第2話 母は、わたくしの手を見てから顔を見た
荷馬車が革通りに着いたのは、明け方だった。王都の南、川より下。鞣し場の匂いのする通りだ。慣れない人は三日で音を上げる。わたくしは十四までここで育ったので、この匂いを嗅ぐと肩の力が抜ける。
ハルトマン靴店の看板は、六年前と同じ位置に、六年ぶん傾いて掛かっていた。扉を押すと、母が作業台の前にいた。
「まだ彫ってるね」
顔は上げなかった。手元を見たまま、そう言った。
——正確ではない。母はわたくしの手を見てから、顔を見た。職人の癖だ。人が入ってきたら、まず手を見る。手を見れば、その人が何をしてきたかがわかる。爪の際に木の粉が入っているか。親指の腹に胼胝があるか。
「ただいま帰りました、お母様」
「お母様」
母は鼻を鳴らした。
「奥様は、お茶をお飲みになりますか。うちは白湯だよ」
「いただきます」
母は立ち上がって、竈のほうへ行った。歩き方は昔と変わらない。左の膝を先に出す癖も、そのままだ。離縁のことは聞かれなかった。荷馬車が明け方に着いた時点で、聞くようなことは何もないと思ったのだろう。
母は白湯を二つ置いて、椅子に座り直した。それから革包丁の背で作業台を一回叩いた。この人の話は、いつもここから始まる。
「——で、足は?」
「足」
「あんたが六年、何を彫ってたかって話だよ」
「四十七でございます」
「四十七」
母は目を細めた。
「侯爵家は四人だろ」
「ご家族のぶんが四。あとは、あの家がお招きになる方々のぶんでございます」
「招いた客の足まで測ってたのかい」
「はい」
「あんた、それは工房一軒ぶんの仕事だよ」
「はい」
母は白湯を飲み干して、湯呑みを置いた。置くとき、少し音が大きかった。
「六年で四十七。一年に八足。彫って、直して、また直して」
「はい」
「それで、あんたの名前は一つも出てないんだね」
わたくしは湯呑みを両手で持っていた。まだ熱かった。答えないのが答えになることがある、というのも、この人から習ったことだった。
◇
木型を運び入れるのに、二人で二刻かかった。四十七。麻布を解かずに、父の棚へ順に並べていく。棚は三段あって、上の一段が空いていた。父が死んでから、母はそこに何も置いていない。
「そこ使いな」
「よろしいのですか」
「空いてるだろう」
母は一つを手に取って、掌で重さを量った。
「重いね。樺だ。いい材を使ってる」
「侯爵家の材でございます」
「あんたの手間は誰の材だい」
わたくしは答えなかった。母もそれ以上言わなかった。母は木型を鼻先まで近づけて、削り面を見た。ずいぶん近い。昔はもっと離して見ていた。
「お母様」
「なんだい」
「お父様の道具は、どちらに」
母は木型を棚に戻した。
「その話はいい」
それだけだった。母は作業台へ戻って、革を裁ちはじめた。
父のヨナス・ハルトマンは、二十年前に死んだ。侯爵邸の裏階段から落ちたのだと聞いている。わたくしは七つで、葬式の日に何を着ていたかも覚えていない。覚えているのは、その日から母が父の話をしなくなったことだけだ。
◇
昼過ぎに、扉が鳴った。
「靴屋、開いてるかい」
立っていたのは配達人だった。三十半ばくらい。革の鞄を右肩に掛けて、帽子を脱ぐ前に足を戸口に入れている。急いでいる人の入り方だ。
「開いております」
「じゃあ、修理を。踵が」
わたくしはその人の靴を見た。それから、少し長く見た。
「ハンスさんとおっしゃいますか」
「なんで名前を」
「鞄に縫ってございます」
「ああ」
「坂を、下りで走っていらっしゃいますね」
ハンスさんは帽子を持ったまま止まった。
「荷は右肩。ずっと右肩だけです」
「……なんでわかる」
