第4話 「木型を返せ」と言われたので、法をお読みしました
使いの方は昼前にいらした。家令のフォークトさんだった。六年、毎朝わたくしに献立の確認をしに来ていた人だ。踵の減りは相変わらず均等だった。この人は屋敷の中を毎日おなじ順序で歩く。厨房、食堂、書斎、玄関。順序を変えないので減り方も変わらない。
「奥様——失礼、ハルトマン殿」
「リディアで結構でございます」
フォークトさんは書面を出した。折り目が新しい。今朝書かれたものだ。
「当家がご返還を求めますのは、地下物置より持ち出された木型四十七点でございます。当該木型は、当家が費用を負担した材によって作られたもの。したがって当家の所有に属します」
「読み上げてくださって、ありがとうございます」
「……いえ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「これは、閣下がお書きになりましたか」
フォークトさんは書面の端を見た。
「わたくしが清書いたしました」
「文言は」
「……閣下でございます」
母が奥で革包丁の背を一回叩いた。フォークトさんの肩が少し動いた。
◇
わたくしは棚から一冊出して、作業台に置いた。父の遺した『靴工ギルド規約集』。二十年前の版だが、規約は変わっていない。母が父の道具をどこへやったかは知らないけれど、この本だけは作業台の下に置いてあった。
「第九条を、お読みいたします」
「規約集でございますか」
「王国靴工ギルド規約は、王令第百十四号により法として扱われます。第九条」
わたくしは頁を開いた。
「木型は職人の道具とする。注文主の所有に属さない。材の費用を注文主が負担したる場合も、また同じ」
フォークトさんは黙っていた。
「材のご負担は事実でございます。ですのでこの条の後半がそのまま当てはまります」
「……その、しかし」
「第二項がございます」
「第二項」
「職人は、注文主より請われたるときは、当該木型による靴の製作を拒んではならない」
わたくしは本を閉じた。
「つまりこういうことでございます。木型はわたくしのものです。けれど侯爵家がご注文くだされば、わたくしはお断りできません。断ればわたくしがギルド規約に違反いたします」
フォークトさんは書面を持ったままでしばらく動かなかった。
「……作る、と」
「はい。ご注文いただければ」
「四足でも」
「四十七足でも」
沈黙が長かったので、母が白湯を持ってきた。フォークトさんは受け取って、飲まなかった。
「値は」
「王都の相場でけっこうでございます」
「条件は」
「ございません」
フォークトさんは白湯を置いた。
「……閣下は、お認めにならないでしょうな」
「そうかもしれません」
「頭を下げることになりますので」
「はい」
「……なぜ、四十七足でも、とおっしゃったのです」
「規約にそうございますので」
「規約は、あなたに損をしろとは書いておりません」
わたくしは規約集の背を撫でた。
「フォークトさん」
「はい」
「わたくしがお断りしましたら、あの家はどうなさいますか」
「……他をお探しになるでしょうな」
「見つかりません」
「はい」
「ですので、お断りしないほうがよろしいのです」
フォークトさんはそこで初めてわたくしの顔を見た。
「あなたは、閣下に道をお残しになるおつもりですか」
「道は、法が残しております。わたくしではございません」
わたくしは規約集を棚に戻した。法はあの家に道を残している。使うか使わないかは、あの家が決めることだ。わたくしが決めることではない。
◇
フォークトさんは書面を懐に戻して、それから座り直した。
「一つ、うかがってもよろしいですか」
「どうぞ」
「閣下の右の木型は、なぜ左と作りが違うのです」
「そのようにご指示がございましたので」
「理由は」
「うかがっておりません」
「……そうですか」
フォークトさんは膝の上で手を組んだ。
「六年前、閣下がわたくしに申されました。『あの娘の腕は、外へ出すな』と」
わたくしは巻き尺を巻いていた手を止めなかった。
「わたくしはそれを腕を惜しんでのお言葉と受け取りました。六年、そう思っておりました」
「ありがとうございます」
「昨夜、ご令嬢がお倒れになりました」
「存じております」
「大したお怪我ではございません。ただ、その——」
フォークトさんは言葉を探した。
「大広間の端から端まで、皆が見ておりました」
◇
帰り際、フォークトさんは扉の手前で立ち止まった。
「閣下は、あなたのお父上をご存じでした」
「はい。当家に納めておりましたので」
「いえ」
フォークトさんは帽子をかぶった。
「そういう意味ではなく」
それだけ言って、出ていった。わたくしは扉を閉めて、作業台に戻った。ハンスさんの木型に薄く油を引く。樺は油を吸うので、二度に分けて引く。一度目が乾くまでに、四半刻。
「リディア」
「はい」
「今の、何の話だい」
「存じません」
母はそれ以上聞かなかった。わたくしは油を引き終えて、布で拭いた。
◇
「あんた」
「はい」
「注文が来たら、本当に作るのかい」
「はい」
「あの家のを」
「はい」
母は革を裁く手を止めなかった。
「腹は立たないのかい」
わたくしは少し考えた。
「立ちます」
「そうかい」
「立ちますが、腹の立て方を知りません」
母は裁ち終えた革を持ち上げて、明かりに透かした。透かして目を細めた。
「習わなかったからね」
「はい」
「あたしも教えなかった」
◇
規約集を棚へ戻すとき、頁のあいだに何か挟まっているのに気づいた。紙片だった。父の字で、短い覚え書きがある。
——第九条。道具は職人のもの。腕は職人のもの。名は、店のもの。
三つ目だけ、あとから足したように見えた。墨の色が違う。
名は、店のもの。
父がこの一行をどういう気持ちで書いたのかは、わからない。書いた時期もわからない。二十年前の版の本だから、二十年より新しいことだけは確かだった。
◇
夕方、ハンスさんが寄っていった。
「靴屋さん、聞いたかい」
「何をでございますか」
「舞踏会の話。もう革通りまで来てる」
ハンスさんは帽子を脱いで、扇いだ。
「ヴェルデン侯爵家は、今年は誰とも踊らなかった、ってさ」
「そうでございますか」
「うちの区画のおかみさん連中に、朝から三回聞かされた」
母が奥から「三回かい」と言った。
「三回です」
「じゃあ明日は六回だね」
ハンスさんは笑って、それから少し声を落とした。
「あのさ、靴屋さん」
「はい」
「困ってることがあったら、言ってくれよ」
「困っておりません」
「そうかい」
「あ、それと」
「はい」
「三年ぶんの癖ってのは、どのくらいで戻るんだい」
「一月ほどでございます」
「一月か」
「そのあとは、もう痛くございません」
ハンスさんは自分の足を見下ろして、一度、踵で床を叩いた。ハンスさんは帽子を被って、坂のほうへ戻っていった。走らずに歩いていった。新しい靴は、走らないときのほうが違いがわかる。
【今日の一足】右の外側を厚く盛った木型が一つ。——なぜそう作れと言われたかは、まだ聞いておりません。
中世ヨーロッパの手工業ギルドは、道具の帰属をかなり細かく決めていました。道具は職人のもの、というのはどこも共通だったようです。腕は持ち出せてしまうので、囲い込みたい側は人ごと囲うしかない——という話でもあります。
椅子から立たない客が来ます。




