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夫が三年通った視察先に、私の名で家が建っていました  作者: 朝凪ことは


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第26話:わたしは、なりません

 手紙は、間に合わなかった。


 ミルデンに着いたとき、東通り四十七番地の門の前に、見慣れない馬車が停まっていた。飾りのない、しかし造りのいい馬車だった。法官会の紋がついている。


 わたしは門を開けた。ボンが、庭の真ん中で立っていた。吠えもせず、伏せもせず、扉のほうを見ていた。扉は閉まっていた。わたしは掛け金に手をかけ、そこで一度、止めた。入るべきか。


 前は入った。あのときは、リゼルが一人で夫と向き合っていた。今日は、相手が違う。今日の相手は、言葉で人を動かすことを職業にしている人だった。


 入れば、リゼルは楽になる。楽になるが、この人は「奥様がいらしたから言えた」と、また言うことになる。わたしは手を下ろした。庭の椅子に座って、待つことにした。


 椅子は、木の脚が一本短い。座ると、体が少し左へ傾く。三年ぶん風雨に当たった椅子だった。庭には、こまごまとしたものが増えていた。


 犬小屋。木材の切れ端。ノラの木靴が片方。物置を壊したときに出てきた古い麦の袋は、洗って干してあった。使えるものは使う、というのがこの家のやり方らしい。


 わたしはそういうものを一つずつ見ていた。見ていると、時間が経つ。


 窓の中では、よく通る声が続いていた。何を言っているかは切れぎれにしか聞こえない。ただ、話の調子は分かる。あの人は、いま、いちばん良い部分だけを並べている。


 人を動かす話し方には、順番がある。良いことを先に出し、条件を後に置く。後に置いた条件は、最後まで言わない。三年前、書斎で束を差し出した人も、同じ順番で話していた。


 ──領地の書類だ。ここに署名を。良いことすら言わなかった点では、あちらのほうが雑だったかもしれない。わたしは膝の上で手を組み、庭の隅を見た。壁の線が四本、朝の光の向きで影になっている。


 ボンが寄ってきて、わたしの足元に伏せた。


        


 窓は少し開いていた。声は、切れぎれに聞こえた。


「──ですから、あなたの立場が正式になるということです」


 ヴァイスの声だった。よく通る声は、壁越しでも通る。


「お子さんの身分も定まります。庶子として、伯爵家の記録に載ります。いまは、どこにも載っておられません」


 リゼルの声は、聞こえなかった。


「三年、宙ぶらりんでいらした。それが終わります。──あなたが求めていたのは、そういうことではありませんか」


 沈黙があった。わたしは膝の上で手を組んで、じっとしていた。入るのは簡単だ。入って、「その制度には離縁の申し立て権がありません」と言えば、それで終わる。三十秒で終わる。終わってしまう。


「奥様のご同意は、いただけます」


 ヴァイスはそう言った。わたしは椅子の上で背筋を伸ばした。


「奥様は、たいへん理性的な方です。ご自身の利になることを、正しくご判断なさる。──ご同意は、時間の問題でしょう」


 嘘だ。わたしは五日前に、はっきり断った。この人はそれを聞いている。嘘ではない、と言い張ることもできる言い方だった。「時間の問題でしょう」は、予測であって、事実の主張ではない。


 この人は、嘘をつかない。ただ、そう聞こえるように並べる。わたしは立ち上がりかけて、また座った。まだだ。


        


 しばらく、何も聞こえなかった。それから、リゼルの声が聞こえた。


「ヴァイス様」


 思っていたより、はっきりした声だった。


「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「その第二夫人になりましたら、わたしは、この家から出られますか」


