第18話 お義父様は、二十年前にも同じことをしている
ティルさんは、台帳を三冊抱えて来た。自分の胴と同じ幅の台帳を三冊である。扉のところで一度落として、拾って、それから運び込んだ。
「持ち出しの許しは」
「取りました」
「本当でございますか」
「……写しを取る許しを取りました。写しを取るには持ち出さないと取れませんので」
母が奥から出てきて、白湯を置いた。
「頭のいい子だね」
「そうでしょうか」
「そのうち首になるよ」
◇
一冊目は、二十一年前の台帳だった。王室御用達の選定の記録がある。残ったのは二人。ボードマーと、ヨナス・ハルトマン。
選ばれたのはヨナス・ハルトマン。選定の理由の欄に、一行だけ書いてある。
——傷痍者の補高において、他に比する者なし。
わたくしはその行をしばらく見ていた。
「補高でございますか」
「はい」
「王室に、そういう方が」
「先の陛下の弟君でいらっしゃいます。落馬なさって、右が短くおなりだったと」
わたくしは台帳を閉じた。父が御用達を取った理由は、腕の良さではなかった。腕の良さは前提で、選ばれたのは「歩けない人を歩かせた」からだった。
わたくしは、六年前にそれと同じことをしたのだ。知らないままで。
◇
補高というのは、片方の足が短い人のために、その差を靴で埋める仕事だ。簡単そうに聞こえる。実際は難しい。三分足りないから三分足せばいい、という話にならないからだ。
人は短いほうの足で立たない。長いほうで立つ。長いほうで立ち続けた身体は、その姿勢のまま固まっている。そこへいきなり三分足すと、固まった身体が急に伸ばされる。腰が痛む。膝が痛む。ひどいときは歩けなくなる。
だから少しずつ足す。一分。半年おいてもう一分。また半年おいて、残りの一分。三年かかる。三年、同じ客のところへ通う仕事だ。儲からない。
父は、それで御用達を取った。
◇
二冊目は、その翌年だった。
「取り消しの申し立てが出ております」
「どなたから」
「ヴェルデン侯爵家でございます」
母は手を動かさなかった。革包丁を持ったまま、作業台を見ていた。
「理由は」
「二つございます。一つ、納品の遅延。二つ、品質の不良」
「証拠は」
ティルさんは台帳をめくった。
「……ございません」
「ないのに通ったのかい」
「通っております」
「どうやって」
「申し立てが侯爵家からのものである、というだけで」
ティルさんは頁を指した。
「取り消しの決定は、申し立ての六日後です」
「六日」
「はい。当時のギルド長は、ヴェルデン家の推薦で就いた方でございます」
わたくしは巻き尺を握っていた。握っていることに、しばらく気づかなかった。
◇
「三冊目でございます」
ティルさんは一番厚いものを開いた。
「取り消しの二月あと、ヴェルデン侯爵家より、新しい御用達の推薦が出ております」
「どちらを」
「アルトハウス工房でございます」
母が顔を上げた。
「アルトハウスだって」
「ご存じでございますか」
「知ってるも何も、あそこは百年前から王城の靴を作ってる家だよ。御用達なんか、いまさら推薦されるまでもない」
ティルさんは頁をもう一度読んだ。
「はい。ですので、この推薦は通っておりません。アルトハウス工房が辞退しております」
「辞退」
「辞退の理由も書いてございます」
ティルさんは指でその行を追った。
「——当家は、他家の空けた席に座らぬ」
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。母が白湯を一口飲んだ。
「つまり、あれかい」
「はい」
「うちの人を引きずり下ろして、そこへ別の家を据えようとして、その家に断られた、と」
「そうなります」
「じゃあ、あの年から御用達は空席かい」
「空席でございます。二十年、ずっと」
わたくしは三冊の台帳を見た。二十一年前に取って、二十年前に取り上げられて、そのあと誰も座っていない席。
そして今年、その席の選定が行われる。三軒で。
「ティルさん」
「はい」
「今年の三軒のうち、一軒はアルトハウス工房でございますね」
「はい」
「ヴェルデン侯爵家のご推薦で」
「……はい」
「二十年前と、同じでございます」
ティルさんは台帳を閉じた。閉じてから、小さな声で言った。
「同じです」
二十年のあいだに、あの家の当主は代わっていない。ゲルハルト・ヴェルデンは、二十年前も当主だった。当時、四十に届いていなかったはずだ。
◇
母が立ち上がって、竈のほうへ行った。行って、何もしなかった。鍋の蓋に手をかけて、そのままにしていた。
「お母様」
「なんだい」
「六年前に、わたくしがあの家へ嫁いだ話でございますが」
「言うんじゃないよ」
「お義父様は、父の腕を知っていらっしゃいました」
「言うんじゃないって」
「知っていて、二十年前に潰されて、六年前にわたくしを」
母が蓋を落とした。大きな音がした。母は拾わなかった。
「……あたしはね」
母の声は低かった。
「あの縁談が来たとき、嬉しかったんだよ」
「はい」
「うちみたいな店の娘が、侯爵家に。恥ずかしい話だけど、本当に嬉しかった」
「はい」
「あんたが十四から彫ってた腕を、あの家がちゃんと見てくれたんだと思った」
母は蓋を拾った。拾って、竈に戻した。
「見てはいたんだね。見て、しまい込んだんだ」
◇
ティルさんが帰ったあと、母は台帳の写しを一枚ずつ確かめていた。顔に近づけて、少し傾けて、燭台のほうへ寄せる。一枚に、ずいぶん時間がかかる。
「お母様」
「なんだい」
「わたくしが読みます」
「あんたは彫りな」
「もう彫るものがございません」
母は手を止めた。止めて、写しを作業台に置いた。
「そうかい」
「はい」
「じゃあ、読んどくれ」
わたくしは母の隣に椅子を寄せて、一枚ずつ読み上げた。二十年前の日付。申し立ての文言。決定の日付。推薦の書面。辞退の返書。
母は手を膝に置いて聞いていた。相槌は一度も打たなかった。
◇
その晩、わたくしは彫らなかった。彫れなかったのではない。彫る手が余っていなかっただけだ。二十七人ぶんは、もう終わっている。
わたくしは父の道具箱を開けて、底の紙を出した。
——王室御用達 靴工 ヨナス・ハルトマン
二十一年前の秋。
この紙が敷かれたのは、いつだろう。取り上げられたあとだろうか。それとも、取り上げられる前から、道具の下に敷いていたのだろうか。どちらでも、あまり変わらない気もした。
「お母様」
「なんだい」
「一つだけ、うかがってよろしいでしょうか」
「……なんだい」
「お父様が落ちたのは、どちらの階段でございますか」
母は答えなかった。答えないのが答えになる場合がある。けれど、この夜の沈黙は、それとは違う種類のものだった。
「裏の階段だよ」
「侯爵邸の」
「そう」
「厨房のそばの、荷を上げる階段でございますね」
「行ったことがあるのかい」
「六年おりましたので」
わたくしは紙を畳んで、道具の下へ戻した。
「明日、見に行きます」
【今日の一足】二十一年前の選定理由——「傷痍者の補高において、他に比する者なし」。——同じことを、娘は知らずにやっていました。
同業組合の記録が残っているというのは、こういう調べ方ができるということでもあります。もっとも、残っているのは「決まったこと」だけで、「なぜそう決まったか」はたいてい書かれていません。
階段を見に行きます。二十年ぶんの埃が積もっています。
ブックマークと評価は、燭台の蝋代に充てさせていただきます。夜なべの本数は、いまのところ二本です。




