第25話:第二夫人という、抜け道
離縁の書面を作るのに、五日かかった。書式は決まっている。難しいのは、財産の分け方のほうだった。持参金八百ルドの返還。ミルデンの家屋の帰属。家賃三百四十二ルドの扱い。差押えの対象からの切り分け。
わたしは登記所に三度通い、三番の机で綴りを引いた。テオドール・グレイは、いつものように必要な順に並べ替えて出した。
「離縁の届は、公証人が扱います。ここでは受けられません」
「はい」
「ただ、不動産の帰属を書いた条項は、こちらへ回ります。四年前と同じ道です」
彼は言った。
「──四年前にあなたが清書したものが、こちらの綴りに入っていたおかげで、今回は早く進みます」
わたしはその言葉を胸に置いた。四年前の自分が、四年後の自分を助けている。
あの晩、父の口述で夜半まで書いていたときには、そんなことは考えていなかった。ただ、書けと言われたから書いた。手が痛くなって、途中で一度ペンを持ち替えたのを覚えている。
六日目に、屋敷に客が来た。名刺には、ヴァイスとあった。王都法官会の名が刷ってある。
「離縁の件で伺いました」
白髪を後ろへ撫でつけた、五十がらみの男だった。声がよく通る。言葉の切れ目がはっきりしていて、聞き取りやすい。人前で喋ることに慣れた人の喋り方だった。
「ラングフォード伯爵より、ご相談を受けております」
「どのようなご相談でしょう」
「離縁を回避する方法について」
彼は椅子に座って、卓の上で指を組んだ。
「奥様。古い制度に、第二夫人というものがございます」
わたしは黙っていた。
「王国の北部に、いまも残っております。家の継承のために、正妻のほかにもう一人、身分の低い側室を置くことを認める慣行です。──手続きは煩雑ですが、不可能ではございません」
「それが、どう関わりますか」
「ミルデンの女性を、第二夫人として迎え入れます」
ヴァイスは言い切った。
「そうしますと、あの家に住んでいるのは伯爵家の身内でございます。身内の住む家に伯爵家が金をかけたのは、自然なことになります。私的流用の疑いは、ずいぶん薄まります」
わたしは彼の話を最後まで聞いた。聞きながら、この人が並べている紙の順番を追っていた。この人は、わたしと同じことをしている。順番に並べて、いちばん都合のいい形を作る。違うのは、並べる目的だけだ。
「もう一つ、ございます」
ヴァイスは続けた。
「第二夫人を迎える場合、正妻の同意が要ります。──同意された正妻には、慣行として『鍵の権』が与えられます。家政の一切を握る権利です。伯爵家の財産処分に、奥様の署名が必要になる」
「わたしの立場が、強くなると」
「強くなります。離縁なさるより、ずっと」
彼は微笑んだ。
「離縁なされば、あなたはこの家を出て、持参金を返してもらって、それきりです。同意なされば、あなたはこの家の実権を得ます。ご主人は何もできなくなる。──女性にとって、これ以上の勝ち方はございますまい」
わたしはしばらく黙っていた。わたしが黙っているあいだ、ヴァイスは急かさなかった。この人は、相手が計算する時間を待つことを知っている。
「ヴァイスさん。一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「その第二夫人の制度で、迎えられる側の方には、何が与えられますか」
ヴァイスの表情が、わずかに動いた。
「……と、仰いますと」
「身分です。第二夫人となった方は、伯爵家の何になりますか」
「身内でございます」
「相続は」
「本人には、ございません」
「お子さんは」
「認知があれば、庶子として。ただし、正妻のお子が優先されます」
「認知がなければ」
「何もございません」
わたしはうなずいた。
「では、その方が離縁を望んだときは」
ヴァイスの指が、止まった。
「……第二夫人には、離縁の申し立て権がございません」
「入るときは同意が要るのに、出るときの権利はないのですね」
「制度でございますので」
彼は言った。
「制度は、誰かのために作られております。第二夫人の制度は、家のために作られました。ですから、家に有利にできております」
正直な人だ、と思った。この人は嘘をつかない。ただ、こちらが訊かないことは言わない。
「ヴァイスさん」
「はい」
「わたしがいま伺ったことを、あの方はご存じですか」
「あの方」
「ミルデンの、リゼル・マイヤーさんです」
ヴァイスは少し首をかしげた。
「その方に、何かご説明が要りますか」
「入る側の方ですので」
「入る側の方には、ご説明の義務がございません」
彼は事務的に答えた。
「同意が要るのは、正妻でございます。第二夫人の側は、家が迎えると決めれば、それで」
わたしはその一言を聞いた。三年前の書斎で、夫が「領地の書類だ」とだけ言って束を差し出したときと、同じ形をしていた。中身を説明しないまま、署名を取る。
説明しないことは、嘘をついたことにはならない。この国の紙は、そういうふうにできている。
「ヴァイスさん」
わたしは立ち上がった。
「ご説明、ありがとうございました。よく分かりました」
「ご同意いただけますか」
「いたしません」
「……理由を、伺っても」
わたしは彼を見た。
「わたしが同意いたしますと、あの方は、出られなくなります」
ヴァイスはわずかに眉を上げた。
「奥様。失礼ながら、その方はあなたのご主人の──」
「存じております」
「その方のために、ご自分の権利を捨てられると」
「捨てておりません」
わたしは首を振った。
「わたしは、離縁いたします。持参金は戻り、家は残ります。捨てているものは、一つもございません」
「実権は」
「要りません」
わたしは言った。
「傾いた家の実権をいただいても、返す先の帳面が空でございますので」
ヴァイスが帰ったあと、わたしは紙を一枚出して、彼の話した内容を書き留めた。日付。名前。言われたこと。リゼルに頼んだのと、同じことを、自分でもした。それからもう一枚。
ミルデン宛ての手紙を書いた。
『近日中に、王都から人が伺うかもしれません。第二夫人という話を持ってくるはずです。何も答えず、日付と名前と言われたことだけを書き留めてください。──急ぎ、こちらから参ります』
書いてから、最後の一行を消した。急ぎ参ります、と書くと、あの人は待つ。待って、わたしが着くまで何も言わなくなる。それでは困る。わたしはもう一度書き直した。
『わたしが伺うのを待たなくて構いません。ご自分でお決めください。決めたことは、後でわたしが紙にします』
封をして、マルタに託した。翌朝いちばんの便に乗せてもらうためだった。託してから、しばらく玄関に立っていた。
間に合うかどうかは分からない。あの法官は、五日前にわたしに断られている。断られた翌日に動くのが、あの手の人のやり方だ。
わたしは自分の書いた二行を思い返した。ご自分でお決めください。三か月前のわたしなら、そう書けなかったと思う。書くとしたら「わたしが参りますまで、何も仰らないでください」だ。
守るというのは、たいてい、口を塞ぐ形をしている。
便が出るのは翌朝いちばん。ヴァイスがミルデンへ着くのは、たぶん同じ日の昼になる。半日だけ、こちらが早い。──その半日で、あの人が何と答えるかは、わたしには決められない。
ヴァイス法官は嘘をついていません。彼が言ったことは全部本当です。ただ、訊かれないことは言わない。──「入る側の方には、ご説明の義務がございません」という一言が、この物語のいちばん冷たい台詞かもしれません。
彼が持ってきた話は、エルヴィラにとっては悪くない取引でした。実権を取れます。夫は何もできなくなります。
彼女はそれを断りました。断った理由は「わたしが同意すると、あの方は出られなくなる」でした。
次話、ミルデンへ。今度は法官が先に着いています。
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