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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第15話 「六年間あなたが作った証拠は、どこに」

 王国靴工ギルド本部は、王都の中央、鐘塔の裏にある。査問の間は円かった。中央に椅子が二つ。まわりを囲む段に、職人たちが座っている。数えなかったが、三十人はいた。


 母と二人で、中央に座った。正面の高い席に、ギルド長のボードマー様がいた。六十くらい。肩が厚い。若い頃に吊り込みをやっていた人の肩だ。


「はじめる」


 ボードマー様の声は低かった。


「ハルトマン靴店の登録は、マーレン・ハルトマン一名。本日の議は二つ。一つ、リディア・ハルトマンの職人籍の回復。二つ、二十年前の当ギルド承認外借財の確認」


 ティルさんが端の机で筆を執っていた。目が合ったので、わたくしは一度だけ頷いた。


    ◇


「では一つ目。技量を見る」


 ボードマー様は立ち上がった。


「本来は木型を一つ彫らせる。だが今日は時がない。別のやり方をとる」


 その方は段を降りてきて、中央の椅子に座った。それから、靴を脱いだ。部屋がざわめいた。


「わたしの足を読め」


「ボードマー様」


「読めるのだろう。噂ではそうだ。辺境伯の足を読んだそうじゃないか」


 わたくしは腰掛けを引き寄せて、その前に座った。母が横で何か言いかけたので、袖を軽く押さえた。


「失礼いたします」


    ◇


 六十年ぶんの足だった。右の親指が、外へ倒れている。付け根が張り出して、皮が厚くなっている。左も同じだが、右のほうが強い。


 踵は両方とも硬い。硬いというより、分厚い。長く立った人の踵だ。わたくしは踝を持って、上へ回した。それから下へ回した。


「三十年ほど、吊り込みをなさいましたね」


「……ほう」


「吊り込みは、革を木型に引くときに、右の足を前に出して踏ん張ります。ですので右の親指の付け根から先に潰れます。左も潰れますが、五年から十年遅れます」


 段のほうで、誰かが息を吐いた。


「それから、いまはお作りになっておりません」


「なぜそう言う」


「踵の皮の厚みに、境目がございます。厚くなった上に、薄い皮が乗っております。これは立たなくなってからできるものでございます。八年から十年ほど」


「九年だ」


「はい」


 わたくしは足を下ろした。


「それから、一つだけ、申し上げてよろしいでしょうか」


「言え」


「左の小指が、二年ほど前に折れております」


 部屋が静まった。


「くっついてはおりますが、外へ向いております。おそらく、階段でございますね」


 ボードマー様は靴を履き直した。履くのに、少し時間がかかった。


「……腕は認める」


 その方は段へ戻っていった。


「腕は認めるが、それだけだ」


 段を降りるとき、その方は手すりを使った。九年、作っていない人の降り方だ。作っている職人は段を降りるときに手すりを使わない。両手が塞がっているのが普通だからだ。


 わたくしは腰掛けを元へ戻した。母が横で小さく言った。


「読みすぎだよ」


「はい」


「小指の話は、要らなかった」


「はい」


「あれで、あの人はあんたを許さなくなった」


 母の言うとおりだった。人の身体を読むというのは、その人が隠しているものを見つけるということでもある。仕事のときは、それが役に立つ。仕事でないときは、たいてい役に立たない。


    ◇


「二つ目に移る」


 ボードマー様は書面を開いた。


「職人籍の回復には、技量のほかに実績が要る。規約第三条。過去五年のうち三年以上、職として靴または木型の製作に従事した記録」


「はい」


「記録を出せ」


 わたくしは、一枚も出さなかった。


 出せなかった。


「六年、ヴェルデン侯爵家で木型を彫っておりました」


「証書は」


「ございません」


「注文書は」


「ございません」


「納品の控えは」


「ございません」


 ボードマー様は書面を置いた。


「侯爵家に問い合わせた。回答はこうだ」


 その方は別の紙を取り上げた。


「——当家の靴は、当家の抱えの職人が製作していた。当該人物は当家の嫁であり、職人ではない」


 母が横で息を吸った。


「六年間あなたが作った証拠は、どこにある」


    ◇


 誰も何も言わなかった。わたくしは膝の上で手を重ねていた。左の親指の腹に木の粉がついている。今朝まで彫っていたからだ。西の門の外の、洗い場の方の木型を。


「ハルトマン殿」


「はい」


「あなたが六年、腕を貸していたことは、この部屋の全員がいま見て知った」


「はい」


「だが記録は、あなたが何もしていないと言っている」


「はい」


「わたしは記録で裁く。腕で裁かない」


 その方の声は、それまでより静かだった。


「そうしなければ、この職業は、腕自慢の言い張りで潰れるからだ」


 わたくしは頭を下げた。


「ごもっともでございます」


「わかっているなら話が早い」


「はい」


「二十年前の借財に移る」


    ◇


 母が立ち上がる前に、わたくしは一度だけ段を見上げた。三十人の職人が座っている。ほとんどが男で、半分は白髪だ。


 この中に、六年前のわたくしを知っている人はいない。十四で徒弟に入ったときの記録なら、台帳の奥にある。けれど記録は、人の顔を覚えていない。


 母が咳払いをした。母は立ち上がるのに少し時間をかけた。


 膝が悪い。左を先に出す癖はそのせいだ。わたくしはそれを知っている。知っているのに、一度も測ったことがない。母は測らせない。


    ◇


「ギルド台帳に、承認の記録がない」


 母が立ち上がった。


「ないなら、無効だろう」


「ギルドの承認を経ていない、というだけだ。私人どうしの借財としては生きている」


「二十年、一度も取り立てに来なかった借金がかい」


「取り立てなかった理由は、こちらの与り知らぬところだ」


「与り知らぬところで、うちの工房が担保に入ってるんだよ」


 ボードマー様は書面を閉じた。


「マーレン・ハルトマン」


「なんだい」


「わたしはあなたの夫を知っている」


「知ってるだろうね」


「二十一年前、王室御用達の選に、わたしと彼が残った」


 部屋がまた静かになった。


「わたしは落ちた」


「そうだね」


「あの選考は、わたしが負けたのだと、いまでも思っている。腕でだ」


 ボードマー様は書面の端を揃えた。


「だが翌年、彼は御用達を取り上げられ、その次の年に死んだ。理由は誰も言わなかった。ギルドにも記録がない」


「……」


「わたしはそれを二十年、気持ちが悪いと思ってきた」


 その方は初めて、わたくしのほうを見た。


「ハルトマンの名前を聞くたびに、気持ちが悪い」


    ◇


 わたくしは立ち上がった。


「ボードマー様」


「なんだ」


「一つ、お願いがございます」


「言え」


「木型を一つ、持ってまいります」


「木型を出しても記録にはならん。誰が彫ったかは書いていない」


「外には、書いておりません」


 その方の眉が動いた。


「明日、この場でお割りいたします」


「割る」


「はい。中を、皆様にご覧いただきます」


 母がわたくしの袖を引いた。


「リディア」


「はい」


「あんた、何を彫ってたんだい」


 わたくしは母のほうを向いた。


「日付でございます」

【今日の一足】三十年ぶんの吊り込みが右の親指に、九年ぶんの隠居が踵の皮に。——足は、その人の職歴です。


 同業組合の審査が「腕」ではなく「記録」で行われるのは、腕を測る客観的なものさしが無いからです。理不尽に見えますが、ものさしを持たない世界で公平をやろうとすると、たいていこうなります。


 木型を一つ、皆様の前で割ります。

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