第30話:大家になりました(第1部完)
屋敷を出たのは、離縁から三週間後だった。持って出たものは少なかった。衣類が三箱。文箱が一つ。父の帳面が四冊。実家から取り寄せたものだった。
家具は、ほとんど差押えで無くなっていた。残っていたのは、書斎の机だけだ。目録に載らなかったのは、脚が一本ぐらついていたからだと思う。
玄関で、マルタが待っていた。
「奥様」
「マルタ。四年間、ありがとう」
「……とんでもないことでございます」
彼女は盆を持っていなかった。手ぶらで人を見送るのは、二十年で初めてかもしれない。
「大奥様は」
「離れにいらっしゃいます。お出になりません」
「そう」
「ただ」
マルタが、封を一通差し出した。
「これを、と」
中には、短い一行だけが入っていた。
『鶏は、柔らかいものを選びなさい』
わたしはそれを畳んで、袖に入れた。
「マルタ。あなたはどうなさるの」
「離れに残ります。大奥様がお一人になりますので」
「給金は」
「王領の管理人から出ることになりました。使用人の分は、そちらで持つそうでございます」
彼女は、少しだけ胸を張った。
「二十年で、初めて、遅れずに出ます」
わたしは笑った。
笑ってから、玄関の柱時計を見上げた。三時を回っている。四年前、嫁いできた日も同じ時刻だった。あのとき、この時計の音は屋敷中に響いていた。いまは、廊下の途中で消える。人が減ると、音の届く距離まで変わるらしい。
「マルタ。この時計は」
「目録に載っておりました。来週、引き取られます」
「そう」
「二十年、狂ったことがございません」
彼女は時計を見上げた。
「良いものは、良い人のところへ行きます。──と、大奥様が仰っておりました。強がりでございますが」
「強がりでも、本当です」
わたしは玄関の扉に手をかけた。
「マルタ。一つ、お願いしてもよろしいかしら」
「はい」
「ミルデンに、いつでもいらして。冬は寒い町ですけれど、いまは壁に藁が詰まっております」
ミルデンでは、東通りの反対の端に、小さな家を借りた。部屋が二つ。庭はない。四十七番地から歩いて五分の距離だった。同じ家に住むこともできた。部屋は余っている。けれど、そうしなかった。
大家が同じ屋根の下にいると、借りている人は、いつまでも「住まわせてもらっている」ことになる。
賃貸借契約書を作ったのは、引っ越して三日目だった。卓の上に紙を広げて、リゼルに向かい合った。
「読んでください」
「……はい」
彼女は一行ずつ読んだ。時間をかけて読んだ。途中で二度、指を止めて、意味を訊いた。わたしは両方とも答えた。賃料は、月に一ルド。
「奥様。安すぎます」
「相場は九ルドです」
「では、なぜ」
「あなたが払える額でなければ、この契約は続きません」
わたしは言った。
「続かない契約を作ると、あなたはまた『住まわせてもらっている人』になります。──一ルドでも、払っているうちは、あなたは借りている人です」
リゼルは、契約書を見つめていた。
「借りている人には、権利がございます。修繕を求める権利。期間中は出ていけと言われない権利。──それは、恩ではありません。契約です」
「恩では、ない」
「ありません」
彼女は、署名の欄にペンを置いた。置いてから、顔を上げた。
「奥様。わたしは、字は書けますが、こういう紙は初めてです」
「では、これから何度も読んでください。読み方は、そのうち分かります」
「……教えていただけますか」
わたしは少し驚いた。それから、うなずいた。
「ええ。喜んで」
リゼルは署名した。わたしも署名した。エルヴィラ・ヴェッセル。旧姓のほうが、書き慣れていないぶん、少し遅かった。
鍵は、ノラに渡した。三つの子に鍵を渡しても仕方がないのだが、リゼルが「この子に持たせてやってください」と言った。わたしは膝を折って、目の高さを合わせた。
「ノラさん。これは、この家の鍵です」
ノラは両手で受け取った。鉄の鍵は、三つの子の手には重かったらしく、すぐ落としそうになった。
「おもい」
「重いですね」
「なんで、くれるの」
わたしは、少し考えた。
「あなたが、ここに住んでいるからです」
