第9話 夜なべの燭台を、母が二本に増やした
樺を二本、寝かせた。木型の材は、切ってすぐには使えない。半年から一年、風の通るところに置いて、木の中の水を抜く。抜けきる前に彫ると、あとで反る。反った木型で作った靴は、履いているうちに合わなくなる。
母が取り置いてくれていたのは、三年寝かせたものだった。
「いい材でございます」
「そりゃそうだよ。三年ぶんの場所代がかかってる」
母は白湯を置いて、椅子に座った。座って、わたくしの手元を見た。わたくしは左のぶんから彫っていた。左は普通の足だ。難しくない。難しいのは右で、難しいものは後に回すのが職人の順序だと父が言っていた。
「その人、片方だけ三分足すのかい」
「はい」
「土踏まずから?」
「はい」
「ふうん」
母は白湯を飲んだ。
「うちの人がやってたのは、踵だけ上げるやり方だったよ」
「爪先が下がりませんか」
「下がるよ。だからあの人も、途中でやめた」
わたくしは手を止めた。
「お父様も、なさっていたのですか」
「昔ね」
「どなたの足を」
「傷痍の兵さんだよ」
「兵」
「戦から帰って、片方が短くなった人が何人もいた。うちの人は、そういうのを安く受けてた」
「安く」
「ただみたいな値でね。だから御用達を取っても、うちは楽にならなかった」
母は湯呑みの縁を指でなぞった。
「あの人が言ってたよ。『歩けない人を歩かせる靴は、値のつけようがない』ってさ」
「……」
「格好いいだろ。うちは冬に薪が買えなかったけどね」
母は湯呑みを置いた。
◇
その晩、母が奥から木の箱を出してきた。両手で抱えるくらいの箱で、蓋に金具がついている。金具は錆びていた。長いこと開けていない錆び方だった。
「あんたの父さんの道具箱だ」
わたくしは手を拭いてから受け取った。開けると、匂いがした。油と、金気と、革の匂い。六年どころではない、二十年ぶんの匂いだった。
革包丁が三本。細いものから順に並んでいる。刃は錆びていない。誰かが油を引き続けていた。
「切れなくなったら研げ」
「お母様が、油を」
「言ってないよ、そんなこと」
母は立ち上がって、竈のほうへ行った。行っただけで、何もしなかった。わたくしは一番細い包丁を取った。
柄が減っていた。親指の当たるところが、なだらかに凹んでいる。父の親指の形だ。握ってみると、わたくしの親指はその凹みより少し小さかった。
◇
箱の底に、紙が一枚あった。畳んで敷いてあった。道具の下に敷く紙は、油を吸わせるための古紙を使う。だから普通は、なんでもいい紙だ。
なんでもいい紙ではなかった。王家の紋章が刷ってある。
——王室御用達 靴工 ヨナス・ハルトマン
日付は、二十一年前の秋だった。
「お母様」
「なんだい」
「お父様は、御用達でいらしたのですか」
母は竈のところで背中を向けたままだった。
「一年だけね」
「一年」
「翌年、取り上げられた」
「なぜでございますか」
母は竈の火を掻いた。掻く必要のない火だった。
「聞くんじゃないよ」
「はい」
「まだ聞くんじゃない」
まだ、と母は言った。
わたくしはその紙を、元のとおりに畳んで、道具の下へ戻した。油を吸わせる紙として。二十年、そうしてあったのだから、そうしておくのが正しい気がした。
◇
彫りながら、二十一年前のことを考えていた。そのとき、わたくしは六つだった。覚えているのは、店に人が多かったことだけだ。誰かが樽を開けて、母が笑っていた。母が笑っているところを、わたくしはそれ以来あまり見ていない。
翌年、父が死んだ。その順序を、いま初めて数え直した。
御用達を取ったのが、二十一年前の秋。取り上げられたのが、その翌年。父が死んだのが——わたくしは手を止めた。
二十年前だ。
取り上げられた年と、父が死んだ年が、同じだった。
偶然かもしれない。二十年前のことだ。順序が近いというだけで、繋がっているとは限らない。わたくしは彫刻刀を持ち直して、また削りはじめた。削りながら、その二つの年を、もう一度、指で数え直した。
◇
夜になって、母が燭台に火を入れた。
二本だった。
この店の夜なべは、昔から一本と決まっていた。蝋は高い。一本で足りるように、作業台の位置も窓の位置も決めてある。母は二本目を、作業台の右の端に置いた。わたくしの手元ではなく、自分の手元に。
「お母様」
「なんだい」
「二本」
「暗いだろ」
「……はい」
わたくしはそれ以上言わなかった。
母は縫っていた。ハンスさんの二足目だ。この人は縫いは速い。裁ちも正確だ。だが、さっきから針の穴を探すのに、いちいち手を止めている。
◇
右のぶんを彫り始めたのは、真夜中だった。
三分。
紙の上では三分だが、木の上では三分ではない。土踏まずのどこから持ち上げるか、踵のどこで受けるかで、同じ三分がまったく違う三分になる。わたくしは粗く落として、掌で撫でた。まだ厚い。落として、撫でる。まだ厚い。
彫るというより、削らないところを決める作業だった。
木型は、足より小さく作ってはいけない。大きく作ってもいけない。足そのものの形でもいけない。人の足は歩くたびに伸びて、縮んで、また伸びる。その動きぶんの余裕を、どこに、どれだけ残すか。それを決めるのが木型を彫るということだ。
余裕を残しすぎると靴が泳ぐ。残さなすぎると当たる。この方の右足には、余裕をほとんど残せない。骨のねじれている場所には、逃げ場がないからだ。逃げ場を作ると、そこへ足が落ちる。
だから、当たらない形を作るのではなく、当たっても痛くない角度を作るしかない。三度は直します、と申し上げた。三度で済むとは思っていない。
六年、この家の誰にも見せずに彫ってきた。無署名で。侯爵家の棚の中で、誰の名前も持たずに。この木型には、名前を打つのだろうか。
考えて、まだ早いと思った。まずは合わせてからだ。三度は直す。三度で済めばいいほうだ。わたくしは内側へ手を入れて、指の腹で撫でた。
癖だった。六年の癖だ。内側は誰にも見えない。だから、そこには何を彫ってもいい。彫刻刀の先を当てて、少し考えた。
それから、彫った。
「なにを彫ってるんだい」
母の声がした。
顔を上げると、母は針を持ったまま、こちらを見ていた。見ていたけれど、目はわたくしの手元より少し下にあった。
「なんでもございません」
「そう」
母はまた縫いはじめた。しばらくして、糸を通す音が止まった。
「リディア」
「はい」
「これ、通しておくれ」
母は針と糸を差し出した。差し出した先が、わたくしの手より少し右だった。
「はい」
わたくしは受け取って、通して、返した。
「ありがとうよ」
母はそれきり黙って縫った。縫い目はまっすぐだった。まっすぐだったので、わたくしはそれ以上聞かなかった。燭台は二本のままだった。母は何も言わなかったし、わたくしも聞かなかった。
【今日の一足】三年寝かせた樺を二本。——木は、切ってすぐには使えません。水が抜けるまで待ちます。
木型の材を数年寝かせるのは本当のことで、乾ききっていない木で作ると、あとから反ります。待つ時間そのものが値段に入っている道具、というのは職人の世界にわりとあります。
王城の大階段は、三十八段あります。




