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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第7話 義妹が持ってきたのは、父の名の入った証文だった

 その朝、先に来たのはギルドの書記だった。


「王国靴工ギルド、書記のティルと申します」


 十九か二十くらいの子だった。上着の袖が長い。借り物だ。抱えている台帳が本人の胴と同じ幅ある。


「籍のご確認に参りました」


「籍」


「はい。ハルトマン靴店の登録職人は、マーレン・ハルトマン様お一人でございます。同居のご家族が作業をなさる場合は、届出が」


「わたくしは十四のときに徒弟登録をしております」


「はい。ええと」


 ティルさんは台帳をめくった。めくって、めくって、指で止めた。


「……六年前に、抹消されております」


「抹消」


「婚姻による、と」


 母が奥から出てきた。


「誰が出したんだい、その届」


「ええと、届出人は——」


 ティルさんは指をずらして、それから止まった。


「ヴェルデン侯爵家、家令フォークト、代理」


 母が台帳を覗き込んだ。ずいぶん顔を近づけていた。


「代理って何だい」


「ご本人に代わって届け出ることでございます。委任状があれば」


「委任状は」


 ティルさんはもう一枚めくった。


「……ございません」


「じゃあ無効だろ」


「無効です。ただ」


 ティルさんは言いにくそうにした。


「六年、どなたも異議を申し立てておりませんので、事実としては通っております。取り消すには、ご本人が申し出て、審査をお受けいただくことに」


「審査」


「ギルド長の面前で、腕をお見せいただきます」


 わたくしは巻き尺を置いた。


「いつでも結構でございます」


「あの、それが」


 ティルさんは台帳を胸に抱え直した。


「ギルド長は、ボードマー様と申しますが、その、ハルトマンのお名前を——」


 そこまで言ったところで、扉が鳴った。


    ◇


「まだ木の塊を置いてるのね」


 ヨハンナ様だった。供の者を外に待たせて、一人で入ってきた。歩き方は変わっていた。三歩に一度、右へ体重を寄せる。舞踏会で捻ったのだろう。


「ヨハンナ様」


「返しにきてもらうわ」


「木型でございますか」


「木型」


「規約の第九条につきましては、フォークトさんにお伝えいたしました」


「規約なんて知らない」


 ヨハンナ様は懐から紙を出した。古い紙だった。折り目が擦れて、端が茶色くなっている。二十年は経っている紙だ。


「これは知ってる?」


 わたくしは受け取った。借用証文だった。貸主、ヴェルデン侯爵家。借主、ハルトマン靴店。金額は——読んで、いちど目を伏せた。工房が十軒買える額だった。


 日付は二十年前の春。借主の欄に、署名があった。


 ヨナス・ハルトマン。


 父の字だった。父の字は、下へ行くほど右に流れる。「ン」の跳ねが必ず短い。間違えようがない。


「お父様が」


「借りたのよ。返してないの」


 ヨハンナ様は腕を組んだ。


「うちはずっと黙っててあげてた。あなたが嫁に来たから。でも、もう関係ないでしょう」


「……」


「木型を返すか、これを返すか。どっちか選んで」


 わたくしは証文をもう一度見た。紙の質がいい。二十年経ってもここまで残る紙は、役所か、大きな家の書庫にしかない。


 角が一つだけ、丸くなっていた。同じ角を何度も摘まんで開いた紙の傷み方だ。この二十年、誰かが繰り返しこれを開いている。


「ヨハンナ様」


「なに」


「これは、どちらに仕舞ってございましたか」


「知らないわよ。お父様が出してきたの」


「そうでございますか」


「返すの、返さないの」


    ◇


 母は、証文を見なかった。わたくしが差し出しても、受け取らなかった。作業台の上を見たまま、革包丁の柄を握っていた。


「お母様」


「見なくてもわかるよ」


「ご存じでしたか」


 母は答えなかった。答えないのが答えだった。ティルさんが小さく手を挙げた。


「あの」


「なんだい」


「その、二十年前の証文でしたら——ギルドに写しがあるはずでございます」


 部屋の中の三人が、いっせいにその子を見た。


「工房を担保にした借財は、ギルドの承認が要ります。承認したなら台帳に写しが残ります。残っていなければ、承認を経ていない借財ということに」


「ちょっと」


 ヨハンナ様の声が高くなった。


「あなた誰よ」


「書記のティルと申します」


「関係ないでしょう」


「いえ、これはギルドに出す話です」


 言ってから、ティルさんは自分の口を押さえた。


 遅かった。


 ヨハンナ様は証文を取り返して、丁寧に畳んだ。畳みながら、ゆっくり息を吐いた。


「そう。ギルドの話なのね」


「ヨハンナ様」


「わかったわ」


 ヨハンナ様は微笑んだ。この方が微笑むのは、自分が困っていないと人に見せたいときだけだ。六年見てきたので知っている。


「じゃあ、ギルドで話しましょう」


    ◇


 扉のところで、ヨハンナ様は一度止まった。


「お義姉さま」


「もう義姉ではございません」


「あの夜、あなた来てたわよね」


「はい」


「あれ、わたしが呼んだんじゃない」


「存じております」


「お父様が呼んだのよ」


 わたくしは巻き尺を持ったまま、その言葉を聞いていた。


「見せたかったんだと思う。うちが困ってるところ、あなたに」


 そう言って、ヨハンナ様は出ていった。


    ◇


 母は、しばらく作業台の前に座っていた。


「お母様」


「なんだい」


「あの証文は、本物でございますか」


「字は本物だろ」


「では」


「字が本物なら中身も本物か、っていうのは、別の話だよ」


 母は革包丁の柄を離した。掌に、柄の形の跡がついていた。


「あの年、うちは御用達を取り上げられた。取り上げられた年に、あんな額を借りる理由がない。借りたって返せない」


「では、なぜご署名を」


「知らないよ」


「お母様」


「知らないんだ」


 母は、初めて声を大きくした。


「あの人は何も言わずに死んだ。あたしは二十年、なんにも聞けなかった」


 わたくしは黙っていた。母は白湯を一口飲んで、湯呑みを置いた。置いてから、もう一度持ち上げて、また置いた。


「……悪かったね」


「いいえ」


「大きい声を出した」


「はい」


    ◇


 石畳を降りていく足音がした。三歩に一度、右へ寄る。段のところで一拍おく。降りるときに手すりを探す音がして、それから見つからなかったらしく、壁に手をついた音がした。


 わたくしは証文の置いてあったあたりを見ていた。もう紙はない。ティルさんが台帳を抱え直して、小さな声で言った。


「あの、すみません。余計なことを」


「いいえ。助かりました」


「助かる、のですか」


「ギルドで話すことになりました。あの証文は、ギルドの台帳と突き合わせられます」


 ティルさんは台帳を抱え直した。


「……あの、正直に申し上げます」


「はい」


「突き合わせるのは、ギルド長でございます」


「はい」


「ボードマー様は、二十年前に御用達の選から漏れております。選ばれたのが、ヨナス・ハルトマン様です」


 わたくしは、彫りかけの樺を見た。まだ何の形にもなっていない。


「そうでございますか」


「それだけ、お伝えしておこうと思いまして」


 ティルさんは頭を下げて、出ていった。袖が長いので、下げると手が隠れた。外で、壁を伝っていく音が、まだ続いていた。

【今日の一足】三歩に一度、右へ寄る歩き方。——捻ったところは、庇うほうが長く残ります。


 借用証文というのは、書いたほうより持っているほうが強い紙です。二十年しまっておけるのは、いつでも出せるという意味でもあります。


 今度は、素足を見せていただきます。

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