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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第11話 注文の紙が、扉の下から入りきらない

第二章「注文が来る」がはじまります。

 翌朝、扉の下に紙が挟まっていた。一枚ではなかった。厚みで扉が浮いていて、押しても開かない。外へ回って、しゃがんで、下から順に抜いた。


 十九あった。昨日ハンスさんが持ってきた八つと合わせて、二十七。


「リディア」


 母が奥から出てきた。


「なんだいこれは」


「注文でございます」


「二十七も?」


「二十七でございます」


 母は一番上の一枚を取って、顔の前へ持ってきた。持ってきてから、もう少し近づけた。


「……字が汚いね」


「はい」


「読めるかい」


「読めます」


 わたくしは受け取って、読み上げた。北の坂の宿屋、ヴィンター。足の裏が朝いちばん痛い。三年前から。


「宿屋のおやじだね」


「はい」


「ハンスの口だ」


「はい」


 母は紙を返した。返すとき、紙の端をわたくしの手より少し右へ差し出した。


    ◇


 昼前に、大きな影が扉をふさいだ。


「邪魔するよ」


 ケルナー靴店のヴィルフリート親方だった。前掛けをしたまま来ていた。王都の一番大きな店の親方が、革通りに前掛けで立っている。


「お茶を」


「いらん。すぐ帰る」


 親方は帽子を脱いで、それから被り直した。ハンスさんと同じ癖をしている。この通りの男は、みんな帽子を触る。


「一つ、頼みがある」


「はい」


「うちで受けきれん客を、こっちへ回していいか」


 わたくしは巻き尺を置いた。


「うちは、二人でございます」


「知ってる」


「一日に三人までしか測れません」


「知ってる」


「では、なぜでございますか」


 親方は前掛けの端を握った。この人は言いにくいことを言う前に、必ずそこを握る。


「うちにも、直せん足が来る」


「……」


「先月、外反の強いご隠居が来た。うちの型で三足作って、三足とも返された。四足目を作る前に、あんたのところの噂が来た」


「噂」


「アーレンス閣下だ。王城の大階段を上がられた話は、もう三日前から出回ってる」


 母が奥で革包丁の背を一回叩いた。


「一つ、うかがってもよろしいでしょうか」


「なんだ」


「その方は、いくらお払いになりましたか。三足ぶん」


「取ってない」


「三足とも」


「合わん靴の代金は取らん。うちはそういう店だ」


 わたくしは頭を下げた。深く下げた。


「では、お回しくださいませ」


「いいのか」


「そういうお店から回っていらっしゃる客なら、うちで測る値打ちがございます」


 親方は帽子を被って、それから棚のほうを見た。麻布に包まれた足の形が、三段に並んでいる。


「あれか」


「はい」


「四十七」


「四十七でございます」


 親方は近づいて、一つを手に取った。持ち上げて、掌で重さを量って、それから戻した。


「あんた、これを毎年直してたのか」


「はい」


「一年に一度か」


「多い方で、年に四度でございます」


「四度」


 親方は自分の手を見た。裁ち手の手だ。指の節が太くて、爪が短い。


「うちは客が二百ある。木型は棚に八百ある。年に一度、全部の埃を払うだけで十日かかる」


「はい」


「直すのは、客が言ってきたときだけだ」


「はい」


「あんたのところは、客が言う前に直してたわけだ」


 わたくしは答えなかった。


「……そりゃ、噂にもなる」


    ◇


 親方が帰ってから、母が紙を数え直した。一枚ずつ数える。数えながら、いちいち顔に近づける。


「二十七」


「はい」


「三人までなら、九日かかる」


「はい」


「九日待たせるのかい」


 わたくしは紙を並べた。作業台の上に、二十七。


「順を決めます」


「早い者順だろ」


「いいえ」


 わたくしは一枚ずつ読み返した。


