第10話 大階段を、その人は自分の足で上がった
仮合わせは、三度で足りなかった。一度目、右の内側が当たった。二度目、当たらなくなった代わりに踵が浮いた。三度目で浮きは止まったが、今度は爪先が引っかかった。三分持ち上げると、その足は前より高いところを通る。高いところを通る足は、床にぶつかる。
四度目に、爪先の返りを深くした。五度目は、直すところがなかった。
五度、この方は革通りへ来た。一度目は馬車から椅子を降ろさせ、二度目からは降ろさせなかった。四度目には従者を外で待たせた。五度目には、一人で馬車を降りて、一人で戸口まで歩いてきた。
わたくしはそのあいだ、一度もそのことに触れなかった。触れると、たいてい人はまた掴まる。
「歩いてみてくださいませ」
店の中を、戸口まで十一歩。その方は八歩で着いた。
八歩目のところで止まって、そのまま動かなくなった。従者が椅子を出そうとして、手を止めた。
「……閣下」
「黙っていろ」
それから、その方はもう一度、戸口から作業台まで歩いた。今度は数えていなかったので、何歩かわからない。
「ハルトマン」
「はい」
「右が、地面に着いている」
「はい」
「六年、着いていなかった」
「はい」
わたくしは巻き尺を巻いた。巻き終わったので、もう一度ほどいて、また巻いた。
◇
叙勲の式典は、五日後だった。当日、職人は控えることがある。革は動く。朝と昼で人の足も変わる。当たりが出たら、その場で削る。
王城の使用人口から入って、大階段の脇の踊り場で待っていた。道具箱と、やすりと、当て革を三枚。王城の大階段は、三十八段ある。
踏み面が広く、蹴上げが低い。ゆっくり上がるための階段だ。位のある者は、この階段を上がるところを人に見せる。だから、この階段の下には人が集まる。
馬車が着いたのは、鐘が二つ鳴ったあとだった。従者が二人、扉の脇に立った。椅子は降ろされなかった。
その方は、一人で降りた。
◇
一段目。
右足が段に乗って、体重が乗って、抜けなかった。
二段目。
三段目。
わたくしは踊り場の柱の陰から見ていた。手すりは触っていない。触っていないのに、間が空かない。
六年、この方は左足で跳んで、右足で受け止めていた。跳ぶには反動が要る。反動を作るには、いったん止まる。だからこの方の歩き方には、二歩に一度、小さな間があった。
その間が、なかった。
十段。
下でざわめきが起きた。誰かが誰かの袖を引いている。
二十段。
この階段はゆっくり上がるための階段だ。だから、ゆっくり上がる人は目立たない。目立つのは、止まらない人だ。
三十段。
その方は一度も手すりに触らなかった。
三十八段目で、上がりきった。
上がりきったところで、その方は一度だけ止まった。止まって、右足を見た。
踊り場からは横顔が見えた。驚いた顔ではなかった。確かめる顔だった。三十八段のあいだ、ずっと数えていた人の顔だった。それから、振り返らずに大広間の扉のほうへ歩いていった。
わたくしは柱の陰で、道具箱を膝に抱えたまま座っていた。やすりも当て革も、一度も出さなかった。
◇
式典のあいだ、踊り場には人が通った。侍従、書記、下働き。そのうちの何人かが柱の陰の道具箱を見て、それから、わたくしを見た。
「靴屋か」
一人がそう聞いた。
「はい」
「どこの」
「革通りのハルトマンでございます」
「革通り」
その人は少し眉を上げて、それから何も言わずに行った。半刻ほどして、別の人が来た。
「ハルトマンといったか」
「はい」
「アーレンス閣下のお靴を作ったのは、あんたか」
「はい」
「王城の会計方だ。……あの階段を、あの速さで上がられた」
「はい」
「ここ六年、あの方は使用人口からお入りだった」
わたくしは道具箱を膝の上に置き直した。
「大階段は、人に見せるための階段でございますので」
「そうだ」
「使用人口には、見る人がおりません」
会計方の人は、しばらく黙っていた。それから上着の内から小さな帳面を出して、何か書き付けた。
◇
式典が終わって、その方が踊り場まで降りてきたのは、三刻あとだった。
「ハルトマン」
「はい」
「まだいたのか」
「当たりが出るとしたら、三刻立ったあとでございますので」
「出なかった」
「よろしゅうございました」
その方は踊り場の窓枠に手をついた。ついてから、その手を見て、離した。癖だ。癖はまだ抜けていない。
「一つ、いいか」
「はい」
「あんた、この足を見たとき、何か気づいただろう」
わたくしは道具箱の留め具に手をかけた。かけて、外さなかった。
「気づきませんでした」
「嘘だな」
「はい」
「言え」
窓の外で、鐘が鳴った。
「骨は、十日では付きません」
「そうだろうな」
「ご存じでいらっしゃいましたか」
「知っていた」
その方は窓の外を見た。
「北が保たなかったのは本当だ。俺が歩かないと兵が動かない。だから起きた。それは俺が決めた」
「はい」
「だが」
その方は一度、言葉を切った。
「起きる前に、一度、誰かが足を触った」
「……」
「寝ていたから、顔は見ていない。痛みで目が覚めて、また眠った。翌朝、軍医が『固まりかけていたので直した』と言った」
わたくしは、六年前に固まった骨のねじれ方を思い出していた。内へ、ねじれるように。あれは、自然にずれた形ではない。
「軍医は、その後」
「戦死した」
その方は窓枠から手を離した。
「この接ぎ方は、軍医の腕ではない。あんたもそう思ったんだろう」
「わたくしは靴屋でございます」
「そうだったな」
その方は少し笑った。この人が笑うのを見たのは、初めてだった。
◇
帰りは歩いて戻ることにした。王城の外庭を抜けて、坂を下りる。この坂をハンスさんは毎日、下りで走る。
門を出るところで、馬車が一台、追い越していった。紋章に見覚えがあった。
ヴェルデン侯爵家の馬車が、王城から出ていくところだった。式典に呼ばれていたのなら、こんな時刻に出ない。式典が終わって三刻。宴が始まっている時刻だ。
馬車の窓は、締め切ってあった。
◇
坂を半分ほど下りたところで、後ろから足音がした。
「靴屋さん!」
ハンスさんだった。鞄を右肩に掛けて、下りを走っている。
「探したよ」
「どうかなさいましたか」
「これ」
ハンスさんは鞄から紙の束を出した。折り目のついた紙が、七つか八つ。
「今朝から店に持ち込まれたやつ。おかみさんが受け取って、俺に預けた」
わたくしは受け取った。注文だった。全部、注文だった。
「北の坂の宿屋のおやじが二人連れてきて、そのあと荷揚げの兄ちゃんが三人、それから」
「ハンスさん」
「うん」
「走らないでくださいませ」
「え」
「下りは、歩いてください。そう申し上げました」
ハンスさんは笑って、帽子を取って、それから被り直した。わたくしは紙の束を数えた。八つあった。
八つのうち二つに、王城の紋章の透かしが入っていた。
【今日の一足】三十八段。手すりに触れず、二歩に一度の間もなく。——歩ける足は、止まりません。
王城の大階段のような「ゆっくり上がるための階段」は実在します。踏み面を広く、蹴上げを低く作る。威儀を正して上がるための寸法で、裏を返せば、そこを速く上がれない人がいることを前提にしていない寸法でもあります。
注文の紙が、扉の下から入りきらなくなります。
ここまでで第一章が終わりました。ブックマークと評価は、やすりの目立て代に充てさせていただきます。やすりは減るのではなく、目が寝るのです。




