、落ちている。
「これは、あなたの署名ですか」
「……わたしの署名です」
「間違いなく」
「間違いありません」
答えてから、喉の奥が渇いているのに気づいた。三年前の三月二十日。あの日、わたしは二十枚を一枚ずつ読んで署名した。水路の修繕、林の伐採、小作の年季。その中に、この一枚があった。
読んだはずだ。読んだ。読んで、署名した。──読んで、何と書いてあった?
「ご本人でも、こういうことはあります」
男が言った。感情のない声だった。
「二十枚も三十枚も一度に署名させて、そのうちの一枚だけ性質の違うものを混ぜる。手口としては古いものです。並べ方が上手いと、読んでいても引っかかりません」
「……読んでいても」
「ええ。読ませないより、読ませたほうが後で強い。『あなたは読んで署名した』と言えますから」
わたしは委任状の日付を、もう一度見た。三月二十日。あの日、夫は四十分待った。窓辺で、指で窓枠を叩きながら。待ったのだ。読ませるために。
「委任を受けた方は」
「ヨナス・マイヤー」
昨日、徴税吏の帳面で見た名前だった。
「この方の身元は、こちらで分かりますか」
「登記所は身元を保証しません。申請の受付だけです」
取りつく島がない。
「では、建築の費用は。どこから出たか、原簿に書いてありますか」
「書きません。ここに載るのは、誰のものか、それだけです。金の出どころは載りません」
「載らない」
「ええ。──ですが」
男は少し声を落とした。
「金を出した人間が、その金をどこから持ってきたかは、別のところに残ります。伯爵家であれば、家の会計に」
わたしは顔を上げた。
ラングフォード家の帳簿は、書斎の下段の棚にある。当主が見る帳面と、家政の帳面が別に。家政の帳面はわたしが預かっているが、当主の帳面は開いたことがない。開けと言われたことも、開くなと言われたこともない。
鍵は、かかっていただろうか。男は綴りをもう一枚めくった。
「ただ、これは申し上げておきます」
現れたのは、細長い紙片を貼った台紙だった。印紙の控えらしい。
「委任状には印紙が要ります。印紙は、購入した日と購入者が記録に残る。この委任状に貼られているのは、三月二十日購入分です」
「はい」
「同じ日に、同じお名前で、印紙は二枚買われています」
わたしは顔を上げた。男は台紙の欄を指した。エルヴィラ・ラングフォード。三月二十日。二枚。
「一枚はこの委任状に使われました。もう一枚の使途は、この綴りには記載がありません」
「……どこへ行ったのですか」
「分かりません。ここは登記所ですから、登記に使われた紙しか綴じません。もう一枚は登記以外の何かに貼られた、ということだけが言えます」
もう一枚。三年前の三月二十日、わたしの名前で買われて、わたしの知らないところへ行った紙が、一枚ある。
「……その紙が、いま、どこにあるかを知る方法は」
「ありません」
男はきっぱりと言った。
「持っている人間が出してくるまで、こちらからは追えません」
窓口の外で、誰かが番号を呼ばれている。木と埃と、古い糊の匂いがした。わたしは膝の上で指を組み、それから、緩めた。
「あの」
「はい」
「あなたは、こういうことを、いつも初めて来た人に説明なさるのですか」
男は少し黙った。
「……いいえ」
「では、なぜ」
「原簿を持ってくるとき、あなたが立って待っていたからです」
わたしは自分が立っていたことに、そのとき初めて気づいた。長椅子はまだ空いていた。
「たいていの方は座っています。座っている方には、聞かれたことだけ答えます」
それだけ言って、男は原簿を閉じた。表紙の埃を、袖ではなく布で払った。
「テオドール・グレイ。主任記録官です。写しがご入用でしたら、二階の窓口で申請なさってください。今日中に出ます」
「グレイさん」
呼び止めると、彼は振り返った。
「わたしの署名は、本物です。それは変わらないのですね」
「変わりません」
「でしたら、この家は」
「あなたのものです」
言い切る声に、迷いがなかった。
「原簿にそう書いてある。誰がどんな事情で書かせたとしても、書かれた以上、この家の名義人はあなたです」
わたしは委任状の写しを申請し、階段を降りた。外は市の立つ日で、荷車が通るたびに石畳が鳴っていた。わたしは写しを胸に抱えて、東門へ向かう。半日で着く。昼を過ぎたころには、わたしの家に着く。
背中で、扉の閉まる音がした。振り返ると、テオドール・グレイが階段の上に立っていて、こちらを見ていた。目が合うと、彼は一度だけ会釈をして、それからこう言った。
「奥様。紙は嘘をつきません」
わたしは言葉を探した。探しているあいだに、彼は続けた。
「写した人間が、嘘をつくだけです」
お読みいただきありがとうございます。
「読ませないより、読ませたほうが後で強い」というテオドールの台詞は、実際の詐欺の手口から来ています。人は、自分が確認したものを疑いません。
三月二十日に買われた印紙は、二枚。使われたのは、一枚。
──残りの一枚は、いま誰の手元にあるのでしょうか。
次話、エルヴィラはミルデン東通り四十七番地の門の前に立ちます。扉を開けるのは、彼女ではありません。




