第29話:離縁は、書面で
離縁の届は、公証人の役場で受理された。わたしは行かなかった。
行かなくてよい手続きだった。双方の署名が揃っていれば、代理人が持ち込める。テオドール・グレイが「登記所の人間として同行はできませんが、公証人には知り合いがおります」と言って、手配してくれた。
夫の署名は、三日前に取れていた。書斎で、彼は書面を最後まで読んだ。四年間で初めて、この人が紙を頭から読むところを、わたしは見た。二十分かかった。読み終えて、彼は第七項のところを指した。
「……これは」
「婚姻財産契約の第九条によるものです」
「九条」
「はい」
夫はそのまま長いこと黙っていた。
「……見せてくれ」
わたしは契約書の原本を渡した。彼は第九条を読んだ。読んで、もう一度読んだ。それからこう言った。
「これは、いつ書かれた」
「四年前です。婚姻の前日に、わたしが清書いたしました」
「……四年前」
「はい」
夫は紙を机に置いた。置いてから、両手をその上に乗せた。
「俺は、これを読んでいない」
「はい」
「読んでいれば」
そこで、彼は止めた。止めた先は、わたしにも分かった。読んでいれば、別のやり方をした。もっと巧いやり方を。その考え方を四年間続けてきた人だから、いまも同じ考え方をする。
「アルブレヒト様」
「……なんだ」
「読んでいれば、あの家は建てられませんでした」
彼は顔を上げた。
「第九条があると分かっていれば、妻の名義で家を建てても、担保にできないと分かります。担保にできない家は、旦那様にとって無意味です。──ですから、建てなかったと存じます」
夫は口を開けて、閉じた。
「あの家が建たなければ、リゼルさんはあの家に住んでおりません。ノラさんも、あそこで生まれておりません」
わたしは書面を彼のほうへ押した。
「読まなかったおかげで、あの家は建ちました。そして、読まなかったおかげで、あの家は取られません」
夫はペンを取った。署名するとき、手が震えていた。三年前に妻の字を写した手が、自分の名前を書くのに震えていた。
貴族院の裁定は、その二週間後に出た。わたしは呼ばれなかった。名義人としての照会はすでに終わっていて、残りは伯爵家の内部の話だった。
結果は、マルタが町の噂として持ってきた。それから数日して、正式な通知が屋敷に届いた。ラングフォード伯爵、爵位返上。領地は王領へ復帰。
私的流用の額が確定し、返済の見込みが立たないと判断された。爵位剥奪ではなく返上で済んだのは、義母が動いたからだと後で知った。剥奪と返上では、記録の残り方が違う。あの人は、最後まで家名の話をしていた。
差押えは、屋敷の家財から始まった。
馬が二頭、絵が四枚、食堂の卓と椅子、燭台、それから、書斎の下段に並んでいた革表紙の帳面まで持っていかれた。二十年分の帳面には、たぶん値打ちはない。ただ、目録に載っていたから持っていっただけだろう。
わたしはその日、屋敷にいなかった。ミルデンにいた。北側の物置を壊して、そこに犬小屋を作る日だった。
大工は、ミルデンの町の人だった。物置の壁を剥がすと、中から古い麦の袋が出てきて、その下から鼠の巣が三つ出てきた。
「そりゃあ、冷えるわけだ」
大工は笑った。
「壁の中に藁が詰まってねえ。ここだけ、詰めてねえです」
「なぜでしょう」
「南側は詰めてありますよ。表から見える側だけ、ちゃんとやってある」
彼は壁を叩いた。
「安く上げたんでしょうな。裏は見えねえから」
わたしはその音を聞いていた。三年前の夏、この家を建てた人は、南側に藁を詰めて、北側には詰めなかった。通りから見える側だけを、ちゃんとやった。
わたしはその人の三十八か月ぶんの家賃を請求して、一度も払われないまま、離縁した。
払われなかった三百四十二ルドは、離縁の書面で相殺した。持参金八百ルドの返還と差し引きして、わたしが受け取る額を四百五十八ルドにした。
