第3話 夏の舞踏会で、ヴェルデン家だけが座っていた
その人が来たのは、舞踏会の日の朝だった。
「ハルトマンの娘さんかね」
立っていたのは大柄な男で、上等な前掛けをしていた。指の節が太い。革を裁く人の手だ。
「ケルナー靴店のヴィルフリートだ」
名前は知っていた。王都で一番大きな靴店の親方だ。貴族の注文はたいていあの店に行く。
「ヴェルデン侯爵家の木型は、こちらかね」
「はい」
「売ってくれ」
「お売りできません」
ヴィルフリート親方は前掛けの端を握った。それから、握った手を離した。
「今日、四足要る」
「四足」
「侯爵閣下と奥方、次男坊、ご令嬢。今夜の舞踏会だ。三日前にうちへ来た」
「三日前」
「三日前だ」
わたくしは白湯を出した。親方は座らなかった。
「棚を探させたよ。うちにも、他の四軒にも、ヴェルデン家の木型はない。どこにもない。六年ぶん、この家はどこの店にも足を預けていない」
「はい」
「あんたが全部やってたのか」
「はい」
親方は天井を見た。それから短く息を吐いた。
「参ったな」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「三日前にいらしたのは、どなたでございますか」
親方は少し考えた。
「家令だ。フォークトとかいったな」
「ご当主は」
「来てない」
「奥様も、ご令嬢も」
「来てない。寸法を書いた紙を一枚、置いていっただけだ」
「紙」
「紙だ」
わたくしは天井を見た。あの家の誰も、自分の足を店へ持っていっていない。六年、その必要がなかったからだ。
◇
既製の型というものがある。大・中・小、甲の高い型、低い型。それを組み合わせれば、、たいていの足には「なんとか」履ける靴ができる。町の靴屋はそれで足りる。急ぎならそれしかない。
「四刻でございますね」
「四刻だ」
夜会は、踊らない者でも壁際に立って四刻。
「閣下は右の外反が強うございます。既製の甲高型では、内側の縁が親指の付け根に当たります」
「わかってる」
「奥方様は左右で一分違います。左を合わせると右が余り、右を合わせると左が潰れます」
「わかってる」
「ご令嬢は踵が細うございます。既製の踵は皆、五分幅で作りますので」
「……抜けるな」
「抜けます」
親方はしばらく黙っていた。
「うちで受けなきゃ、他が受ける。他が受けたら、同じことになる」
「はい」
「あんたが作ればいいんじゃないのか」
わたくしは首を横に振った。
「わたくしは、あの家の職人ではございません」
親方はそれ以上聞かなかった。この人はたぶん、聞かないほうがいい話だと最初から思っていたのだと思う。
帰り際、扉のところで振り返った。
「あんたの父親を知ってる」
「はい」
「いい職人だった」
母が奥で革包丁の背を一回叩いた。話はそこで終わった。
◇
その日は、ハンスさんの木型を彫っていた。右が長い足だ。親指の付け根で身体を止める癖があるので、そこだけ内側を落とす。落としすぎると今度は爪先が泳ぐ。半分削って、掌で撫でて、また半分削る。
日が落ちた。母が燭台に火を入れた。今度はもう暗かったので、わたくしは何も言わなかった。
扉が鳴ったのは、二刻ほど過ぎてからだった。
「ハルトマン靴店。至急、靴の直せる者を」
王城の使いだった。侍従の下働きらしい若い男で、走ってきたらしく肩で息をしている。
「どちらのお靴でございましょう」
「言えん。とにかく来てくれ。道具を持って」
母が奥から顔を出した。
「行っといで」
「お母様」
「王城の使いを追い返す店は、二度と呼ばれないよ」
◇
王城の使用人口は、大広間の、三つ隣にある。通されたのは配膳の控えの間で、扉が半分開いていた。そこから廊下を挟んで、大広間の端が見えた。
人が踊っていた。音楽は聞こえるのに、床の音がしない。よく磨いた床は、いい靴を履いた人が歩いても、音を立てない。合わない靴は音を立てる。踵が先に落ちるからだ。
