第5話 壁際の椅子に、六年前と同じ人がいた
ハンスさんが靴を取りに来たのは、四日後だった。履いてもらって、店の前を三十歩。戻ってきて、また三十歩。二度目のほうが速かった。
「軽い」
「重さは変えておりません」
「いや、軽い」
わたくしは足元を見ていた。左の踵が、ちゃんと先に着いている。
「一月ほどは、右がだるく感じるかもしれません。三年ぶんの癖を戻しますので」
「痛いのか」
「だるいだけでございます。痛かったら持ってきてくださいませ」
「金は」
「修理のぶんだけで結構でございます」
「木型を作ったろう。あれは高いって聞いた」
「高うございます」
「じゃあ」
「その代わりに、足の痛い方を見かけたら、うちの名前を出してくださいませ。そう申し上げました」
「もう出した」
「はい?」
「三人。北の坂の宿屋のおやじと、荷揚げの兄ちゃんと、あと一人」
「あと一人」
「それが今日の客だ」
ハンスさんは帽子の縁を回した。
「宿屋のおやじに聞いたんだよ。宿に長く泊まってる方がいて、靴で困ってるって。うちの区画じゃないんだけど、手紙を一通ことづかった」
「手紙」
「返事はいらない、場所だけ教えてくれと言われた。だから教えた」
「余計だったかい」
「いいえ」
「あのさ」
「はい」
「その人、宿の階段を、日に一度しか降りないらしい」
わたくしは巻き尺を置いた。
「一度」
「朝に降りて、それきり。夕方まで下にいる。夜にまた上がる」
「上り下りが、おつらいのでございますね」
「そう思ったから、教えた」
ハンスさんは帽子を取って、それから被り直した。この人は落ち着かないとき帽子を触る。
「あのさ、靴屋さん」
「はい」
「客を連れてきた」
◇
通りに、黒い馬車が停まっていた。革通りに来る馬車ではなかった。轍の幅が広い。車軸に泥除けがついている。長い距離を走る馬車だ。
従者が二人で、扉から椅子を降ろした。降ろすとき、二人とも一度こちらを見た。店の床を見て、それから、床の平らなところを探していた。畳める椅子は、傾いた床では危ない。
この人たちは、これを何十回もやっている。
畳める椅子だった。革張りで、肘掛けがある。それを店の中まで運び込んで、床に据える。それから一人が馬車へ戻って、腕を貸した。
降りてきた方は、背が高かった。降りてから椅子までの六歩を、この方は誰にも掴まらずに歩いた。歩いたけれど、右足は地面に置いているだけだった。体重が乗っていない。乗せずに前へ送っている。
椅子に座って、それきり動かなくなった。
「アーレンス辺境伯閣下であられる」
従者が言った。
わたくしは頭を下げた。名前は知っていた。北の国境を六年守っている方だ。それから——もう一つ、知っていた。四年前も、その前の年も、王城の夜会で壁際に座っていた方だ。
わたくしはヴェルデン家の嫁として、あの広間の隅に立っていた。踊らない者は壁際に立つ。立たない者は座る。座っている方は、いつも同じ椅子だった。その方が、いま、わたくしの店の床に椅子を据えて座っている。
「靴を一足、お作りいただきたい」
従者が続けた。
「畏まりました。採寸をいたします」
「寸法はこちらに」
従者が紙を出した。畳んだ跡が深い。何度も開いたものだ。わたくしは受け取って、開いた。
足長、足囲、踵幅。数字は丁寧に書いてある。書いた人は素人ではない。けれど、それだけだった。
「これでは、お作りできません」
従者の眉が動いた。
「王都で三軒、同じことを申しました」
「三軒とも、正しゅうございます」
「……何が足りないと」
「足りないものが多うございます」
わたくしは紙を作業台に置いた。
「まず、左右が同じ数字で書かれております。人の足は左右で違います。同じ数字が並ぶときは、片方しか測っていないか、測る気がなかったかのどちらかでございます」
「……」
「それから、これは立った寸法でございましょうか、座った寸法でございましょうか」
「違うのか」
「違います。人の足は、体重が乗ると一分から二分伸びます。伸び方は人によって違います」
従者は紙を見た。それから、椅子のほうを見た。
「あとは、当たっている場所でございます」
「当たっている場所」
「痛いところ、と申し上げたほうがよろしいでしょうか。それは寸法には出ません。触らなければわかりません」
「三軒の店は、そこまで申しませんでした」
「はい」
「なぜ、あなたは申されるのです」
「申さなければ、四軒目もございませんので」
従者は紙を折り直した。折り目のところが白くなっている。何度も開いた紙だ。
「……この紙は、閣下がご自分でお書きになった」
わたくしは、もう一度その紙を見た。数字は丁寧だった。丁寧すぎるほど、揃っていた。
左右が同じ数字なのは、片方しか測らなかったからではない。同じであってほしかったからだ。
わたくしは紙を畳んで、従者に返した。
「大切になさってくださいませ」
「これは、もう要らぬものでしょう」
「いいえ。六年ぶんの記録でございます」
従者は紙を受け取って、懐へ入れた。入れるとき、二つに折り直してから入れた。折り目の位置が変わった。
「……閣下は、ご自分で測られたのですか」
「夜半に、お一人で」
「そうでございますか」
「ご立派なことでございます」
◇
椅子の方は、それまで一言も発していなかった。わたくしは目を上げなかった。そういうときは目を上げないほうがいい。侯爵家で六年、それだけは覚えた。
代わりに、その方の靴を見ていた。仕立ては上等だった。王都の一流の店のものだ。革も縫いも文句がない。
文句があるのは、減り方だった。右の爪先だけ、外側が薄く擦れている。地面をこするからだ。持ち上げきらずに前へ送ると、爪先の外が擦れる。
左は違った。左の踵は、内側が深く落ちていた。片方の足で身体を支え続けると、踵の内が先に潰れる。この靴は、たぶん一年も履いていない。
「閣下の御用は、夜会用でございますか」
従者が答えた。
「登城用だ。来月、王城で叙勲の式典がある」
「立ちっぱなしでございますね」
「……三刻ほどだ」
わたくしは巻き尺を出した。
「では、明日、もう一度いらしてください」
「明日」
「はい」
わたくしは椅子のほうへ向き直った。目は、まだ足元に置いたままで。
「素足で」
◇
馬車が出ていってから、母が奥から出てきた。
「辺境伯様かい」
「はい」
「北のか」
「はい」
母は床を見ていた。畳める椅子の脚は細いので、板に小さな凹みが四つ残っている。
「明日、来るかね」
「わかりません」
「来るよ」
「なぜでございますか」
「あんたが素足で来いって言ったからさ」
「それは、いらっしゃらない理由ではございませんか」
「なるね。普通は」
母は作業台に戻って、革を裁ちはじめた。
「でもあの人は、三軒に断られてから四軒目に来た人だよ。断られるのが嫌なら、三軒でやめてる」
【今日の一足】右の爪先の外が薄く擦れ、左の踵の内が深く落ちている。——片足で支えると、支えているほうが先に潰れます。
登城用の靴と夜会用の靴は別物です。夜会は踊るために軽く作り、登城は立つために作る。同じ人の同じ足でも、用途が違えば別の靴が要ります。この違いは、あとでもういちど出てきます。
翌日も、馬車は来ます。ただし靴は脱いでいただけません。