ノラは鍵を握って、庭のほうへ走っていった。犬小屋の前で、ボンに鍵を見せている。犬は匂いを嗅いで、興味を失って、また寝た。
その週の終わりに、テオドール・グレイがミルデンへ来た。登記の完了通知を届けに、と言った。郵便で足りるものだった。
「わざわざ、お運びいただかなくても」
「ついでです」
「王都から半日の、ついで」
「……市が立つと聞きましたので」
彼は、手に何も持っていなかった。市で何かを買うつもりだったのかは、訊かなかった。わたしたちは、東通りを歩いた。四十七番地の前で、彼は足を止めた。
「北側を壊されたのですね」
「物置でした。藁が詰まっておりませんでしたので」
「なるほど」
彼は、家をしばらく見ていた。
「奥様」
「ヴェッセルです。もう、奥様ではありません」
「……ヴェッセルさん」
彼は言い直した。少し不器用だった。
「一つ、お渡しするものがあります」
彼が上着から出したのは、一枚の紙だった。東通り四十七番地の、土地の登記の履歴。前に見せてもらったものと同じだが、こちらには註が入っていた。
「二十二年前の所有者を、調べました」
「……ついでに」
「ついでに」
わたしは紙を受け取った。註には、こう書かれていた。
『二十二年前、この土地を売却したヴェッセル某は、王都在住の代書人。買い手はミルデン町。売却価格は相場の半値以下。売却の翌年、同町に共同井戸が掘られている。』
半値以下。その翌年に、井戸。わたしは、実家から持ってきた父の帳面のことを思った。四冊のうち、いちばん古い一冊が、ちょうどその年のものだった。まだ開いていない。
「調べますか」
テオドール・グレイが訊いた。わたしは紙を畳んだ。
「……ええ」
風が吹いて、葡萄棚の葉が鳴った。庭で、ノラが鍵を振り回している音がする。
「ただし、急ぎません」
わたしは言った。
「急いで読むと、間違えますので」
テオドール・グレイは、うなずいた。
「では、そのときに」
「ええ」
「……お手伝いできることがあれば」
「ございます」
わたしは即答した。彼が少し驚いた顔をしたので、付け足した。
「たぶん、たくさんございます。二十二年前の登記は、いまの書式と違うでしょう」
「違います。書式が三度変わっております」
「では、わたしには読めません」
「読めます」
彼は言った。
「時間はかかりますが、読めます。──読める人ですので」
東通りの奥で、ノラが鍵を落とした音がした。犬が吠えて、リゼルが名前を呼んだ。わたしは家のほうを見た。
白い漆喰。青い葡萄。物干しに、洗濯物が三枚。今日は、大人のものが一枚と、子どものものが二枚だった。三か月前、この物干しには大人のものが二枚かかっていた。一枚は男物のシャツだった。
わたしはあの日、それを見なかったことにした。今日は、無いことをきちんと見た。テオドール・グレイが、隣で同じほうを見ていた。
「良い家ですね」
「北側の壁に藁が入っておりません」
「では、入れましょう」
「入れます」
風が吹いて、洗濯物が三枚とも同じ向きに揺れた。
お読みいただきありがとうございます。
第一部『名義の反転』、これにて完結です。三十話、お付き合いいただきありがとうございました。
エルヴィラが最後にやったのは、月一ルドの賃貸借契約でした。九ルドの相場ではなく、一ルド。──払える額でなければ契約は続かず、続かなければ、リゼルはいつまでも「住まわせてもらっている人」のままだからです。
恩ではなく、契約。この物語がずっと言ってきたのは、たぶんそれだけのことでした。
そして、三つの子の手には重すぎる鍵を、彼女は渡しました。
さて、最後に一枚だけ、まだ読んでいない紙が残っています。
二十二年前、ミルデン東通りの土地を相場の半値以下で手放した代書人が、王都におりました。姓は、ヴェッセル。その翌年、この町に共同井戸が掘られています。
父の帳面は、四冊あります。いちばん古い一冊が、ちょうどその年のものです。
エルヴィラは「急ぎません」と言いました。急いで読むと間違える、というのがその理由です。
──ですが、いずれ読みます。読む人ですので。




