第16話 木型を割ったら、日付が出てきた
翌朝、麻布の包みを一つ持って、鐘塔の裏まで歩いた。母が「どれを持っていくんだい」と聞いたので、答えた。
「エルマー様のでございます」
「元の旦那のかい」
「はい」
「なんでまた」
「あれはもう、合いませんので」
三月前に踵を直した。そのあとで、あの方の歩く道が変わった。だからあの木型は、いま作っても合わない靴にしかならない。割って惜しいものが、四十七のうち一つだけあるとすれば、それだった。
◇
査問の間は、昨日より人が多かった。段が埋まっていた。噂が回ったのだろう。ティルさんが端の机で筆を握ったまま、こちらを見ていた。
「持ってきたか」
「はい」
わたくしは中央の卓に麻布を置いて、解いた。足の形をした樺が現れた。右足のぶんだ。甲が高い。踵はやや幅が広い。
段のほうで、何人かが身を乗り出した。木型を人前で見ることは、職人でもそう多くない。他家の木型は棚の奥にあるものだからだ。
「これは、ヴェルデン侯爵家次男、エルマー様の右の木型でございます」
「外に刻印はないな」
「ございません」
「では、誰が彫ったか、これでは何も言えん」
「はい」
わたくしは道具箱から鑿と槌を出した。
「割ります」
◇
木型は、木目に沿って割る。踵から爪先へ、真ん中を通る線がある。そこへ鑿を入れて、槌で三度叩く。硬い樺は、素直に割れない。四度目で、乾いた音がした。
二つに分かれた。断面を上に向けて、卓に置いた。
「どうぞ、ご覧くださいませ」
誰も動かなかった。最初に立ったのは、段の一番下にいた白髪の職人だった。近づいて、覗き込んで、それから止まった。
「……おい」
二人目が立った。三人目が立った。卓のまわりに人が集まって、後ろの者が前の者の肩越しに覗き込んだ。
ボードマー様が段を降りてきた。
◇
木型の内側には、字が彫ってある。細い。深さは半分の半分ほど。鑿の先で線を引いただけの、読めればいいという字だ。
上から順に並んでいる。
——五月十一日 右踵 外へ一分 もどす
——七月二日 甲 二分上げ 夜会前
——九月十九日 親指付根 当たり 内を落とす
——十一月四日 変化なし
その下に、また日付がある。年が変わって、また日付がある。六年ぶん、切れ目なく続いていた。
わたくしは断面の上のほうを指した。
「はじめの年は、直しが多うございます」
五月、七月、九月、十一月。四つ並んでいる。
「一年目は、まだ足の癖がわかりませんので、当てて、外して、また当てます。二年目からは減ります」
二年目は二つ。三年目は二つ。四年目は三つ。
「四年目に増えておりますな」
白髪の職人が言った。
「三年目の冬に、痩せられました」
「痩せると、木型を直すのか」
「甲が落ちます。落ちた甲に合わせて上げますと、今度は戻ったときに当たります。ですので、少し残して上げます」
「残す」
「はい。人は、戻ります」
痩せた人は太る。太った人は痩せる。足はそのたびに変わる。木型はその往復のまんなかに置く。誰かが小さく笑った。笑って、すぐにやめた。
「これは」
ボードマー様の声だった。
「木型を直すたびに、記録しておりました」
「なぜ、内へ」
「外は、侯爵家のものでございましたので」
誰かが小さく息を吐いた。
「外側には刻印を打つなと言われておりました。ですので、内側に書きました」
「見えない場所だぞ」
「はい」
「誰にも見えない」
「はい」
わたくしは断面に指を置いた。
「いつか、自分の名前で作ることがあるかもしれないと思っておりました。そのときに、六年ぶんの足の変わり方がなければ、また一からになりますので」
◇
ボードマー様は断面を持ち上げた。窓のほうへ傾けて、光を当てた。それから、目を近づけた。
「鑿の癖がある」
「はい」
