第19話 父が落ちた階段には、手すりがついていた
ヴェルデン侯爵邸の裏門は、六年前と同じ場所にあった。表門は石を積んだ立派なものだが、裏はただの木の戸だ。荷を入れる門なので、御者と使用人しか通らない。わたくしは六年、この門から出入りしていた。嫁が裏門を使う家ではなかったけれど、木型の材は荷馬車で来るからだ。
鈴を鳴らすと、フォークトさんが出てきた。
「ハルトマン殿」
「お忙しいところを、申し訳ございません」
「いえ」
フォークトさんは戸を大きく開けた。開けてから、後ろを一度見た。
「閣下は本日、お出かけでございます」
「そうでございますか」
「奥様はお休みでいらっしゃいます。ご令嬢は、その、お部屋から」
「はい」
「エルマー様は、ご不在です」
この人は、誰もいないと言うのに四人ぶんの言葉を使う。六年、そういう話し方の人だった。
◇
六年、この屋敷にいた。いた場所は、決まっていた。西の翼の二階に居室が一つ、地下の物置に木型の棚。あとは、食堂と応接間だ。それ以外の場所へ行く用事は、ほとんどなかった。
裏の階段には、一度も行っていない。行こうとしたことはある。二年目の冬に、材の荷が裏へ着いたと聞いて、そちらへ回ろうとした。廊下で、フォークトさんに止められた。
「そちらは、閣下がお使いを禁じておられます」
そのときは、そういうものかと思った。屋敷には、使ってはいけない場所がいくつもある。閉じている部屋も、鍵のかかった納戸もあった。いま思えば、禁じられていたのは、あの階段だけだった。
◇
厨房の脇に、荷を上げる階段がある。石の段だ。表の大階段とは違って、幅が狭い。人が二人並ぶと肩が触れる。踏み面も狭くて、蹴上げが高い。荷を担いで上がるための階段ではない。荷は上から縄で吊るす。だからこの階段を使うのは、人だけだ。
十四段ある。わたくしは一番下に立って、上を見た。
手すりがついていた。右側の壁に、木の手すりが一本。金具で三か所留めてある。
「フォークトさん」
「はい」
「この手すりは、いつからついておりますか」
フォークトさんは階段を見上げた。
「わたくしがこの家に上がりましたのは二十三年前でございますが、その頃には既に」
「二十三年前には、あった」
「はい」
わたくしは金具を見た。
黒く錆びている。錆は表面だけで、下は生きている。錆が浮いてから止まる、その止まり方をしている。留めた木の穴の縁は、木の色と同じに黒ずんでいた。付け替えたなら、穴の縁は新しい。新しくなかった。
◇
父は、この階段から落ちた。落ちて、下で死んだ。二十年前だ。
手すりのある階段から落ちるには、手すりを掴んでいない必要がある。掴んでいないだけでは足りない。掴めない側にいる必要がある。
この階段の手すりは、右の壁にある。上る人から見て右。下りる人から見て左だ。
「フォークトさん」
「はい」
「灯りをお借りできますか」
◇
わたくしは四つん這いになって、段を一つずつ見た。石の段は、擦れる。人が同じ場所を踏み続けると、そこだけ減る。減った石は元に戻らない。二十年でも五十年でも、減った形はそのまま残る。
一段目。中央がなだらかに凹んでいる。普通の減り方だ。二段目。同じ。三段目、四段目、同じ。
五段目で、灯りを止めた。中央の凹みのほかに、もう一つあった。
外側——手すりのない左の端に、深い擦れがある。長さは指三本ぶん。細くて、縁が鋭い。中央の凹みとは形が違う。凹みは「乗った」跡だ。これは「滑った」跡だった。
爪先の形をしている。右足の爪先だ。爪先の外側から入って、外へ流れている。
「……フォークトさん」
「はい」
「この段の左端は、普段どなたがお使いになりますか」
「左端でございますか」
「はい」
「使いません。狭うございますので、皆、真ん中を通ります」
「はい」
「手すりが右でございますから、右へ寄る者はおりますが、左へ寄る理由が」
「ございませんね」
わたくしは灯りを近づけた。
◇
擦れの隣に、もう一つあった。同じ五段目。滑った跡の、すぐ内側。
こちらは丸い。踵の形だ。左足の踵。深さは浅いが、縁が潰れている。強く押しつけて、そのまま体重をかけた跡だ。二つは、指四本ぶんと離れていない。人が二人、肩を触れ合わせて立つときの距離だ。この階段は、そもそも人が二人並ぶと肩が触れる幅しかない。
同じ段に、二人が同時に立たなければ、こうはならない。わたくしは灯りを持ったまま、しばらく動かなかった。
滑ったのは右足の人。踏ん張ったのは左足の人。滑ったほうは、外側へ流れた。外側には手すりがない。どちらが父かは、わからない。
けれど、父は左足で踏ん張る人ではなかった。母がそう言っている。父は左の膝が悪かった。母の左膝の癖は、たぶんそれとは関係ない。関係ないが、父の膝の話は昔から聞いていた。
左で踏ん張れる人が、この段にもう一人いた。
◇
わたくしは、五段目のあとも順に見た。六段目。中央だけ。七段目、八段目、同じ。
九段目に、また外側の跡があった。今度は、左だ。手すりのある側ではないほうに、擦れがある。これは細い。爪先ではない。踵の外側だ。
落ちる人は、途中で足を出す。出した足が段に当たって、また外れる。当たった場所が、残る。九段目、十一段目、十二段目。三つ続けて、跡があった。
十三段目と十四段目には、何もなかった。その二段には、当たっていない。
わたくしは灯りを下げて、下を見た。最後の二段を飛ばして落ちれば、下に着くのは、頭のほうだ。
◇
わたくしは灯りを下ろして、立ち上がった。膝が痛かった。石は冷たい。
「ハルトマン殿」
「はい」
「何かございましたか」
わたくしは灯りを返した。
「石の減り方を見ておりました」
「石の」
「靴屋は、床も見ますので」
フォークトさんは階段を見上げた。それから、わたくしを見た。
「……何がわかりました」
わたくしは答えなかった。答えられなかったのではない。答えると、この人はそれを閣下に伝えなければならなくなる。この人は家令だ。家令の仕事は、家に伝えることだ。
「何も」
「そうでございますか」
「はい」
フォークトさんは、しばらくわたくしを見ていた。
「ハルトマン殿」
「はい」
「この階段は、二十年、誰も使っておりません」
「……はい」
「閣下がお使いを禁じられました。危険であるという理由で」
わたくしは五段目を見た。
「荷は」
「表の廊下から回しております。遠回りでございますが」
「二十年」
「二十年でございます」
◇
帰るとき、もう一度だけ振り返った。段には埃が積もっていた。
厚い。踏まれていない埃の積もり方だ。灰色で、端のほうは毛羽立っている。わたくしが四つん這いになったところだけ、掌の跡がついていた。あの二つの跡は、その埃の下にあった。
二十年、誰も掃除をしていない。
【今日の一足】五段目の左端に、右足の爪先が外へ流れた跡。その内側に、左足の踵が押しつけられた跡。
石段の摩耗は、消えません。人が減らしたぶんは、人が戻せないからです。
王都の広場で、どなたの足でも測ります。