 庭の風が、葡萄棚の葉を鳴らした。


「……出る、と仰いますと」


「やめたくなったときに、やめられますか」


 沈黙。わたしは庭の椅子で、両手を握っていた。


「制度上は、その、申し立ての権利が」


「ありますか」


「……ございません」


「ありませんか」


「第二夫人の側からの解消は、制度に定めがございません」


 リゼルの声は、震えていなかった。


「では、伺い方を変えます。ヴァイス様は、その制度を何度お使いになりましたか」


「……四度」


「四人の方が、いまも、その中にいらっしゃるのですね」


「……三人です。お一人は、亡くなられました」


 わたしは目を閉じた。窓の中で、リゼルがどんな顔をしているのかは分からなかった。


「ヴァイス様。わたしは、なりません」


 彼女は言った。


「……お考え直しを」


「考えました」


「奥様のご同意が得られれば、これは──」


「奥様は、ご同意なさいません」


 リゼルはそこで初めて、少しだけ声を上げた。


「あの方は、籠を三歩動かして、薪の置き場を変えて、窓を開ける時間を教えてくださいました。──出られなくなる場所へ、わたしを入れる方ではありません」


        


 ヴァイスはそれから十分ほどで出てきた。庭の椅子に座っているわたしを見て、彼は足を止めた。


「……いらしていたのですか」


「はい」


「なぜ、お入りにならなかった」


 わたしは立ち上がった。


「わたしが入りますと、あの方が仰ったことが、わたしの言葉になりますので」


 ヴァイスはわたしを見ていた。それから、帽子を取って、短く一礼した。


「……本日は、失礼いたしました」


 彼は馬車に乗り、去っていった。扉が開いて、リゼルが出てきた。わたしを見て、驚いた顔をした。それから、その顔がゆっくり崩れた。


「奥様。いつから」


「一刻ほど前から」


「……ずっと、そこに」


「はい」


 リゼルは門柱に手をついた。膝が笑っている。


「わたし、震えております」


「はい」


「今度は、一人でした」


「はい」


 わたしはうなずいた。


「一人で、仰いました」


 リゼルは両手で顔を覆った。わたしは何も言わずに、その隣に立っていた。葡萄棚の下で、ボンが尻尾を振っていた。庭の壁には、線が四本、入っていた。いちばん上の一本は、まだ新しかった。


「奥様。四本目、入れました」


 リゼルが涙を拭きながら言った。


「先週です。ノラが背伸びをしましたので、二度測り直しました」


「背伸びを」


「はい。線が高いほうがいいそうです」


 わたしは壁に近づいて、四本を順に見た。


 いちばん下は、ほとんど床すれすれにある。二本目までの間隔がいちばん広い。三本目と四本目は近い。四本のあいだに、三年が入っている。


「リゼルさん。この壁は壊しません」


 彼女がこちらを見た。


「北側は壊しました。ここは壊しません。──家をどう直すにしても、この壁だけは残します」


「……ありがとうございます」


「礼を言われることではありません。これは記録ですので」


 言ってから、自分の言い方が可笑しくなった。何でも記録と呼ぶ癖が、この三月でついたらしい。


 けれど実際、そうだった。誰が、いつ、どれだけ育ったか。書いた人がいて、日付があって、消さずに残っている。わたしが集めてきた九枚の紙と、種類は同じだった。リゼルが、線の横に手を当てた。


「奥様。四年前、奥様のお家では、何か測っておられましたか」


 訊かれて、わたしは考えた。


「……父の書斎に、客の背丈の記録がございました」


「客の」


「代書の仕事で来た方の、身丈と手の大きさを控えておりました。字を書けない方に代わって書くとき、後で本人だと確かめるためだそうです」


「それも、記録でございますね」


「そうですね」


 人は、忘れられないように、いろいろなものを残す。


 帰りの乗合を待ちながら、わたしは法官のことを考えた。あの人は先日わたしに断られ、今日リゼルに断られた。二度断られた人間が、次に誰のところへ行くのかを、わたしはまだ知らない。

お読みいただきありがとうございます。


庭の椅子で、エルヴィラは一刻待ちました。入れば三十秒で終わった話です。それでも入らなかった理由を、彼女はこう言いました。「わたしが入りますと、あの方が仰ったことが、わたしの言葉になりますので」。


第18話でリゼルは「名義人の方がいらしたから言えた」と言いました。この回は、その続きです。


そして壁の線は、四本になっていました。


次話、ヨナスの口から、三年の全部が出ます。

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