第1話:徴税吏は、わたしの名を読み上げた
「ラングフォード伯爵夫人。ミルデンの家屋にかかる税を、お納めいただきたい」
徴税吏は玄関先でそう言って、一枚の写しを差し出した。わたしは、ミルデンという町へ行ったことがない。
「……その写し、拝見してもよろしいですか」
「どうぞ。名義人の欄をご覧ください」
受け取った紙は、思ったより厚かった。役所の写しに使う漉きの粗いもので、指の腹に繊維が引っかかる。窓のほうへ向けると、文字が裏から滲んで見えた。
エルヴィラ・ラングフォード。
わたしの名だ。わたしの字だ。「ヴ」の右肩がわずかに落ちる癖まで、そのまま出ている。父に何度も直された癖で、結局、直らなかった。
「こちらは、王都の第二邸宅としてご申告いただいておりません。名義人がご当主ではなく、奥様ご本人でいらっしゃいますので」
徴税吏は──玄関の帳面にはハルト・ゼーガーと署名があった──慣れた調子でそう続けた。責めている口ぶりではない。数字を運んできただけの男の顔をしている。
「申告漏れ、ということでしょうか」
「いえ。奥様のお名前でしたら、そもそも第二邸宅にはあたりません。ですから税率も低い。低いなりに、納めていただく分がございます、というお話です」
なるほど、と思った。思ってしまった。
伯爵が王都の外に家を持てば、第二邸宅税がかかる。妻の名で建てれば、それはただの家屋になる。差は、おそらく四倍か五倍。
わたしの夫は、算盤を弾ける人ではない。けれど、四倍と五倍の違いくらいは分かる人だ。
「その家屋は、いつ建ったものですか」
「三年前の夏でございます。翌年に厨房の増築、その翌年に二階の張り出しを一間。三度、届けが出ております」
三年前の夏。
夫が北部領へ「視察」に発つようになったのは、その年の春だった。月に十日ほど留守にする。領地の水路を見なければならない、と言っていた。冬にはさすがに行かないだろうと思っていたら、雪の中も出かけていった。水路は、凍る前に見ておくものらしい。
「増築の届けは、どなたが」
「代理の方でございますね。委任状が添えてございます」
ゼーガーは帳面を繰って、指を止めた。
「差出人は──ヨナス・マイヤーという方です。ご存じで?」
「いいえ」
知らない名だった。わたしは口の中でその音を二度繰り返した。ヨナス・マイヤー。
「お住まいの方が、いらっしゃいますね」
訊くつもりのない声だった。ゼーガーは一枚めくった。
「ええ。女性がおひとりと、お子さんが。三つか、四つくらいでしょうか。庭で犬に追いかけられておいででした」
庭がある。犬がいる。わたしはもう一度、名義人の欄に目を落とした。文字はさっきと同じ場所にあり、同じ角度で傾いている。
納付の期限は月末、窓口は王都の徴税所ではなくミルデンの町役場だという。町役場、という言葉が耳に残った。ミルデンには町役場がある。市が立ち、犬が走り、子どもが庭にいる。わたしの名前で建った家が、そこにある。
「額は」
「二十四ルドと、端数が」
二十四ルド。この屋敷の月々の炭代と、だいたい同じだった。
「ミルデンというのは、どのあたりでしょう」
「王都から南へ、馬車で半日ほどでございます。麦と、あとは葡萄の。市の立つ日は、街道が少し混みます」
半日。
夫が「北部領へ」と言って屋敷を出るとき、馬車は必ず東門から出ていった。東門から北へ回るのは、遠回りだが道が良い、と本人が言っていた。わたしはそれを、そういうものかと聞いていた。
東門を出て南へ折れれば、半日でミルデンに着く。
書斎の窓は、三年前の春も同じ角度で開いていた。あの日、夫は机の上に紙の束を置いた。二十枚ほどあったと思う。
「領地の書類だ。父の代からの手続きを、まとめて直すことになった。ここに署名を」
わたしは椅子を引いて座り、いちばん上の一枚を手に取った。夫が、息を吐いた。
「読むのか」
「読みます」
「そんなものを読む女がどこにいる」
どこにでもおります、と答えたかったが、答えなかった。