「線の入りが浅くて、抜きが深い。全部同じだ」
「はい」
「昨日、あんたは何を持ってきた」
わたくしは道具箱から、もう一つ出した。昨日の朝に彫った、西の門の外の洗い場の方の木型だ。まだ荒い。だが、内側には一行だけ彫ってある。
——四月九日 指五本 開き 外へ逃がす
ボードマー様は二つを並べた。六年前の線と、昨日の線を、並べて見た。
長いこと見ていた。それから、断面を卓に戻した。
「同じ手だ」
「はい」
「六年ぶん、同じ手が、切れ目なく彫っている」
「はい」
その方は段のほうを振り返った。
「異議のある者は」
誰も何も言わなかった。
「では、リディア・ハルトマンの職人籍を回復する。実績の記録は、この木型をもって代える」
ティルさんの筆が、机の上で走った。走らせながら、袖で目のあたりを拭いていた。
◇
母は、ずっと座ったままだった。わたくしが戻ると、母は割れた木型の片方を手に取った。
目を近づけなかった。指の腹で、内側の字をゆっくり撫でた。上から下へ、日付の並びを順に。
「六年」
「はい」
「四十七ぶん、全部かい」
「全部でございます」
母は木型を置いた。置いてから、袖で口元を押さえた。
「……あんたの父さんも、内側に彫る人だったよ」
わたくしは母を見た。
「お母様」
「その話は、いまはいい」
◇
段が空になるまで、しばらくかかった。帰る職人が、卓の横を通るときに一度ずつ足を止めた。断面を覗いて、何も言わずに行く人が多かった。一人だけ、わたくしの前で止まった。
白髪の職人だった。
「若いの」
「はい」
「わしは吊り込み屋だ。木型は彫らん」
「はい」
「彫らんが、四十年、人の彫った木型に革を引いてきた」
その人は断面を指した。
「引くとき、内側の音でわかるんだ。よく彫れた木型は、革を引くと低く鳴る」
「はい」
「あんたのは、鳴る」
その人は帽子を取った。取って、被り直して、行った。わたくしは頭を下げた。下げたときには、もう背中しか見えなかった。
◇
帰り際、ボードマー様に呼び止められた。廊下の窓のところだった。その方は窓枠に手をついて立っていた。九年、作っていない人の立ち方だ。
「借財の件だが」
「はい」
「台帳に承認がない以上、ギルドとしては工房の担保を認めない。工房は取られん」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。規約どおりだ」
「はい」
その方は窓の外を見た。
「一つ、言っておく」
「はい」
「二十年前の証文を、ギルドへ出してきたのは、あの家の令嬢ではない」
「ヨハンナ様ではない」
「照会の申し立ては、その半月前に届いていた」
わたくしは手を止めた。半月前。ヨハンナ様が証文を持ってくるより、前だ。
「どなたから」
ボードマー様は窓枠から手を離した。
「……侯爵閣下のご意向で、とだけ書いてあった」
「閣下ご本人のお名前は」
「ない」
「では、どなたが」
「知らん」
その方は廊下を歩いていった。九年ぶんの踵で、床を強く踏んで。
わたくしはしばらく、窓のところに立っていた。半月前。あの家は、わたくしが木型を持ち出す前から、この日を用意していたことになる。
【今日の一足】六年ぶんの日付が、誰にも見えない内側に。——外に打てない名前は、内側に書けます。
木型を割るのは、職人にとっては道具を殺すことです。四十七のうちどれを割るかを、リディアがどう選んだかは本文のとおりですが、「もう合わない」というのは彼女なりの理屈であって、たぶん理屈だけではありません。
ここまでで第二章が終わりました。はじめて、自分の刻印を打ちます。
ブックマークと評価は、鑿の柄を挿げ替える代金に充てさせていただきます。柄は、刃より先に駄目になるのです。




