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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第14話 「木型を売ってくれ」と、元夫は言った

 六日目の夕方だった。二十七枚のうち、十九枚が済んでいた。残り八枚。あと三日で終わる。ギルドの査問までは、まだ日がある。


 その日の最後の客を送り出して、扉を閉めようとしたときに、外から押された。


「まだ開いているか」


 エルマー様だった。


    ◇


 一人で来ていた。従者も、馬車もない。歩いてきたらしく、外套の裾に埃がついていた。


「お掛けくださいませ」


「いい」


 その方は立ったままだった。わたくしは腰掛けを出しかけた手を止めて、作業台の前に立った。母は奥にいる。裁つ音がしていた。


「用件を言う」


「はい」


「木型を売ってくれ」


 わたくしは巻き尺を置いた。


「四つでいい。父上と、母上と、ヨハンナと、俺だ。他の四十三はいらない」


「はい」


「言い値でいい」


 窓の外が暗くなりかけていた。母が燭台に火を入れる音がした。二本だ。


「お売りできません」


「値が不服か」


「いいえ」


「では言え。いくらだ」


「値の話ではございません」


 わたくしは棚のほうを見た。麻布に包まれた足の形が、三段に並んでいる。


「あれは、旦那様の足の記録でございます」


「記録」


「はい」


「木の塊だろう」


 その言葉は、六年前にお義父様が言ったのと同じだった。


「記録は、ご本人にしか意味がございません。お売りしても、あれは誰にも使えません」


「うちの職人に使わせる」


「使えません」


「なぜだ」


「あれはわたくしの手で彫ったものでございますので、わたくしの直し方でしか直りません」


「意味がわからん」


「木型は、削って作ります。足して作るものではございません」


「それがどうした」


「削り方には順序がございます。どこを先に落として、どこを最後まで残すか。順序が違うと、同じ形にはなりません」


 わたくしは棚から一つ取って、麻布を解いた。お義母様の左の木型だ。


「これは十一度、直しております」


「十一度」


「一度目に落としたところが、いま一番薄うございます。二度目に落としたところが、その次に薄い。順に薄くなっております」


 わたくしは指で内側の面をなぞった。


「他の職人がこれを直しますと、どこが薄いかわからないまま削ります。薄いところをもう一度削れば、抜けます」


「抜ける」


「穴が開きます。そうなれば、この木型は終わりでございます」


 その方は木型を見ていた。見ていたが、たぶん何も見えてはいなかった。わたくしは麻布を戻して、棚へ置いた。


    ◇


 その方は、しばらく黙っていた。それから、作業台に手をついた。ついた手の指が、板の目を撫でた。


「ヨハンナが、外に出なくなった」


「そうでございますか」


「舞踏会の話が、どこへ行っても付いて回る。あれ以来、どこの茶会にも呼ばれない」


「はい」


「母上は足を痛めて、寝ている」


「左でございますね」


「なぜわかる」


「左が一分長うございますので」


 その方は手を離した。


「父上は」


 そこで、言葉が止まった。


「閣下は」


「……いや」


「いかがなさいましたか」


「なんでもない」


 わたくしは待った。待っても続きは来なかった。


    ◇


 その方は椅子に座った。勧めていない椅子だ。客用ではない。母が革を裁くときに使う、背のない丸椅子だった。


 座って、両手を膝の上に置いた。


「六年」


「はい」


「六年、お前は俺の靴を作っていた」


「木型を彫っておりました。縫っていたのは店の者でございます」


「同じことだろう」


「違います」


 その方は顔を上げた。


「何が違う」


「木型は、その方の足の形でございます。縫いは、誰にでもできます」


「……お前は、俺の足の形を持っているということか」


「はい」


 その方はしばらく黙っていた。


「気味が悪いな」


「はい」


「否定しないのか」


「気味の悪い商売でございますので」


 実際、そうだと思う。人の身体の寸法を、本人より正確に持っている。しかも本人の許しなく持ち続けられる。木型は職人のものだと法が決めているからだ。法がそう決めたのは、たぶん職人を守るためではない。壊れた靴をすぐ作り直せるようにするためだ。


    ◇


「戻ってこいとは言わない」


 その方は不意にそう言った。


「はい」


「言えばお前は断る」


「はい」


「だから言わない」


 わたくしは頭を下げた。下げてから、顔を上げた。この方は、六年で一度も謝ったことがない。いまも謝っていない。ただ、断られる前に言うのをやめる、ということを覚えただけだ。


「一つ、うかがってもよろしいでしょうか」


「なんだ」


「なぜ、閣下がいらっしゃらないのでございますか」


 その方の肩が動いた。


「父上が来るわけがないだろう」


「フォークトさんはいらっしゃいました。ヨハンナ様もいらっしゃいました。今日は旦那様が」


「……」


「三度目でございます。三度とも、閣下ご本人ではございません」


 その方は答えなかった。


「お足がお悪いのでございますか」


「知らん」


「六年、右の木型だけ、特別に作らせておいででした」


「知らんと言っている」


 声が大きくなった。母の裁つ音が止まった。その方は自分の声に驚いたような顔をして、それから、目をそらした。


「……父上は、俺にも見せない」


    ◇


「エルマー様」


 その方が振り向いた。名前で呼んだのは、六年で二度目だった。一度目は嫁いだ日だ。


「ご注文をなさいませ」


「注文」


「ギルド規約第九条第二項でございます。ご注文いただければ、わたくしは断れません。値は王都の相場で、条件はございません」


「……それは、頭を下げろということか」


「注文書に一行、お書きいただくだけでございます」


「同じことだ」


「同じでございましょうか」


 わたくしは紙を一枚、作業台に置いた。ペンも置いた。その方は、紙を見た。


 長いこと見ていた。それから、外套の襟を直した。


「父上が許さん」


「はい」


「俺の一存では書けん」


「はい」


「……そういう家なんだ」


 わたくしはペンを引いた。


「承知いたしました」


 その方は立ち上がった。丸椅子が少し鳴った。


「一つ、聞いていいか」


「はい」


「お前は、俺を憎んでいるか」


 わたくしはペンを箱に戻した。


「いいえ」


「嘘だ」


「本当でございます」


「なぜだ」


 わたくしは棚のほうを見た。四十七の麻布の包み。そのうちの一つが、あの方のものだ。


「憎むには、その方のことを考え続けなければなりません」


「……」


「わたくしはいま、二十七人ぶんの足を考えております」


 その方は何も言わなかった。


    ◇


 扉のところで、その方は肩を枠にぶつけた。ぶつけて、少しよろけた。手をついて、立て直して、それから何事もなかったように外へ出ていった。


 わたくしは扉を閉めた。閉めてから、しばらく取っ手に手をかけていた。


 あの方の甲は高い。既製の型では紐が締まらない。締まらない靴は、歩くたびに中で足が動く。中で足が動くと、身体の左右の振り幅が広がる。振り幅が広がると、狭いところで肩をぶつける。


 六年、あの方は一度も、扉の枠に肩をぶつけたことがなかった。

【今日の一足】高い甲に、締まらない紐。——中で足が動く靴は、身体の幅を広げます。


 ギルド規約の第九条第二項は、第4話でリディアが読み上げた条文です。「注文されたら断れない」という縛りは、職人を守る条文ではありません。守られているのは、注文する側です。


 ギルドの査問です。問われるのは腕ではなく、証拠のほうでした。

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