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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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18/26

第18話 お義父様は、二十年前にも同じことをしている

 ティルさんは、台帳を三冊抱えて来た。自分の胴と同じ幅の台帳を三冊である。扉のところで一度落として、拾って、それから運び込んだ。


「持ち出しの許しは」


「取りました」


「本当でございますか」


「……写しを取る許しを取りました。写しを取るには持ち出さないと取れませんので」


 母が奥から出てきて、白湯を置いた。


「頭のいい子だね」


「そうでしょうか」


「そのうち首になるよ」


    ◇


 一冊目は、二十一年前の台帳だった。王室御用達の選定の記録がある。残ったのは二人。ボードマーと、ヨナス・ハルトマン。


 選ばれたのはヨナス・ハルトマン。選定の理由の欄に、一行だけ書いてある。


 ——傷痍者の補高において、他に比する者なし。


 わたくしはその行をしばらく見ていた。


「補高でございますか」


「はい」


「王室に、そういう方が」


「先の陛下の弟君でいらっしゃいます。落馬なさって、右が短くおなりだったと」


 わたくしは台帳を閉じた。父が御用達を取った理由は、腕の良さではなかった。腕の良さは前提で、選ばれたのは「歩けない人を歩かせた」からだった。


 わたくしは、六年前にそれと同じことをしたのだ。知らないままで。


    ◇


 補高というのは、片方の足が短い人のために、その差を靴で埋める仕事だ。簡単そうに聞こえる。実際は難しい。三分足りないから三分足せばいい、という話にならないからだ。


 人は短いほうの足で立たない。長いほうで立つ。長いほうで立ち続けた身体は、その姿勢のまま固まっている。そこへいきなり三分足すと、固まった身体が急に伸ばされる。腰が痛む。膝が痛む。ひどいときは歩けなくなる。