四百五十八ルドは、たぶん、あの人には作れない。作れないぶんは、諦める。書面にそう書いた。諦めた額を書面に残したのは、諦めたという事実も、紙にしておきたかったからだ。
夕方、リゼルが白湯を持ってきた。大工は帰り、庭には木材が積んであった。犬小屋は明日できる。
「奥様」
「はい」
「あの人は、どうなりましたか」
わたしは少し考えた。
「爵位を返上なさいました。領地も、王領へ戻ります」
「……牢へは」
「参りません」
わたしは白湯を受け取った。
「署名の件は、出しませんでした」
リゼルが、こちらを見た。
「……なぜ」
わたしは庭の壁のほうを見た。線が四本、入っている。
「あの紙を出しますと、ノラさんの父親が牢に入ります」
「あの人は、ノラを認知しておりません」
「認知していなくても、父親です」
わたしは言った。
「あの子が十五になったときに、自分の父親がどうなったかを知ります。そのときに、『あなたのお母さんが住んでいた家の名義人が、あなたのお父さんを牢に入れた』という話にはしたくありませんでした」
リゼルは黙って白湯を飲んだ。
「──それに」
わたしは付け足した。
「牢に入れても、四百五十八ルドは戻りません」
リゼルが、少し笑った。三か月で、初めて見る顔だった。
「奥様は、そういうところが」
「はい」
「ずるいと思います」
「よく言われます」
庭で、ノラが犬を呼んでいる声がした。犬小屋はまだ骨組みだけで、屋根が乗っていない。明日には仕上がる。
「リゼルさん。一つ、お伝えしておきます」
「はい」
「わたしは来月、王都の屋敷を出ます」
彼女の手が止まった。
「……どちらへ」
「この町に、部屋を借ります。東通りの、反対の端に」
「え」
「近くにいたほうが、いろいろ早いのです。町役場も、大工も、あなたのところも」
リゼルは湯呑みを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「奥様。それは、その──」
「同じ家には住みません」
わたしは先に言った。
「あなたはこの家を借りている人で、わたしは貸している人です。同じ屋根の下にいると、その形が崩れます」
「崩れると、いけませんか」
「いけません」
わたしは白湯を飲み干した。
「形が崩れると、あなたはまた『住まわせてもらっている人』になります。──三年、そうでいらしたでしょう」
リゼルは湯呑みの縁の欠けたところを指でなぞった。
「……はい」
「もう、なさらなくて結構です」
その晩、わたしは屋敷へ戻らずミルデンの宿に泊まった。父の代までは、この町にも宿があったのだという。リゼルの実家がそれだった。いまは別の家が建っている。
宿の窓から、東通りの方角が見えた。四十七番地の灯りまでは見えない。距離があるからではなく、あの家の北側に窓がないからだった。
北側に窓を一つ開けよう、と思った。壁を壊したついでに、開けられるはずだ。大工に訊いてみる。冬までに間に合えば、来年の咳は少し減る。名義人には、そういうことができる。
三年前から、ずっとできた。知らなかっただけだ。
知らなかったことを、いまさら悔やんでも仕方がない。悔やむ代わりに、大工に訊く。訊いて、寸法を測って、日付を書いておく。
離縁は、書面で終わりました。エルヴィラは公証人の役場にも行かず、貴族院の裁定にも立ち会っていません。彼女がその日いたのは、ミルデンの物置を壊す現場でした。
壁の中に藁が入っていたのは、南側だけでした。通りから見える側だけ、ちゃんとやってある。──この家の造り方は、建てた人の三年間そのものです。
筆跡鑑定の紙を、彼女は出しませんでした。理由は情けではありません。「あの子が十五になったときに」という、十二年先の話です。
次話、最終話。鍵を渡す相手が決まります。




