第12話 王家の式典警護から、ヴェルデン家の名が消えた
西の門の外まで、歩いて一刻半かかった。道具箱と、腰掛けと、巻き尺。荷車を借りようかと母が言ったけれど、断った。荷車を引いていくと、こちらが偉い人みたいに見える。
教わった家は、川べりの並びの三軒目だった。
「ハルトマン靴店でございます」
出てきたのは五十くらいの女の人で、手が濡れていた。洗い場から出てきたらしい。
「うちは、注文なんて」
「お出しくださいました。この紙でございます」
わたくしは鉛筆の線を見せた。足の形をなぞって、丸が五つ。女の人はそれを見て、しばらく黙っていた。
「……娘が書いたんです」
「そうでございましたか」
「勝手に出したんですよ。うちにそんな金は」
「お代の話は、測ってからでございます」
◇
その人の足は、外へ広がっていた。親指の付け根が外へ出て、小指の付け根も外へ出ている。指が五本とも、扇のように開いていた。丸のついていた場所は、その五つの付け根だった。
「洗い場でございますか」
「二十六年」
「石の床に、素足で」
「靴なんて、濡れるでしょう」
「はい」
「濡れたら乾かさないと。乾かす間、履くものがない」
わたくしは踵を持って、上へ持ち上げた。持ち上がらなかった。
「痛みますか」
「痛いのは、朝だけ」
「朝、床に足を着けたときに」
「そう」
「起き上がる前に、指を五回だけ握ってから床に着けてくださいませ。それだけで少し違います」
女の人は、初めてこちらを見た。
「それ、金取るの」
「取りません」
◇
木型は、二つ要ると申し上げた。
「二つ」
「濡れる日の靴と、乾いた日の靴でございます。同じ木型で作りますと、濡れた革が広がって、乾いた日には泳ぎます」
「二つも買えませんよ」
「木型は一つでけっこうでございます。革を二枚、厚さを変えて」
わたくしは紙に線を引いた。
「値は、修理のお代の三度ぶんくらいでございます。月ごとにお納めいただいて構いません」
「……そんな商売、成り立つの」
「成り立っておりません」
女の人は少し笑った。笑ってから、洗い場のほうを見た。
「娘に、なんて言えばいいのかしら」
「よく気づかれましたね、と」
帰り支度をしているとき、奥から子どもが出てきた。十二か十三くらいの娘だった。手に紙の束を持っている。使い古しの紙を四角く切って、束ねたものだ。
「あなたが書いたのですか」
娘は頷いた。
「字は書けますか」
「書けます。少しだけ」
「では、なぜ絵に」
「痛いところの名前を知らないから」
わたくしはその子の前にしゃがんだ。
「教えましょうか」
「え」
「ここが親指の付け根。ここが土踏まず。ここが踵の内。ここが小指の付け根」
娘は自分の足を見下ろして、順に指で押していた。
「覚えました」
「よろしゅうございます」
「あの」
「はい」
「うち、お金ないです」
「存じております」
「でも、書きました」
わたくしは道具箱を閉じた。
「あなたのお母様の足は、二十六年ぶん働いた足でございます。うちは、そういう足を測る店でございますので」
◇
帰り道、坂の途中でハンスさんに会った。下りを、歩いていた。
「靴屋さん」
「お歩きでございますね」
「言われたからな」
ハンスさんは鞄を持ち直した。
「それより、聞いたかい」
「何をでございますか」
「秋の式典な。警護の家の名簿が張り出された」
「はい」
「ヴェルデン侯爵家がない」
わたくしは道具箱を持ち替えた。
秋の式典は、王家の年に一度の大きな儀だ。警護の任は、家の格で決まる。決まった家は、当日、王城の各門に一族の者を立たせる。立たせる、というのは比喩ではない。三刻、門の脇に立ち続ける。
「六代続けて入ってた家だってさ」
「はい」
「理由は『健康上のご都合により』だと」
「そうでございますか」
「靴屋さん」
「はい」
「あんた、なんとも思わないのかい」
わたくしは坂の下を見た。革通りの屋根が並んでいる。
「思います」
「そうかい」
「けれど、思うことと、することは別でございますので」
ハンスさんは何か言いかけて、やめた。それから、坂を歩いて下りていった。
◇
王城の下まで回って、掲示を見た。石の壁に、大きな紙が貼ってある。秋の式典、警護担当の家名。上から順に十二家。
六番目にヴェルデンの名があるはずだった。
なかった。
五番目と七番目のあいだが詰まっていた。詰めて書いたのではない。書き直したのだ。紙の目がそこだけ荒れている。一度書いたものを削って、上から新しく引き直してある。
誰かが消した。
わたくしは掲示の前にしばらく立っていた。人が何人か来て、上から順に読んで、行った。誰も、そこに何かが「なかった」ことには気づかない。わたくしは気づいた。六年、あの家の紋章を見て暮らしたからだ。
名簿は毎年、同じ場所に貼られる。去年の名簿も一昨年の名簿も、わたくしは屋敷でその写しを見ていた。写しは書斎の壁に掛かっていた。お義父様はそれを客に見せた。六代でございます、と言って。
六代というのは百二十年ほどだ。百二十年かけて積んだものが、紙一枚の書き直しで消える。消したのは誰でもない。誰も何もしていない。ただ、三刻立てなくなっただけだ。
◇
工房に戻ると、母が二十七枚の帳面を閉じるところだった。
「西の人は」
「木型を一つ、革を二枚で」
「値は」
「三度ぶんの月払いで」
「そうかい」
母はそれ以上聞かなかった。父の代からそういう店だったのだろう、と思う。だから御用達を取っても薪が買えなかったのだ。
「お母様」
「なんだい」
「ヴェルデン家が、秋の式典の警護から外れたそうでございます」
母は帳面を棚に置いた。
「へえ」
「六代続いていたそうでございます」
「そうかい」
母は竈のほうへ行って、鍋の蓋を取った。取ってから、蓋を持ったまま立っていた。
「リディア」
「はい」
「あんた、あの家に何かしたかい」
「いいえ」
「何もしてないね」
「はい。何も」
「そうだろうね」
母は蓋を戻した。
「だから、こわいんだよ」
◇
その晩、ギルドから封書が来た。蝋の印が押してあった。ティルさんの持ってきた台帳より、ずっと立派な紙だ。
——ハルトマン靴店 職人籍照会の件につき、来月十日、当ギルド本部にて査問を行う。
——なお、当日は貴殿の技量を確認する。
その下に、もう一行あった。
——併せて、二十年前の当ギルド承認外借財につき、事実を確認する。
わたくしは封書を作業台に置いた。母は覗き込まなかった。覗き込まずに、鍋を掻き混ぜていた。
「来月十日でございます」
「そうかい」
「二十七枚を、それまでに終わらせます」
「終わるかい」
「終わらせます」
母は木杓子を置いた。
「リディア」
「はい」
「二十年前の話は、あたしが出る」
「お母様」
「あんたは腕を見せな。年寄りの話は年寄りがする」
母は鍋を火から下ろした。下ろすとき、取っ手の位置を手で探していた。探してから、掴んだ。
【今日の一足】二十六年、石の床に素足。指が五本とも扇のように開いている。——起きる前に、指を五回。
外反も扁平も、靴のせいだけではなく、その人が立ってきた床のせいでもあります。床は選べないことが多いので、靴のほうを合わせます。
客がひとり増えます。思いがけない方です。




