第17話 はじめて、自分の刻印を打つ
第三章「署名」がはじまります。
籍が戻った翌日、母が小さな箱を作業台に置いた。掌に載るくらいの木箱だった。蓋がない。上から布がかけてある。
「あんたの父さんの刻印だ」
布を取ると、鉄の棒が三本入っていた。刻印というのは、木型の踵に押す焼き印のことだ。先に文字が彫ってある。熱して押すと、木が焦げて跡が残る。跡は削らないかぎり消えない。
父の刻印は「H」だった。
「H」の周りに、細い輪が回っている。輪は上のところで少しだけ切れていた。切れているのは、彫った職人の癖なのか、わざとなのか、いまとなってはわからない。
「使いな」
「よろしいのですか」
「あんたが継ぐんだろ」
わたくしは三本のうち一番小さいものを取った。重かった。柄のところが減っている。ここも父の親指の形をしている。
◇
半日、その刻印を持ったまま考えていた。彫りかけの木型が五つ、作業台に並んでいた。二十七人ぶんの残りだ。どれに押しても構わない。押せば、その木型は「H」の店のものになる。
押さなかった。
夕方、母が竈から出てきて、わたくしの手元を見た。
「押さないのかい」
「はい」
「気に入らないのかい」
「いいえ」
「じゃあ、なんだい」
わたくしは刻印を箱に戻した。
「これは、お父様のものでございます」
「あんたの父さんはもう死んでる」
「はい」
「死んだ人の名前を継ぐのが、職人の商売だろ」
「はい」
母は椅子に座った。座って、腕を組んだ。
「けど、押さないと」
「はい」
「……なんでだい」
わたくしはしばらく答えられなかった。答えられなかったので、正直に言った。
「六年、他の方の名前で作りました」
「そうだね」
「ヴェルデン家の抱えの職人、という名前でございました」
「そうだ」
「もう一度、他の方の名前で作りますと、六年が七年になるだけでございます」
母は腕を組んだまま、天井を見た。長いこと見ていた。それから、立ち上がった。
「鉄はあるかい」
「はい」
「じゃあ、彫りな」
◇
鉄に彫るのは、木に彫るのとは違う。鏨で叩いて、少しずつ削る。一日ではできない。三日かかった。二十七人ぶんの木型を彫りながら、夜半から明け方までのあいだに、少しずつ。
形は、二日目に決まった。
「H」。父と同じ字だ。ハルトマンの「H」だから、変えようがない。
その下に、短い横線を一本。輪は入れなかった。かわりに線を引いた。木型の内側に、六年間、日付を刻んできた線と同じ長さの線だ。
誰にも意味は伝わらない。伝わらなくていい。
二日目の夜に、ティルさんが寄っていった。台帳の写しを届けに来たついでだと言っていたが、たぶんついでではなかった。あの子は、うちの店の前を通る用事のない場所に住んでいる。
「何をなさっているんですか」
「刻印を彫っております」
「刻印」
「木型に押す焼き印でございます」
ティルさんは鏨の先を覗き込んだ。
「……あの、失礼ですが、これはご自分で彫られるものなのですか」
「彫る職人もおりますし、鍛冶に頼む職人もおります」
「どちらが多いのですか」
「頼むほうが多うございます。鉄は木より硬いので」
「では、なぜ」
わたくしは鏨を置いて、掌の粉を払った。
「自分の名前でございますので」
ティルさんは何か書きたそうな顔をして、それから、書くものを持っていないことに気づいたようだった。
◇
三日目の夜に、焼いた。炭を熾して、刻印の先を突っ込む。赤くなるまで待つ。赤くなったら布で拭いて、押す。押す時間は、三つ数えるあいだ。長いと焦げすぎる。短いと薄い。
最初に押す木型は、決めてあった。西の門の外の、洗い場の方のものだ。
二十六年、石の床に素足で立ってきた足。指が五本とも扇のように開いた足。あの足の木型は、二つ作った。濡れる日のものと、乾いた日のもの。