「朝いちばんに痛い方が三人。歩けるけれど夜に腫れる方が七人。今のところ痛くないけれど、このままだと痛くなる方が十四人。それから」


「それから?」


「一人、字が書けていらっしゃいません」


 その一枚は、鉛筆の線だった。字ではなかった。足の形をなぞって、痛いところに丸をつけてある。丸は五つあった。


「明日、この方から測ります」


「一番遠いよ、その人。西の門の外だ」


「はい」


「行くのかい」


「はい」


 母は数え終えた紙を揃えて、重石を載せた。


「あんたの父さんと同じだね」


「そうでございますか」


「あの人も、書けない客から先に測った」


    ◇


 夕方、王城から使いが来た。今度は走っていなかった。ゆっくり歩いてきて、扉の前で身なりを整えてから叩いた。


「王城会計方より、照会でございます」


「照会」


「ハルトマン靴店の登録職人は、どなたでございましょう」


 わたくしは巻き尺を置いた。母が奥から出てきて、答えた。


「マーレン・ハルトマン。あたし一人だよ」


「ご息女は」


「登録がない」


 使いの人は帳面に何か書いた。


「では、アーレンス閣下のお靴は、マーレン様がお作りになったということで」


「違うよ」


 母の声は、いつもと同じ調子だった。


「あれは娘が作った。娘の名前で書きな」


「登録のない者の名は、書けません」


「じゃあ書かなくていい」


 使いの人は帳面を閉じた。閉じてから、少し困った顔をした。


「……あの、失礼ですが」


「なんだい」


「王城は、登録のない職人には発注ができません」


 わたくしは、二十七枚の紙の重石を見ていた。


「そうでございますか」


「はい」


「ご丁寧に、ありがとうございます」


 使いの人は帰っていった。


    ◇


 母は竈のほうを向いていた。


「お母様」


「なんだい」


「なぜ、わたくしの名で書けとおっしゃいましたか」


「あんたが作ったからだよ」


「あれは、書けないとわかっているお答えでございました」


「わかってたよ」


 母は鍋の蓋を取って、また戻した。


「でもね、リディア」


「はい」


「あたしが『あたしが作った』って言ったら、あんたの六年はどこにも残らない」


「……」


「侯爵家がやったのと、同じことになる」


 わたくしは二十七枚の重石を見ていた。


「籍を、取り戻します」


「そうしな」


「来月十日でございます」


「知ってるよ」


 母は木杓子を鍋に入れた。


「その日まで、あんたは彫りな。あたしが帳面をつける」


    ◇


 それから九日、わたくしは彫った。朝は三人。昼に一人。夕方から夜半まで粗彫り。夜半から明け方まで仕上げ。眠るのは明け方から朝までの二刻だった。


 九日で二十七人。木型にすれば五十四。左右あるからだ。母は帳面をつけた。名前。住まい。痛いところ。直した日。母の字は大きい。大きいので一頁に三人しか入らない。頁はすぐに増えた。


 増えた頁を、母は毎晩数えた。


    ◇


 その晩、母は二十七枚を一枚ずつ書き写していた。うちには台帳がない。父の代の台帳は、二十年前に途切れている。だから母は、新しい帳面を一冊出してきて、名前と、住まいと、痛いところを写している。


「お母様」


「なんだい」


「わたくしが書きます」


「あんたは彫りな」


 母は顔を上げなかった。


 わたくしは彫りに戻って、しばらくしてから、もう一度見た。母は紙を一枚持って、目の前まで持ってきていた。持ってきて、少し傾けて、それから燭台のほうへ寄った。


 字が小さいのだろう、とわたくしは思った。

【今日の一足】鉛筆で足の形をなぞって、痛いところに丸が五つ。——字が書けなくても、足は書けます。


 昔の靴屋には「痛みの順に測る」という考え方があったそうです。早い者順は公平ですが、公平と親切は同じものではありません。うちの母がどちらを選ぶ人かは、この先で出てきます。


 王家の名簿から、ヴェルデン侯爵家の名前が一つ消えます。

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