第1話 旦那様の踵が、左右で入れ替わっております
この国の貴族の靴は、木型で決まります。
木型を彫った者が、その家の歩き方を握っている——という話です。
「離縁したい」
旦那様がそう言ったとき、わたくしはその人の靴の踵を見ていた。
右の踵が、外へ二分。左が、内へ一分半。三月前に測ったときは、逆だった。
人の踵は、そう簡単に減り方を変えない。変わるとしたら、歩く道が変わったときだけだ。別の階段を、別の速さで、毎晩降りている。そういう減り方だった。
だからわたくしは、驚かなかった。驚かなかったことが、いけなかったのだと思う。
「聞いているのか、リディア」
「はい」
「靴を見るな」
わたくしは顔を上げた。
応接間には四人いた。旦那様のエルマー様。その隣にお義父様——ヴェルデン侯爵閣下。窓際にお義母様。扉の手前に、書面を持った家令。顔を上げても、わたくしの目は勝手に下へ戻る。六年やっていると、そうなる。
お義母様の靴は、左だけ内側の縫い目が伸びている。この方の足は左右で一分違うので、放っておくと左が先に潰れる。お義父様は右を庇って立っている。家令の踵は均等だ。この人は毎日、同じ道を同じ速さで歩いている。
義妹のヨハンナ様は廊下にいた。姿は見えないが、足音でわかる。あの方は立って待つとき、必ず右へ体重を寄せる。踵が細いので、まっすぐ立っていると靴が抜けるからだ。
「条項を」
お義父様がそう言うと、家令が紙を開いた。
「持参財はご返還いたします。慰謝料はございません。離縁の事由は、ハルトマン家側にあるものといたします」
「事由」
わたくしが繰り返すと、家令は目を伏せた。
「六年、お子がございませんでした」
窓の外で馬が鳴いた。誰も何も言わなかったので、その音がずいぶん長く聞こえた。
「不服か」
お義父様の声は低い。責める調子ではない。書類の不備を指摘するときと同じ調子だ。
「いいえ」
「そう言うと思っていた」
お義母様が窓のほうを向いたまま言った。
「あなた、泣かないのね」
「はい」
「六年、一度も泣かなかった」
「申し訳ございません」
「謝ることではないでしょう」
お義母様はそれきり何も言わなかった。この方はわたくしを嫌ってはいなかったと思う。ただ、どう扱えばいいのか最後までわからなかったのだと思う。
わたくしは、膝の上で手を重ねた。左の親指の腹に、まだ木の粉が残っている。今朝まで彫っていたからだ。ヨハンナ様の秋の靴の木型を、踵の抜けない形に直していた。
「では、一つだけお願いがございます」
「言え」
「木型はお返しいただけますか。あれは、わたくしの道具ですので」
お義父様は一瞬、意味を取りかねる顔をした。それからごく短く笑った。
「木の塊だろう。持っていけ」
「ありがとうございます」
わたくしは頭を下げた。エルマー様が椅子の背にもたれて、天井を見た。
「お前は」
「はい」
「お前は、靴の話しかしない」
そのとおりだった。わたくしはこの六年、この家で、靴の話しかしていない。
◇
貴族の靴は、木型で決まる。
足の形を測り、それと同じ形を木で彫る。それが木型だ。靴は木型に革をかぶせて作るので、木型が正しければ何足でも合う靴ができるし、木型がなければ、どれだけ良い革を使っても合わない。
既製の型というものもある。大・中・小、甲の高い型、低い型。町の靴屋は、それで足りる。けれど貴族の足は、既製の型では足りない。
立ち続けるからだ。
王城の謁見は二刻。式典は三刻。夜会は、踊らない者でも壁際に立って四刻。合わない靴で四刻立つと、翌朝は階段が降りられない。だから貴族の家は、家族全員ぶんの木型を靴店に預けておく。誰かが一足注文すれば、店はその木型を棚から出して作る。
ヴェルデン侯爵家の木型は、王都のどの靴店の棚にもない。
六年前、わたくしが嫁いできた日から、この家の靴はぜんぶわたくしが木型を彫っていた。父の工房で十四のときから彫っていたので、腕はあった。だからこの家に嫁いだのだ、と気づいたのは三年目だった。
木型には、彫った職人の刻印を打つ。わたくしのものには、何も打っていない。
「うちの抱えの職人が彫っている」
お義父様は客にそう説明していた。抱えの職人には名前がない。名前がないほうが、家の手柄になる。
◇
荷物は、少なかった。衣装は置いていった。もともと侯爵家の物だ。持っていくのは着替えが二枚と、父の形見の巻き尺と、それから木型。
地下の物置に、棚が三段。わたくしは一つずつ手に取って、麻布に包んでいく。木型は人の足の形をしているので、包むと赤ん坊のようになる。四十七ある。この家の四人ぶんと、この家が「便宜を図りたい相手」ぶんだ。侯爵家に招かれると、なぜか靴が合う。そういう評判が、この六年で王都に定着していた。
包みながら、指が勝手に内側をなぞった。木型の内側は、外から見えない。だからそこには、何を彫っても誰にも見つからない。わたくしは六年間、そこに彫り続けていた。
これが何なのかは、まだ誰も知らない。
二段目にエルマー様の木型があった。三月前に踵を直したときの削り跡が、まだ新しい。あのとき、右の外側が減っていたので、外を厚くした。いまはその逆になっている。つまりこの木型は、もう合わない。
わたくしはそれも包んだ。
最後の段に、お義父様の木型があった。右と左で、作りが違う。左は普通だ。右は、外側の縁を厚く盛ってある。三年目に「右だけ特別に作れ」と言われて、そのとおりにした。理由は聞かなかった。聞いてはいけない気配があったからだ。
わたくしはその一組も、同じように麻布で包んだ。
「まだ終わらないの」
階段の上からヨハンナ様が降りてきた。三段目で手すりを掴む。この方は下りが苦手だ。踵が抜けるからだが、本人はそう思っていない。
「あと少しでございます」
「そんな木の塊、置いていけばいいのに。かさばるでしょう」
「かさばります」
「じゃあ置いていきなさいよ」
「いいえ」
わたくしは包みを籠に入れた。ヨハンナ様は、少しのあいだ黙っていた。
「……お義姉さまって、そういうところが」
「はい」
「なんでもない」
ヨハンナ様は上へ戻っていった。踏み外す音が一度した。
◇
荷馬車が門の外に停まっていた。夜になっていた。使用人が二人がかりで、籠を積んでいる。麻布に包まれた足の形が、荷台の上で山になった。
「四十七」
数えていたのは家令だった。手元の紙と照らしている。持ち出し品の確認だ。
「四十七で相違ございません」
「……ずいぶん多いな」
「六年ぶんでございます」
家令は何か言いかけて、やめた。それから紙を巻いて、少しだけ声を落とした。
「奥様」
「もう奥様ではございません」
「明後日は、夏の舞踏会でございます」
わたくしは荷台の縁に手をかけたまま、その人の靴を見た。応接間で見たときと、同じ減り方だった。六年間、ずっとそうだった。
「そうでしたね」
わたくしはそう言って、荷馬車に乗った。
【今日の一足】右の踵が外へ二分、左が内へ一分半。——道が変わると、踵から先に変わります。
木型は実在の道具で、いまも靴はこれを芯にして作られます。英語ではラスト。「最後」ではなく「足跡」のほうの語源だそうです。
六年ぶりの実家へ帰ります。母は、娘の顔より先に手を見る人です。