壁際に、椅子が並んでいた。四つ並んで、四人とも座っていた。
お義父様は右足を前に投げ出していた。膝から先を斜めに置くのは、親指の付け根に体重をかけたくないときの座り方だ。お義母様は両足を椅子の下へ引いている。あれは左の靴が脱げかけている。エルマー様は膝の上で手を組んで、紐のところを何度も見ていた。甲が高いので、既製の型では紐が締まらない。締まらないから、歩くと中で足が動く。
ヨハンナ様だけが、立っていた。立って、椅子の背に手を置いていた。まっすぐ立つと踵が抜けるので、どこかに掴まっていないといられない。
四刻のうち、まだ二刻も経っていないはずだった。配膳の者が二人、扉のところでささやいていた。
「まだ座ってる」
「あの家、今年は踊らないのか」
「踊らないんじゃないだろ。あれ、立てないんだよ」
夏の舞踏会は、社交年度の最初の夜だ。この夜に誰と誰が並んだかで、その年の一年が決まる。誰と踊らなかったか、も同じように数えられる。壁際の椅子に四人並んで座る家が、来年も招かれるかどうかは、わからない。
もう一人、見知った顔があった。ロートリング伯爵家のご令嬢だ。名前はセシリア様。ヨハンナ様と同じお年で、ヨハンナ様がよく屋敷へお呼びになっていた方だった。
その方は踊っていた。踊りながら、一度だけ壁際のほうを見た。見たのは椅子の四人ではなく、その少し右——エルマー様の座っている場所だった。
エルマー様は、紐のところを見ていた。
「おい、職人」
侍従が小声で呼んだ。
「ヴェルデン家のご令嬢の靴だ。踵の内側が裂けかけている。控えの間で直せるか」
「拝見しませんと」
侍従が廊下へ出て、少しして戻ってきた。後ろにヨハンナ様がいた。
目が合った。
ヨハンナ様は、椅子の背から手を離さなかった。
「……お義姉さま」
「もう義姉ではございません」
「なんでここにいるの」
「呼ばれましたので」
ヨハンナ様は控えの間の中を見た。わたくしの道具箱を見た。それから、自分の足を見た。
「いい」
「ヨハンナ様」
「あなたの手は借りない」
わたくしは頭を下げた。
「かしこまりました」
侍従が何か言いかけたけれど、ヨハンナ様はもう背を向けていた。椅子の背に手を置いて、そこから壁へ、壁から柱へ、掴まれるものを順に伝って戻っていく。
わたくしは道具箱を閉じた。
◇
使用人口を出て、外套の紐を結び直しているときだった。背中のほうで、音がした。
踵が抜ける音は、他の音と間違えようがない。革が床から離れる、乾いた、軽い音。そのあとに来るのは、たいてい人が倒れる音だ。
実際に、そうなった。中で誰かが声を上げた。楽の音が半拍だけ乱れて、それからまた続いた。
わたくしは振り返らなかった。
使用人口の外は、馬車の列だった。どの馬車も、御者が降りて轅のところに立っている。中の客が出てくるのは四刻あとだからだ。
その列の端に、ヴェルデン家の馬車があった。御者は座ったままだった。轅から降りていない。馬はもう、門のほうを向けてある。
四刻待つ馬車の停め方では、なかった。
道具箱の中で、ハンスさんの木型が転がる音がした。彫りかけのまま持ってきてしまったのだ。明日には仕上げなければならない。あの人は明日も坂を下りで走る。
◇
翌朝、扉が叩かれた。母が出て、すぐに戻ってきた。手に紙を一枚持っている。
「あんたに」
紙には、ヴェルデン侯爵家の紋章が押してあった。差出人の名の下に、一行だけ書いてある。
——本日、使いの者を伺わせる。
用件は、書かれていなかった。
【今日の一足】踵幅五分の既製型に、四分の踵。——抜ける音は、他の音と間違えようがありません。
磨いた床の上で、いい靴は音を立てません。踵から落ちる歩き方になると音が出ます。舞踏会の描写で「靴音が響いた」と書くと、書いた本人が思っているより不名誉な意味になることがあります。
使いの方がいらっしゃいます。持ってきたのは、返せという話でした。