わたしの実家は、ヴェッセル男爵家という。祖父の代までは代書人だった。人の証書を書いて、人の証書を読んで、その手間賃で男爵位を買った家だ。父は書斎に娘を入れて、条項の数え方から教えた。嫁ぐときの婚姻財産契約書も、父の口述をわたしが清書した。
だから、わたしは読む。読んでから署名する。それだけを、この家に来てから一度も変えていない。
あの日も、二十枚を一枚ずつ読んだ。水路の修繕。林の伐採。小作の年季。どれも領地の書類だった。夫は途中で窓辺へ行き、庭を見ながら指で窓枠を叩いていた。四十分ほどかかったと思う。
最後の一枚に署名したとき、夫が窓辺から戻ってきて、わたしの手元を覗き込んだ。ペンを置くところまで見ていた。それから束をそろえて、革の鞄にしまった。
「これでいい。よく読む妻を持つと、時間がかかるな」
褒めているのか、責めているのか、その日のわたしには分からなかった。夫はそういう言い方をする人で、わたしはそういう言い方に慣れていた。
読み終えて、わたしは全部に署名した。全部に。
玄関の扉が閉まる音で、わたしは我に返った。
「奥様」
家政婦頭のマルタが、盆を持って立っている。
「お茶をお持ちしましょうか」
「……ええ。書斎へ」
わたしは写しをたたんで袖に入れた。
「マルタ。旦那様は、いつお発ちだったかしら」
「先月の十四日でございます。まだお戻りではございません」
マルタは盆の位置を直しながら答えた。数字がすぐに出てくる人だ。この家で、誰がいつ出て、いつ帰ったかを、いちばん正確に知っているのはこの人だと思う。
「二十日近くね」
「二十一日でございます」
「……そう」
書斎に入り、机の抽斗を開けた。婚姻のときに実家から持ってきた文箱がある。鍵は、わたししか持っていない。
中には三通。婚姻財産契約書の写し。持参金の受領証。それから、嫁いだ年に父が書いてよこした手紙が一通。手は、思ったより落ち着いていた。
わたしは契約書の写しを開かず、蓋を閉じた。今日確かめるべきものは、これではない。袖から出した写しを、机の上に広げる。名義人の欄。所在。地番。ミルデン、東通り、四十七。三年。
三年のあいだ、わたしはこの家の女主人として、晩餐の席次を決め、使用人の給金を数え、義母の見舞いに月二度通い、夫の留守を「領地のためですから」と客に説明してきた。三年ぶんの説明を、わたしは自分の口でした。三年ぶんの微笑みも、自分の顔でつくった。
それが全部、どこにも届いていなかったのだと、いま分かった。いや。届いていなかったのではない。わたしの名前だけが、先に、あちらへ届いていた。マルタが茶を置いた。湯気が、写しの上を流れていく。
「奥様。差し出がましいことを申し上げますが」
「なに」
「先ほどのお方、徴税所の方でございましょう。ここへお見えになるのは十年ぶりでございます」
「そう」
「十年前は、大奥様がお出になりました。玄関先で三十分ほど言い合いになりました。声はよく通っておいででした」
わたしは茶に口をつけた。義母なら、そうするだろうと思った。声を大きくして、家名を出して、帳面を突き返す。それで税が消えたことは、一度もない。
「マルタ」
「はい」
「明日、出かけます」
マルタは盆を胸に抱えたまま、少しだけ間を置いた。
「どちらへ」
わたしは写しをたたみ、指で折り目をつけた。折り目は、まっすぐ入った。
「……わたしの家へ」
マルタは何も訊かなかった。盆を持ち直して、一度だけ深くうなずいた。
「馬車は、東門から出しておきます」
「南へ折れて」
「承知いたしました」
それから、扉のところで足を止めて、こう付け足した。
「奥様。お履き物は、歩けるものになさいませ。市の立つ日は、道が悪うございますから」
お読みいただきありがとうございます。
この物語のヒロインは、怒鳴りません。責めもしません。彼女が持っているのは、剣でも魔法でもなく「読んでから署名する」という習慣だけです。
──ただ、その習慣は、三年前のあの日から、すでに効きはじめていました。
次話、エルヴィラは王都の登記所へ向かいます。原簿には、彼女がまだ知らない「もう一枚」が眠っています。




