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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第6話 採寸は、お断りすることもございます

 翌日、馬車はまた来た。来ないと思っていたわけではない。来るとも思っていなかった。


 朝から樺を見ていた。棚の一本を抜いて、作業台に立てて、また戻した。二度そうして、三度目に戻すのをやめた。立てたままにしておいた。鐘が三つ鳴ったころ、石畳を叩く蹄の音がした。


 従者が椅子を降ろし、床に据え、腕を貸す。六歩。座る。昨日と同じ順序だった。順序が同じなのは、崩れると困る人の順序だ。


「本日はよろしくお願いいたします」


 わたくしは低い腰掛けを椅子の正面に置いた。採寸のとき、職人は客より低いところに座る。父がそう教えた。足は見上げるものだ、と。


「では、靴を」


 従者が動かなかった。


「……閣下」


 椅子の方は動かなかった。


 わたくしは待った。一つ数えて、十まで数えて、それから二十まで数えた。母が奥で革を裁く音がしている。


「見せろと言うのか」


 初めて、その方の声を聞いた。低くて、思ったより若かった。三十を少し過ぎたくらいだろうか。


「はい」


「俺の足を」


「はい」


「……三軒の店は、紙で作った」


「作れたのでございますか」


 答えはなかった。


「三軒とも、履けなかったのでございますね」


 従者が息を吸う音がした。


「無礼だぞ」


「申し訳ございません」


 わたくしは頭を下げた。下げてから、続けた。


「けれど、履けていたら、四軒目にはいらっしゃいません」


 従者が一歩、前へ出た。


「閣下」


「いい」


 椅子の方が言った。従者は下がった。下がるとき、椅子の肘掛けに手をかけてから離した。この人にも癖がある。主人が口を開くたび、支える用意をしてしまう癖だ。


「ハルトマン」


「はい」


「三軒とも、俺の足を見ていない」


「はい」


「見せなかったからだ」


「はい」


「見せずに済むと思っていた。金を積めば、誰かが正解を当てると思っていた」


「当たりませんでした」


「当たらなかった」


    ◇


 しばらく、誰も何も言わなかった。わたくしは腰掛けに座ったままでいた。立ち上がると圧になる。座っていれば、こちらは何もできない。何もできない者を追い出すのは、案外むずかしい。


「ハルトマン」


「はい」


「紙で作れ。値は三倍払う」


「お作りできません」


「五倍だ」


「お作りできません」


「なぜだ」


「合わないものをお作りして、五倍いただくわけにはまいりませんので」


 椅子の方は、初めてこちらを見たようだった。視線を感じた。わたくしは足元を見ていたので、確かめてはいない。


「合わないと、なぜわかる」


「昨日のお靴を拝見しました」


「あれは王都で一番の店のものだ」


「はい。仕立ては見事でございました」


 わたくしは、昨日その方が入ってきたときの六歩を思い出しながら言った。


「右の爪先の外側だけ、薄く擦れておりました。持ち上げきらずに前へ送ると、そうなります。左の踵は内側が深く落ちておりました。片方で身体を支え続けると、支えているほうが先に潰れます」


「……」


「一年、履いておられませんね」


「半年だ」


「半年で、そこまで参ります」


 わたくしは巻き尺を膝に置いた。


「その靴は、右の足に合わせて作られておりません。右の足が『そうであるはずの形』に合わせて作られております。ですので、右は浮き、左が二人分を引き受けております。このままですと、次に壊れるのは左の膝でございます。そのあとが腰です」


「医者か、あんたは」


「靴屋でございます」


 母が奥から出てきた。手に革包丁を持ったままだったので、従者がわずかに身構えた。母は気にしなかった。


「うちは足を見ないと作らないんだよ、辺境伯様」


「お母様」


「本当のことだろう」


 母は作業台の隅に腰を下ろした。


「うちの人が生きてた頃からそうだ。紙で作った靴は、紙みたいな靴になる」


    ◇


 椅子の方は、右の膝の上に手を置いた。置いて、指を一度だけ動かした。それから、動かさなくなった。


「……見せたら」


「はい」


「見せたら、あんたは何をする」


「測ります」


「それだけか」


「それから、木型を彫ります」


「見て、何か言うだろう」


 わたくしは顔を上げた。初めてその方の顔を見た。日に灼けていた。北の国境の日だ。目の下に薄い傷がある。表情は、思っていたよりずっと若かった。


「何か言われるのが、おいやでございますか」


「同情はいらん」


「いたしません」


「なぜ言い切れる」


「同情は、仕事の役に立ちませんので」


「では、何が役に立つ」


「数字でございます」


 わたくしは巻き尺を膝の上に広げた。父の形見のもので、目盛りが擦れかけている。


「足を測ると、数字が二十ばかり出ます。足長、足囲、踵幅、甲の高さ、指の付け根の角度。それだけでは足りませんので、痛いところを押して確かめます。押した場所も、数字にいたします」


「それを、どうする」


「木に写します」


「木に」


「木は、同情いたしません。三分足りなければ、三分足りないままです。ですので木で作りますと、嘘がつけません」


 その方は、しばらく黙っていた。


「……あんたは、それを六年やっていたのか」


「はい」


「誰のために」


 わたくしは膝の上の巻き尺を巻いた。


「侯爵家のために」


「そう聞いているんじゃない」


「……」


「誰のために測っていた」


 答えられなかった。答えられないことに、そのとき初めて気がついた。


 その方は少しのあいだ黙っていた。それから、立ち上がった。


 右足に体重が乗った。乗ってすぐ、外れた。従者が肘を支えた。


「では、失礼」


「はい」


「世話になった」


「いいえ。何もしておりません」


    ◇


 従者が椅子を畳んで、馬車へ運んだ。母が革包丁の背で作業台を一回叩いた。


「——で、どうすんだい」


「木型の樺を、一本取り置いていただけますか」


「作るのかい。断られたのに」


「はい」


「あんた、六年で商売を忘れたね」


「二度目でございます、それ」


「三度目もあるよ」


「はい」


「あんたが六年ぶんの癖を戻すまで、あたしは何度でも言う」


「六年ぶんの癖」


「客に断られて、材を取り置く職人がどこにいるんだい」


 母は樺をもう一本、棚から抜いて、作業台に立てた。立ててから、こちらを見た。


「二本にするかい」


「……二本で」


「そう言うと思ったよ」


 母は樺を二本、作業台に並べた。


「先に右をやりな」


「難しいものは後だと、お父様が」


「あの人の順序だろ。あんたの順序じゃない」


「……はい」


「難しいほうを先にやって、残った時間で楽なほうをやる。しくじったとき、やり直す時間が残る」


 わたくしは右のぶんの樺を手に取った。まだ何の形にもなっていない。三年寝かせた樺は、切り口が飴色になる。指で弾くと、よく乾いた音がした。母は笑わなかった。わたくしも笑わなかった。


 通りの向こうで、金具の鳴る音がしていた。畳める椅子は金具が多い。石畳の上を運ぶと、角を曲がってからも音が残る。


 その音は、しばらく止まらなかった。

【今日の一足】右は浮き、左が二人分を引き受けている。——次に壊れるのは、支えているほうです。


 靴の採寸で職人が低い椅子に座るのは、実際にそうする店が多いようです。見上げる位置に足を置く。理屈より作法の話ですが、作法にはたいてい理屈の名残があります。


 義妹が来ます。手に、古い紙を一枚持って。


 ブックマークと評価は、木型用の樺材の取り置き代に充てさせていただきます。一本取り置くと、しばらく安心して眠れるのです。

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