その二つの踵に、押した。じっ、と音がした。
煙が上がって、革の匂いとは違う匂いがした。木が焦げる匂いだ。二十七年ぶりに、この店で誰かが刻印を押した匂いだった。
布で拭いた。
「H」と、短い横線が、踵に残っていた。
◇
手が止まった。止めたつもりはなかった。木型を持ったまま、動かなくなっていた。
六年、木型の内側に日付を彫った。誰にも見えない場所に。いつか自分の名前で作るときのために、六年ぶんの経過が要ると思ったからだ。
思っていただけだった。本当にその日が来るとは、たぶん一度も信じていなかった。信じていたら、もっと丁寧に彫っていたと思う。あの字はどれも、読めればいいという字だ。
わたくしは木型を作業台に置いた。置いてから、袖で目のあたりを押さえた。押さえてから、押さえたことに気づいた。
「リディア」
「はい」
「茶でも淹れるよ」
「うちは白湯でございます」
「今日は茶だ」
母は竈のほうへ行った。行って、こちらに背を向けたまま、長いこと湯を沸かしていた。沸くまでに、そんなに時間はかからないはずだった。
◇
翌朝、王城から使いが来た。前と同じ人だった。前より丁寧に扉を叩いた。
「王城会計方より、正式の照会でございます」
「はい」
「リディア・ハルトマン殿の職人籍回復を、ギルドより確認いたしました」
「ありがとうございます」
「つきましては——」
その人は書付を出した。蝋の印が二つ押してある。ギルドのものと、王家のものだ。
「本年の王室御用達の選に、ハルトマン靴店を加えることといたしました」
母が奥から出てきた。
「選」
「はい。秋の式典の前に、選定を行います」
「もう一軒は」
「ケルナー靴店でございます」
わたくしはヴィルフリート親方の、前掛けの端を握る手を思い出した。
「……もう一軒は」
母がもう一度聞いた。
「二軒でございますか。それとも三軒でございますか」
使いの人は書付を閉じた。
「三軒でございます」
「三軒目は」
「アルトハウス工房。ヴェルデン侯爵家のご推薦でございます」
わたくしは書付を受け取った。紙が厚い。厚い紙は湿りに強い。役所の紙はたいてい厚い。
「選定の課題は」
「当日、お知らせいたします」
「材は持ち込みでございますか」
「持ち込みでございます」
「日数は」
「三日でございます」
三日。
木型を彫るには足りる。革を裁って、吊り込んで、縫って、仕上げるには足りない。
「一足でございますか」
使いの人は、そこで初めて言葉を選ぶような間を置いた。
「……二足でございます」
「同じ方のお足に、二足」
「そこまでは、当日に」
その人は帽子を取って、頭を下げて、帰っていった。母が横で、白湯の湯呑みを持ったまま立っていた。
「二足だってさ」
「はい」
「同じ足に二足なんて、なんで要るんだい」
「わかりません」
わからないと言いながら、たぶんわかっていた。同じ足に二足が要る場面を、わたくしは一つだけ知っている。
◇
使いの人が帰ってから、母は刻印の押された木型を手に取った。目を近づけなかった。近づけずに、踵のところを指の腹でゆっくり撫でた。
「H」を撫でて、その下の横線を撫でた。
撫でて、もう一度はじめから撫でた。
「お母様」
「なんだい」
「見えますか」
母は木型を置いた。
「見えるよ」
母はそう言って、革を裁ちはじめた。裁ち目はまっすぐだった。
【今日の一足】刻印は「H」と、短い横線が一本。——線の意味は、たぶん誰にも伝わりません。
焼き印を押すのは三つ数えるあいだ、というのは職人によってばらつきがあるようです。木の種類でも変わります。長すぎると縁が滲み、短いと二年で消える。この加減だけは、数字にしても伝わらないのだそうです。
二十年前の記録が出てきます。同じことが、一度あったようです。




