第13話 浮気相手が、客として寸法を測りに来た
その朝の三人目が、その方だった。馬車は通りの角に停めてあった。革通りまで入ってこなかったのは、道が狭いからではないと思う。
供の者を外に待たせて、一人で入ってきた。
「ロートリング家の、セシリアと申します」
名乗った。名乗る必要はなかった。うちは町の靴屋で、客は名前より足で覚える。それに、わたくしはこの方を知っていた。
「承知しております」
「……ご存じですか」
「夏の舞踏会で、お見かけいたしました」
その方の指が、扇の柄のところで止まった。
「わたくしは控えの間におりましたので、失礼にあたるかもしれません」
「いいえ」
「お掛けくださいませ」
◇
わたくしは低い腰掛けを出して、いつもの位置に置いた。母は奥にいた。出てこなかった。裁つ音も止まっていたので、聞いてはいたのだと思う。
「靴を、お脱ぎいただけますか」
その方は靴を脱いだ。脱ぐのに、少し手間取っていた。踵が深い形の靴だ。指を差し込まないと脱げない。
足を見た。見て、少しのあいだ、何も言わなかった。
指が、五本とも縮んでいた。
人の指は、まっすぐ伸びているのが普通だ。この方の指は、第一関節から先が下へ曲がって、爪の先が床を掴む形になっている。爪先で身体を支え続けると、こうなる。踵には、ほとんど体重が乗っていない。踵の皮が薄い。使っていないからだ。
「お履きになっている靴は、これでよろしゅうございますか」
「はい」
わたくしは脱いだ靴を手に取って、裏返した。踵が高い。四分ほど上げてある。それだけならよくある仕立てだが、この靴は爪先の内側が異様に狭かった。細く見せるために、指を寄せて入れる作りだ。
「何年、お履きでございますか」
「……四年です」
「同じ形でございますか」
「同じ形です」
「毎日」
「毎日」
わたくしは靴を置いた。
「あなたは、いつも爪先で立っておいでですね」
その方は答えなかった。
◇
背伸びの跡、と職人は呼ぶ。合わない靴を長く履いた足には、その靴の形が残る。狭い靴なら指が寄る。高い靴なら指が曲がる。硬い靴なら皮が厚くなる。足は文句を言わない。かわりに形を変える。
変わった形は、たいてい戻らない。だからわたくしたちは、これ以上変わらないようにする道具を作る。治す仕事ではない。止める仕事だ。父はそれを「間に合わせ」と呼んでいた。悪い意味ではなかったと思う。間に合えばいいのだ。
この方の足は、まだ間に合う。四年で済んでいる。十年だったら止まらなかった。
◇
「押しますので、痛かったらおっしゃってくださいませ」
わたくしは親指で足の裏を押した。踵、土踏まず、指の付け根。二つ目で、その方の膝が動いた。
「ここでございますね」
「……はい」
「いつからでございますか」
「二年くらい」
「二年、我慢なさったんですか」
「痛いって言うと、履くなって言われますから」
わたくしは押すのをやめた。やめてから、足の甲に手を置いた。温かかった。この方の足は冷えていない。冷えていないということは、体重が乗っているということだ。乗りすぎているのだ。
「どなたに」
「え」
「履くなとおっしゃったのは、どなたでございますか」
その方は答えなかった。答えないほうが答えになる場合がある。それも六年で覚えたことだ。
それを聞いて、わたくしは手を止めた。止めてから、また押した。押すのが仕事だ。
「わたし、背が足りなくて」
その方は天井を見ていた。
「姉が高いんです。母も。わたしだけ、三寸足りないんです。並ぶと、わたしだけ低いんです」
「はい」
「だから、四分上げてるんです。四分上げると、三寸のうち、少しは」
「一寸にはなりません」
「なりません」
わたくしは巻き尺を巻いた。
「四分は、あなたのお身体では高すぎます」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「二分でございます」
「二分」
「二分なら、指に体重が逃げません。踵で立てます」
「二分じゃ、足りません」
「足ります」
わたくしは腰掛けから立ち上がって、その方の前に紙を置いた。
「立ったときの背丈は、踵の高さでは決まりません。背筋と、膝と、首の位置で決まります。爪先で立っておいでの方は、必ず膝が曲がります。膝が曲がると、四分上げても、二分ぶんしか高くなりません」
その方はしばらく紙を見ていた。
「……それ、誰にも言われませんでした」
「靴屋しか見ないところでございますので」
◇
木型は、両方お作りすると申し上げた。
「両方」
「左右で、二分違います。左が長うございます」
「じゃあ、いままでの靴は」
「右に合わせて作られております」
「……左は」
「四年、押し込んでおられました」
その方は自分の左足を見た。見て、指を一度、握った。握ろうとして、途中で止まった。曲がったまま固まっている指は、それ以上曲がらない。
「治りますか」
「元には戻りません」
「そうですか」
「けれど、これ以上は曲がりません。それは、お約束できます」
◇
支度をして、その方は帰ろうとした。扉のところで、一度止まった。
「あの」
「はい」
「一つだけ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、わたしが誰か、ご存じなんですよね」
わたくしは巻き尺を作業台に置いた。
「存じております」
「怒らないんですか」
「お代はいただきます」
その方は少し笑った。笑ってから、口の端が下がった。
「あの方、最近よく転ぶんです」
わたくしは顔を上げた。
「どちらの方でございますか」
「言いません」
「はい」
「言いませんけど、転ぶんです。屋敷の中で。段でもないところで」
その方は扉の枠に手をかけた。
「わたし、最初は面白かったんです」
「はい」
「いまは、あんまり面白くありません」
そう言って、出ていった。
◇
母が奥から出てきた。湯呑みを二つ持っていた。一つをわたくしの前に置いて、一つを自分の前に置いた。
「聞いてたよ」
「はい」
「二分にしなって言ったね」
「はい」
「四分のままで作りゃ、あの子はまた来る。二年でまた壊れるから」
「はい」
「二分で作ったら、当分来ないよ」
わたくしは白湯を飲んだ。
「そのほうが、よろしゅうございます」
母は湯呑みを両手で持って、しばらく黙っていた。
「あんたのそういうところは、父さんだね」
「そうでございますか」
「金にならないところがね」
母は湯呑みを置いた。置いた場所が、いつもより手前だった。窓の外で、馬車が通りの角を曲がっていく音がした。
段でもないところで転ぶ人のことを、わたくしはしばらく考えていた。
◇
その晩、二分の踵を彫った。四分の踵は木型の後ろを高く彫る。二分はその半分だ。半分にするだけなら簡単に思えるが、そうではない。高さを落とすと足が前へ滑らなくなる。滑らなくなると指の置き場所が変わる。指の置き場所が変わると、また全部が変わる。
結局、はじめから彫り直した。
【今日の一足】指が五本とも下へ曲がり、踵の皮が薄い。——爪先で立ち続けると、身長は伸びません。
踵を上げても背が高く見えないことがあるのは本当で、膝が曲がるとその分を食われます。見た目のために身体を歪ませる道具は、たいてい見た目にも効きません。
元の旦那様が、買い物にいらっしゃいます。
ブックマークと評価は、革の鞣し代に充てさせていただきます。革通りの匂いの正体は、だいたいこれです。