「右の親指の付け根が潰れています。下りで走ると、そこで身体を止めるからです。それから、左の踵は外側の減りが浅い。右肩に荷を担ぐと身体が左へ傾くので、左足は踵から着けなくなります。爪先から着いている」
ハンスさんは自分の足を見下ろした。それから、片方を持ち上げて裏を見た。
「三年、痛かった」
「三年、我慢なさったんですか」
「靴なんてそんなもんだと思ってた」
「そんなものではございません」
言ってから、少し強かったかと思った。ハンスさんは笑わなかった。帽子を胸のところで持ち直して、椅子に座った。
「測ってくれるのかい」
「はい。両方とも」
◇
巻き尺は父の形見のものを使った。足囲、足長、踵の幅、親指の付け根から小指の付け根までの角度。左右で四分違った。右が長い。人の足は左右で違うのが普通で、揃っているほうが珍しい。
足は、体重が乗ると変わる。だからまず座ったまま測って、それから立っていただいて、もう一度測る。ハンスさんの足は、立つと右が二分、左が一分半伸びた。伸び方が左右で違うのは、左に体重を乗せきれていないからだ。
「押しますので、痛かったらおっしゃってくださいませ」
わたくしは親指で足の裏を順に押していった。踵の内、踵の外、土踏まず、指の付け根。
「そこ」
右の親指の付け根だった。
「いつからでございますか」
「……三年」
「三年前に、何かございましたか」
ハンスさんは少し考えた。
「配る区画が変わった。北の坂のほうだ」
「坂は、上りと下りとで、どちらが多うございますか」
「下りだな。荷が重いうちに下って、軽くなってから上がる」
「順序が逆でございます」
「え」
「重い荷で坂を下ると、止まるたびに、足の前へ体重が全部乗ります。軽くしてから下るほうが、足はもちます」
ハンスさんは口を開けて、それから閉じた。
「……そんなの、誰も言わない」
「靴屋しか見ないところでございますので」
紙に写しながら、母が横から覗いた。
「——で、いくら取るんだい」
「お母様」
「大事なことだよ」
「修理と、木型を一つ」
「木型を作るのかい。配達人に」
「はい」
「あんた、六年で商売を忘れたね」
ハンスさんが笑った。わたくしは巻き尺を巻いた。木型があれば、その人には二度と合わない靴が要らなくなる。一度作れば十年もつ。だから木型は高い。高いから、配達人は買わない。母の言うとおりだ。
けれどこの人の足は、あと三年同じ靴を履いたら、指の骨が動く。そうなったら、どんな木型でも間に合わない。
「お代は、修理のぶんだけで結構です」
「そういうわけには」
「では、こうしましょう」
わたくしは紙を折った。
「歩いていて、足の痛い方を見かけたら、うちの名前を出してくださいませ」
◇
夕方、母が燭台に火を入れた。窓はまだ明るい。革通りは西向きなので、この時刻は作業台に日が差す。灯りは要らない。
「お母様」
「なんだい」
「まだ明るうございます」
「暗いよ」
母は手元を動かしながらそう言った。裁ち目はまっすぐだった。まっすぐだったので、わたくしはそれ以上言わなかった。
しばらくして、母が手を止めた。
「明後日は、夏の舞踏会だろ」
「はい」
「ふうん」
母はまた革を裁ちはじめた。わたくしは棚の木型を数え直していた。四十七。合っている。
【今日の一足】右の親指の付け根が潰れ、左は爪先から着いている。——荷を担ぐ肩は、反対の足に出ます。
職人が人の手を先に見るのは本当のことだそうで、靴屋は足、鍛冶屋は指の節、写字生は中指の胼胝を見るとか。目の高さがそれぞれの商売で決まっている、というのは少し面白い話だと思いました。
明後日は、夏の舞踏会。わたくしは行きません。




