第28話:婚姻契約書、第九条
父の手紙は、便箋が二枚だった。封を切るのに、少し手間取った。四年ぶんの糊は、思ったより硬い。
『エルヴィラへ
嫁いだ翌週に、この手紙を書いている。届くのは、たぶん、ずっと先だ。いま読まないでほしい。読まずにしまっておきなさい。
お前が幸せなら、この手紙は一生開かない。開かないまま死ぬ紙が、代書人の家にはたくさんある。それでいい。書いた紙が使われないのは、いちばん良い結果だ。』
わたしは、そこで一度、手を止めた。窓の外は暗くなっていた。書斎の燭台は、一本しか点けていない。使用人が減ってから、蝋も減らしている。
『もし開くことになったら、第九条を見なさい。
あれは仲介人の下書きには無かった。私が足した。お前に清書させたのは、書いた条項は忘れないからだ。忘れなければ、必要なときに思い出す。』
わたしは、机の上の契約書を開いた。九条。四年前のわたしの字。第九条を、初めて、頭から終わりまで読んだ。
『第九条
婚姻の継続中において、夫または妻の一方が、婚姻の住居以外に別の所帯を設け、これを継続して維持した場合、当該所帯に供された家屋および土地は、その登記名義人に確定的に帰属するものとし、他方の配偶者ならびにその債権者は、これに対して一切の請求権を有しない。』
わたしは、その一文を三度読んだ。三度読んで、椅子の背にもたれた。
当該所帯に供された家屋および土地は、その登記名義人に確定的に帰属する。ミルデンの家は、わたしのものになる。「なる」のではない。三年前から、すでにそうだった。
他方の配偶者ならびにその債権者は、これに対して一切の請求権を有しない。夫は請求できない。クヴェレ商会も、請求できない。差押えの網は、あの家には最初から届いていなかった。
夫が三か月かけてやろうとしたこと──更正登記、名義の書き換え、第二夫人、離縁の拒否──は、全部、この一文の前で無意味だった。
夫が四年前に自分で判を押した紙が、夫のやることを全部、前もって塞いでいた。わたしは、手紙の続きを読んだ。
『なぜこの条項を足したか、書いておく。
代書人を三十年やっていると、同じ形の依頼が来る。家の外に所帯を作った男が、そちらへ家を建てる。金は本宅から出る。名義は妻にする。税と、借金取りの両方をよけるためだ。
そして数年して、妻が知る。知ったときには、妻の手元には何もない。名義はあるが、それは名義だけで、実際には夫の物として扱われる。夫が担保に入れ、取られて、終わる。
私は、そういう妻を七人見た。七人とも、私のところに証書を持ってきた。持ってきたときには、もう遅かった。だから、お前の契約書には先に書いた。
これは呪いではない。保険だ。使わずに済むなら、それがいい。』わたしは、便箋を膝の上に置いた。七人。
父の書斎に、七人の女が証書を持って来た。わたしはその何人かと、廊下ですれ違っていたのかもしれない。五つか六つの子どもの横を、紙を持った女が通っていく。父は書斎の扉を閉めて、長いこと出てこない。
あの扉の向こうで、父は「もう遅い」と言っていたのだ。七回。
わたしは便箋を裏返した。裏には何も書かれていない。父は裏を使わない人だった。証書は裏を使わないものだと言って、手紙でもそうしていた。
七人の女のことを、わたしは何も知らない。名前も、家も、その後どうなったかも。父は一度も話さなかった。話せば守秘を破ることになるからだ。
話さない代わりに、父は娘の契約書に一条足した。あれは、七人ぶんの言えなかった言葉だったのだと思う。わたしは目の奥が熱くなるのを感じて、それを止めなかった。止める理由が思いつかなかった。
書斎には誰もいない。使用人は減り、夫は帰らず、義母は離れにいる。この屋敷でいま起きていることを見ている人は一人もいなかった。
しばらくして、わたしは袖で顔を拭いた。それから、便箋を最初から読み直した。二度目は、泣かずに読めた。
『最後に一つ。
この条項は、名義人を守る。だから、名義を手放してはいけない。どんなに丁寧に頼まれても、どんなに気の毒な顔をされても、名義だけは動かすな。名義は、お前の手だ。手を離したら、何も掴めない。
父より』
わたしは手紙を畳んで、封に戻した。それから、しばらく、何もしなかった。燭台の火が、少し傾いていた。芯を切っていないせいだ。マルタに言えばやってくれるが、この時間にはもう休んでいる。
わたしは自分で鋏を取って、芯を切った。火が、まっすぐになった。
三か月前、徴税吏が玄関に来た日から、わたしは紙を集めてきた。
原簿の写し。委任状の写し。帳面の数字。借用証の写し。印紙の控えの証明。婚姻財産契約の原本。土地の履歴。ヨナスの供述書。筆跡鑑定の証明。
九枚。そして、いちばん古い一枚が、いちばん強かった。四年前、婚礼の翌週に、父が書いた紙。
あの晩、わたしは父の口述で夜半までペンを持っていた。何を書いているかは分かっていた。分かっていたが、意味は分かっていなかった。二十三の娘に、七人の女のことは見えない。
父は、それを承知で書かせた。書いた条項は忘れない。忘れなければ、必要なときに思い出す。わたしは、忘れていた。忘れていたが、思い出した。
思い出す前から、わたしは名義を手放さなかった。三度求められて、三度断った。理由は自分でもうまく言えなかった。読んでからにします、としか言えなかった。
いま分かった。あれは、四年前の自分が言わせていたのだ。
わたしは新しい紙を出して、離縁の書面の最後の項を書いた。
『第七項 ミルデン管区東通り四十七番地の家屋および土地は、婚姻財産契約第九条により、登記名義人エルヴィラ・ヴェッセルに確定的に帰属する。』
書き終えて、ペンを置いた。旧姓で書いた。書いてから気づいて、少し驚いた。驚いたが、直さなかった。ペンを置いて、窓を開けた。
夜気が入ってきて、燭台の火が一度大きく揺れた。切ったばかりの芯は、揺れてもすぐまっすぐに戻った。
三か月前、わたしはこの部屋で税の通知を見た。あの日から今日までに増えた紙は九枚。減った使用人は四人。屋敷から出ていった家具は、数えていない。
差し引きすれば、たぶん、損のほうが大きい。それでも、明日わたしは公証人の役場へ書面を出しに行く。損得の話ではないからだ。
父の手紙に、そう書いてあったわけではない。ただ、七人の女の話を読んだあとでは、そう思うようになっていた。わたしは窓を閉め、便箋を封に戻した。
封を文箱にしまうとき、底に何かが当たった。持参金の受領証だった。四年前、この家に八百ルドが入ったときの紙。その裏に、父の字で小さく一行あった。
〈返るべきときに返る〉
いままで一度も、裏を見たことがなかった。父は裏を使わない人だと思っていた。使わないのではなく、使ったときはそこに読ませたいことがあるということだった。
わたしは受領証を表に戻して、文箱を閉じた。留め金の音が、思ったより大きく響いた。
第九条は、四年前にエルヴィラ自身が清書したものでした。書かせたのは父です。理由は「書いた条項は忘れないから」。
父がこの条項を足した理由は、三十年の代書人生活で、同じ形の依頼を七回受けたからでした。七人とも、証書を持ってきたときには、もう遅かった。
エルヴィラは三度、名義を求められて、三度断りました。理由をうまく言えないまま、「読んでからにします」と言い続けました。──四年前の自分が、そう言わせていました。
次話、離縁の日です。エルヴィラは、その場に立ち会いません。