 だから少しずつ足す。一分。半年おいてもう一分。また半年おいて、残りの一分。三年かかる。三年、同じ客のところへ通う仕事だ。儲からない。


 父は、それで御用達を取った。


    ◇


 二冊目は、その翌年だった。


「取り消しの申し立てが出ております」


「どなたから」


「ヴェルデン侯爵家でございます」


 母は手を動かさなかった。革包丁を持ったまま、作業台を見ていた。


「理由は」


「二つございます。一つ、納品の遅延。二つ、品質の不良」


「証拠は」


 ティルさんは台帳をめくった。


「……ございません」


「ないのに通ったのかい」


「通っております」


「どうやって」


「申し立てが侯爵家からのものである、というだけで」


 ティルさんは頁を指した。


「取り消しの決定は、申し立ての六日後です」


「六日」


「はい。当時のギルド長は、ヴェルデン家の推薦で就いた方でございます」


 わたくしは巻き尺を握っていた。握っていることに、しばらく気づかなかった。


    ◇


「三冊目でございます」


 ティルさんは一番厚いものを開いた。


「取り消しの二月あと、ヴェルデン侯爵家より、新しい御用達の推薦が出ております」


「どちらを」


「アルトハウス工房でございます」


 母が顔を上げた。


「アルトハウスだって」


「ご存じでございますか」


「知ってるも何も、あそこは百年前から王城の靴を作ってる家だよ。御用達なんか、いまさら推薦されるまでもない」


 ティルさんは頁をもう一度読んだ。


「はい。ですので、この推薦は通っておりません。アルトハウス工房が辞退しております」


「辞退」


「辞退の理由も書いてございます」


 ティルさんは指でその行を追った。


「——当家は、他家の空けた席に座らぬ」


    ◇


 しばらく、誰も何も言わなかった。母が白湯を一口飲んだ。


「つまり、あれかい」


「はい」


「うちの人を引きずり下ろして、そこへ別の家を据えようとして、その家に断られた、と」


「そうなります」


「じゃあ、あの年から御用達は空席かい」


「空席でございます。二十年、ずっと」


 わたくしは三冊の台帳を見た。二十一年前に取って、二十年前に取り上げられて、そのあと誰も座っていない席。


 そして今年、その席の選定が行われる。三軒で。


「ティルさん」


「はい」


「今年の三軒のうち、一軒はアルトハウス工房でございますね」


「はい」


「ヴェルデン侯爵家のご推薦で」


「……はい」


「二十年前と、同じでございます」


 ティルさんは台帳を閉じた。閉じてから、小さな声で言った。


「同じです」


 二十年のあいだに、あの家の当主は代わっていない。ゲルハルト・ヴェルデンは、二十年前も当主だった。当時、四十に届いていなかったはずだ。


    ◇


 母が立ち上がって、竈のほうへ行った。行って、何もしなかった。鍋の蓋に手をかけて、そのままにしていた。


「お母様」


「なんだい」


「六年前に、わたくしがあの家へ嫁いだ話でございますが」


「言うんじゃないよ」


「お義父様は、父の腕を知っていらっしゃいました」


「言うんじゃないって」


「知っていて、二十年前に潰されて、六年前にわたくしを」


 母が蓋を落とした。大きな音がした。母は拾わなかった。


「……あたしはね」


 母の声は低かった。


「あの縁談が来たとき、嬉しかったんだよ」


「はい」


「うちみたいな店の娘が、侯爵家に。恥ずかしい話だけど、本当に嬉しかった」


「はい」


「あんたが十四から彫ってた腕を、あの家がちゃんと見てくれたんだと思った」


 母は蓋を拾った。拾って、竈に戻した。


「見てはいたんだね。見て、しまい込んだんだ」


    ◇


 ティルさんが帰ったあと、母は台帳の写しを一枚ずつ確かめていた。顔に近づけて、少し傾けて、燭台のほうへ寄せる。一枚に、ずいぶん時間がかかる。


「お母様」


「なんだい」


「わたくしが読みます」


「あんたは彫りな」


「もう彫るものがございません」


 母は手を止めた。止めて、写しを作業台に置いた。


「そうかい」


「はい」


「じゃあ、読んどくれ」


 わたくしは母の隣に椅子を寄せて、一枚ずつ読み上げた。二十年前の日付。申し立ての文言。決定の日付。推薦の書面。辞退の返書。


 母は手を膝に置いて聞いていた。相槌は一度も打たなかった。


    ◇


 その晩、わたくしは彫らなかった。彫れなかったのではない。彫る手が余っていなかっただけだ。二十七人ぶんは、もう終わっている。


 わたくしは父の道具箱を開けて、底の紙を出した。


 ——王室御用達 靴工 ヨナス・ハルトマン


 二十一年前の秋。


 この紙が敷かれたのは、いつだろう。取り上げられたあとだろうか。それとも、取り上げられる前から、道具の下に敷いていたのだろうか。どちらでも、あまり変わらない気もした。


「お母様」


「なんだい」


「一つだけ、うかがってよろしいでしょうか」


「……なんだい」


「お父様が落ちたのは、どちらの階段でございますか」


 母は答えなかった。答えないのが答えになる場合がある。けれど、この夜の沈黙は、それとは違う種類のものだった。


「裏の階段だよ」


「侯爵邸の」


「そう」


「厨房のそばの、荷を上げる階段でございますね」


「行ったことがあるのかい」


「六年おりましたので」


 わたくしは紙を畳んで、道具の下へ戻した。


「明日、見に行きます」

【今日の一足】二十一年前の選定理由——「傷痍者の補高において、他に比する者なし」。——同じことを、娘は知らずにやっていました。


 同業組合の記録が残っているというのは、こういう調べ方ができるということでもあります。もっとも、残っているのは「決まったこと」だけで、「なぜそう決まったか」はたいてい書かれていません。


 階段を見に行きます。二十年ぶんの埃が積もっています。


 ブックマークと評価は、燭台の蝋代に充てさせていただきます。夜なべの本数は、いまのところ二本です。

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